某F1関係者のコメントを掲載します。


ここにスーパーアグリの真実、琢磨の人生を狂わせた

イギリスサイドの陰謀が書かれています。

私もこの事実は知ってましたが、やっと事実をある方が

書いてくれました。

それにしても、ホンダというF1チームは史上最低の

チームになりました。今の成績でもヘラヘラ笑えるくだ

らないチーム。悔しい。どうしてここまでイギリス人は

日本人を馬鹿にするのか。

でも一番だらしなく最低の管理者は、ホンダの馬鹿

社長です。どんなに世間から馬鹿だアホだと思われ

てもイギリス人の言いなりで何百億のお金を溝に捨

てる感覚異常です。


どうしようもない経営者がスポーツに手を出すと

最悪の結果です。


即座にホンダワークスは今の体制なら撤退する

べきです。それができないなら、イギリス人管理職の

首を切り日本人の管理者を入れない限り再生不可能。


悔しい。ホンダの落胆に





夢が潰えないために

SAF1ブログもSAF1チーム同様にその役目を終えると

きが近づいてきました。次の更新をもってひとまず幕を

下ろさせて頂きます。多くの方々からのメッセージを頂

きましたことを心より感謝致します。プレ最終回の今回

は、筆者の目で見たSAF1の成り立ちから今日に至るま

での過程にスポットを当てることにしました。

midashi
琢磨のために創られたSAF1。

 スーパーアグリは、間違いなく、佐藤琢磨のために創られ

たチームだった。チームは琢磨を信じ、しかし琢磨に寄りか

かることなく、琢磨に負けず“レースを戦う”自分たちを目指した。
 2005年9月、ジェンソン・バトンのB.A.R.残留が発表された時、

琢磨はチームのPR活動を行なっていた。翌日、サンパウロの

パドックに到着してすぐ、彼はメディアの前で「テストドライバー

に戻るつもりはありません」ときっぱり言った。「テストで学べる

ことは、2003年の1年間で十分に学べたと思うから」と。
 サンパウロのパドックは騒然とし、地球の裏側、日本ではファン

の抗議がホンダに殺到。ホンダのモータースポーツ上層部は、

急遽、対策を考えなければならなくなった。そこから生まれたの

が、日本発のプライベーター“スーパーアグリ”である。
 こうした筋書きはすでに広く知られているが、2005年当時から

(そして今も)理解に苦しむのは、B.A.R.が8月という早い段階で

ルーベンス・バリチェロとの契約を発表してしまった点だ。05年、

フェラーリでナンバー2ドライバーを務めていたバリチェロは、

しばしば同胞のジル・ド・フェラン(当時のB.A.R.スポーティング

ディレクター)のもとを訪れ、ミハエル・シューマッハー至上主義

のフェラーリに対する不満を述べていた。しかしバリチェロを望む

チームが他になかったことを考えると、選択権はホンダにあり、

契約を急ぐ必要もなかったはずである。ホンダは何故、エンジニ

アの意見を訊ねることもなく、8月にバリチェロとの契約をコンファ

ームしたのだろう?
「フェラーリが早くマッサを発表したいというので」------当時の

ホンダのマネージメントからの、意味不明の返答である。
 日本のファンの多くは、琢磨がシートを失った原因はジェンソン・

バトンにあると考えた。タバコ広告の禁止を前に、B.A.R.の将来に

不安を抱いた彼は“恩師”フランク・ウィリアムズと翌年の契約を

交わしてしまった。しかしその後、ウィリアムズの経営難が表面化、

一方でB.A.R.はホンダの所有となることがわかると一転「やっぱり

ホンダに残りたい」と態度を変えた。
 B.A.R.がバトンの願いを叶えて残留を望む中、ウィリアムズの

契約は“絶対に破棄できないほど鉄壁”と伝えられた。バトンの気

まぐれは責められても仕方がないが、ホンダにも落ち度はあった。

B.A.R.が100%ホンダになるという計画を、早い段階でバトンに打ち

明けていなかった点である。複数の証言から私たちプレスにさえ

容易に推測できる流れであったのに、バトン本人には伝わっていな

かったのだから。
 何故、ホンダは「我々の希望はバトン/琢磨のコンビです」と繰り

返しながら、バリチェロとの契約を承認したのだろう? 結果、バトン

には残ってほしい、琢磨は他メーカーに取られたくない、しかし残る

シートはひとつ、というジレンマを自ら生み出してしまったのである。
 バトン残留の可能性は極めて低い

------琢磨は「06年は琢磨/バリチェロ」のラインナップなのだと聞

かされ続け、他チームと交渉するチャンスを失っていった。
 しかし、ニック・フライと彼の派閥が目指していたのは、最初から

バトン/バリチェロの組み合わせだったのだ。
 05年のサンパウロでバトンをインタビューした際、“自分の心変わ

りのせいで琢磨がシートを失った”という責任感が微塵も感じられな

いことに違和感を抱いた。「ホンダは、速いドライバーがふたり必要

なんでしょう?」------まったく悪気なく、彼はさらっと言った。チーム

から「最優先はバトン/バリチェロ」と聞かされていたのなら、無理もな

かったのかもしれない。
 B.A.R.は、ホンダに対しては「ジェンソン残留の望みはほとんどない」

と伝え「琢磨ひとりでは不安」と言ってバリチェロと契約した。琢磨に

対しては「琢磨/バリチェロでいくから、あと少し待ってほしい」と繰り

返し、自分たちの中では「バトン/バリチェロが最優先」として、バトン

残留のために全力を注いだ。中心で操作していたのがフライである。
 05年の琢磨が不調であったことを考えると、自動的にチームに残

ることは難しかったかもしれない。しかし誰も納得できないのは、こう

した不正直なやり方である。
「僕たちにとって不運だったのは、優れたマシンを手にした04年が、

琢磨にとってB.A.R.での1年目だったことだ。あれが2年目なら、僕ら

は勝てたのに・・・04年の彼はチームのやり方を一から学ばなけれ

ばならなかった」
 03年鈴鹿から05年まで琢磨のレースエンジニアであったジョック・

クリアは言った。
「そして琢磨の2年目、05年のマシンはけっして優れたマシンとは言

えず、僕らは苦労することになった。ああいう年には、ドライバーの

実力は判断できない。だって、ドライバーは自分が走りたいかたち

で走れていないわけだから」
 2000年、イギリスの寵児としてF1デビューを果たしたジェンソン・

バトンも翌2001年、ベネトン(ルノー)での1年目には大きなスランプ

を経験している。だからこそ、競争力の低い05年のB.A.R.007でもそ

つなくレースをまとめることができたのだ。同時に、琢磨に対しては

彼なりに強いライバル意識を備えていた。02年の鈴鹿、琢磨が6位

(最終結果は5位)にポジションを上げた時、黄色に揺れるサーキット

で悔しさをかみ締めながら琢磨の後ろを走ったのは、バトン自身だっ

たのだから。偏った政治やイギリス優先主義が介入しなければ、

琢磨/バトンは成長のために必要な自我もコンプレックスも触発し

合えるコンビネーションだったのだ。
 一方で、11億円もの金額を支払ってバリチェロと契約をするにあ

たって(現在、琢磨に関してホンダが口にしているような)エバリュ

エーション=能力評価はなされていなかった。
「たとえシューマッハーが相手でも、ナンバー2で甘んじてきたドライ

バーがチームを率いることは期待できないんです」と、バリチェロと

の契約に驚いたエンジニアは言った。
 スーパーアグリの純粋なファンは、こんな不快な過去など耳にし

たくないと思う。あえてそれを記すのは、スーパーアグリは佐藤琢磨

のために創られたチームであり、ホンダが鈴木亜久里に無理を頼

んだ結果生まれたチームであったことを、再確認するため------

亜久里がF1参戦への協力をホンダに打診したのは05年2月で、

ホンダは同じ年の7月にすでに、正式に「却下」の返事を伝えている。

翌年に参戦する準備を考えると、その時点で時間切れ。亜久里の

心から06年参戦の希望は消えていた。

midashi
亜久里からHRF1伝えて欲しいSAF1の魂。

 05年9月末から始まった「新チーム立ち上げ」の動きは、亜久里

がもともと考えていたものとは違う、別のストーリーだった。10月の

日本GPの際、ホンダが公言した「フルサポート」が本物の全面的

支援でないかぎり、彼が不可能なこの挑戦を受け入れることはな

かったはずだ。エンジンだけではなく、ギアボックスも車体も、無償

に近いかたちで供給されてこそ、チームは健全な運営が可能になる。
 スーパーアグリが撤退した直接の原因は資金難とカスタマカー問題

だが、ふたつの自動車メーカーが関連企業以外の大きなスポンサー

もなく、自己資金でF1活動を行なっているのが日本なのだ。マイルド

セブン以外、F1をスポンサードした成功例がない国で、小さなプライベ

ーターはいったいどんなふうに企業の広告担当者を説得できただろう?
 そしてホンダF1の予算を握るフライは、05年のホンダの約束を

守っただろうか。資金難に陥ったスーパーアグリについて「100億円も

の負債がある」と情報を流したのは彼だが、その大半がホンダに対

するもの。技術協力としてカバーされるはずの要素、たとえばカスタ

マーカーの使用にさえ35億円という請求書を起こした結果が“100億円”

の負債なのだ。亜久里やダニエル・オーデットがチームの存続を

目指して新しいパートナー、あるいはオーナーと交渉する際にも、

この金額が妨げとなったことは明らかである。彼が紹介したマグマ/

DICによるオファーは夢のような話で、事実、突然に消滅した。

「過去の借金は負担しない」とした上でチームの存続を約束した

ヴァイグル案のほうがずっと現実的だった。スーパーアグリは、

ホンダの全面支援を約束されて誕生したチームなのだから。
 一方で、参戦当時の鈴木亜久里がこう繰り返したのも当然。
「琢磨のために作ったわけじゃないよ。追い風にはなったけど(笑)」
 ドライバーよりもずっと長期計画でチームを発展させていく

立場では、琢磨の後の世代も考えなければならない。同時に

「もし琢磨がトップチームから誘われたら、気持ちよく送り出すよ。

俺だってドライバーやってたんだから」という、彼らしい心構え

でもあった。
 スーパーアグリの撤退に際して残念だったのは、ホンダの中にも

数多くいるSAF1応援派“亜久里さんのチーム、頑張ってるよね!

”“うちも負けてる場合じゃないよね”という純粋なレース屋さんたちの

存在が埋もれてしまったこと。栃木研究所サイドから見ると、スーパー

アグリはイギリスの束縛を受けずに自分たちの技術にトライするチャ

ンスであり、いい意味でワークスチームに刺激を与える場であった。

現場では、SAF1担当のエンジン屋さんたちがSAF1のメンバー同様

に小さなチームを必死で育てたのである。
 06年の中国GPでは、(正式にはHRF1担当の)ホンダの電気屋さん

が、SAF1のガレージで“暴れた”事件もあった。
「いつまでたっても家庭の電気みたいな配線してるから、いい加減に

しろ!って言ったんです。前から言ってたのに、ここでちゃんとしない

と鈴鹿で完走できないよ、って。なのに(SAF1のエンジニアは)“時間

がなかったから”なんて言うから、そんなんだったらもういい!って

言って、全員の首根っこつかまえて“帰るぞ!”って、ホンダは本当

に引き上げた(笑)。ウチの若い子たちは、びっくりしてたけどね」
 というのは、暴れた本人の言葉。
「ああいう熱い人って、いいよね」
 体育会系のノリに少しびっくりしながら、亜久里は言った。時間が

ないのは本当なのだ。しかし彼はしっかりと、電気屋さんのエールを

受け止めていた。
「本気で僕らのことを考えてくれてるってことだからね」
 その夜遅くまでかかって、SAF1はF1マシンに相応しい配線を完成

した。06年最後の3戦、彼らが上海~-鈴鹿~サンパウロで上昇曲線

を描いた背景には、こんなレース屋さんの“愛の鞭”もあったのだ。

栃木研究所には、SAF1を邪魔者扱いする人間などひとりもいなかった。

08年トルコGPでは、HRF1がバリチェロ257戦記念のお祭り騒ぎを繰

り広げる傍らで、SAF1撤退に涙ぐむホンダのメンバーもいた。ファン

と同じ温度の涙である。
 スーパーアグリのメンバーのおよそ20人、主にデザインチームの

エンジニアたちは、すでにHRF1で仕事を始めている。管財人の下、

新しいオーナーが見つかってSAF1ベースのチームが復活すれば、

彼らはきっとリフィールドに戻ってくる。あるいは、それが叶わない

なら、ホンダはフライの後任に鈴木亜久里を迎え、SAF1のメンバー

を迎え、彼らの精神=ファンが夢見たホンダの精神を、HRF1に注ぎ

込んでほしいと切実に願う。F1がファンの楽しみであるため、世界

が憧れたホンダがセナの時代と同じように日本の誇りであるため、

必須の選択である