盲亀浮木(第178You Tube(ニーチェ)、小林秀雄との真昼の決闘)(#13)
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You Tubeを立ち上げた
対談に参加したい人は、
⓵ 木庵のメールアドレスをクリックする。

メールアドレス:takaonaito03@gmail.com
⓶ どのようなトピックス、日時などを木庵と話し合う。
⓷ 実際にズーム上で対話をおこなう(自動的に録画できるようになっている)。
⓸ ズームで録画したものを、You Tubeに移動(木庵の作業)
⑤ 出来上がったYou Tubeのアドレスをブログに掲載。
⓺ You Tubeのアドレスをクリックすると、誰でも対話の様子が見れる。

*顔を隠したい人、仮の名前でもよい(勿論木庵の顔はだす)。

*二人以上もできるが、40分でズームは切れる(延長する場合は、再開する必要あり)。


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木庵のZoomミーティングに実際に参加する場合:

下のURLをクリックする。

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*URLをクリックするだけで、ミーティングルームに入れる(ミーティングID、 パスコードの入力は必要ないよう)。
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木庵の般若心経(3回目)
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htptps://youtu.be/ZRq3bKOLgLQ
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第178You Tube(ニーチェ)
https://youtu.be/QL-ZqONHDa0

最後の問題点について、永遠に返るという原理を述べなければならない。ニーチェによれば宇宙の歴史は繰り返し、繰り返しが永遠に続いた。このことを信じることは正当性は以下の理由からである。もし宇宙が終りなく存在し続けるとし、物質が有限だとすると、ある時点において、過去のある時に起きたことと全く同じことが起きるに違いない。もし因果の法則が完全に決定されているとするなら(これは科学が主張している)、宇宙は繰り返し、終りなく、同じことを繰り返していることになる。以前嘲笑した論理学や科学に二ーチェが依存しているという馬鹿げてたことが起きている。本当の問題は、どこで、どのようにしてこの議論が全体的な彼の説と合致しているかということである。おそらくどこでも、ここでも、瞬間的な風変りな飛行以上のようなものを発見できないであろう。ニーチェが道徳テストとして持ち出す一つの説がある。カントは我々は普遍的な法に基づく行為をすべきだと提案する。ニーチェは同じことを繰り返し繰り返しするような行為があることを言うだろう。

ニーチェは一般的な聴衆者を歓喜させたただ一人の哲学者である。彼のファンは簡単にステレオタイプ化する。彼の不安は若者やオタクが多いということである。彼のファンは、だれもが理解できないような、評価できないようなことを感じる。彼らは怒り、孤立化する。ニーチェは言っている。「私は貴方を理解する」、「私は貴方の痛みを私も感じる」と。ニーチェは思春期の多くの若者を救った。望むことは、若者が成長し、ニーチェをもはや必要としなくなることを。私(カーター先生)は最後の観察を謝らなければならない。これはあまりにも隠されたad hominem slur(人道的中傷)の響きがありすぎるようだ。ニーチェはそれ以上に素晴らしく、重要である。もしある人がニーチェの誇張を取り除くなら、ニーチェは刺激的な生命論を明瞭化している。この生命論の明瞭化によって、彼の多くの競走相手に対して、より真実に近い論考を提出することになる。

全ての哲学者にとって、ニーチェは本当に議論の対象であり、問題が多すぎる。
このことは、彼の書くスタイルによる。ニーチェの言う全てのことは、少なからず刺激的である。刺激的なのを選ぶのは、全ての哲学者の言及があまりにも退屈だからである。しかし、面白くすることは意味があるのか?

もう一つの問題は、ニーチェは知的破壊鉄球をもっていることである。彼は過去から全てを破壊したいのである。これは少ない羽を立てて怒っている鳥のようである。彼の最後の10年は、完全に狂っていた。彼の人生を通して、狂気に触れていたことは推測できる。しかし、狂気が作り出すものと、正常なものが作り出すものの違いは何なのだろうか? ニーチェが言ったことは、全てネガティブなことなのだろうか? 「世界は理解を超える」とは、よく言われる。ということは、狂人だけが真実を見ることができるのであろうか? 文学において、偉大なる占い師は盲目である。そのために真理を見ることができるのだろうか? 
もし我々がニーチェを哲学者ではないと否定すれば、結局は彼をやっつけることにはならない。彼は占い師として再び現れるであろう。
おわり


小林秀雄との真昼の決闘#17
<7月の木庵の句>
・竹筒を流れて早し冷(ひや)そうめん(4点)
・子地蔵に優しき愛や百合の花(4点)
・父母想うわれ水無月に生まれたり(元:父母想う我生まれたり水無月に)
・我と来て遊べと言いし噴水や(盗作ぎみ)
・冷奴山寂として永平寺(2点)
今回出席者(6名)中、最高点の10点を取った。メール参加者を含めて、2位である。なお一位は13点であった。
  
  なお、句評を書いてくれと頼まれたので、以下のものを書いた。

私の好きな句
目を閉じて深呼吸して立夏かな   TS
「なぜ深呼吸」、「なぜ目を閉じるのですか」、「それがどうして立夏と結びつくのですか」と思うのだが、どこか引かれてしまう句である。TSさんという人を全く知らない。「目を閉じて、深呼吸までして思うこと、思い出すこと、決意することって、なんですか」と声をかけたくなる。季節の区切りに、目を閉じて、深呼吸して、何かを感じられる作者が気になる。そういえば、近頃の私は、目を閉じて、深呼吸して、考えたり、思ったりすることがなくなった。惰性で、成り行きで人生を歩んでいる私にとって、この句はとても新鮮に映る。
木庵

「悧巧なら悧巧なほど、鋭ければ鋭いほど、いよいよ誤り、真理から遠ざかるもので、遂には誤って、私の原理と信じ込んだものの上に、無法極まる哲学を作り上げる機会を捉える」だろう。確信というものには、言葉を超えるものがある。自分の全く単純な確信のうちでは、『私』と『存在』との間に区別などありはしないが、原理の形で表現すれば、『我れ思う、故に我れ在り』というような拙劣な形を取らざるを得ないし、又、『私』という言葉にしても、他に言葉がないから使うものの、自分の確信のうちでは、デカルト個人を指すとともに、これを超える何者かを指している。そんな事を、デカルトが言うと考えてみてもよい、少しも差し支えのない事でしょう。この思想家が、『方法の話』という『身の上話』で、あれほど気を使って、読者に示そうとしている、彼の思想の足どりに添うて考えれば、前にも言ったように、彼の思想の動機、発想の側から見るならば、彼の哲学は、決して体系とは成り得ない。成り得ないどころか、それに反抗したものだという事がわかるでしょう」


木庵の反応
<この箇所も、「己から発するものを信じなさい」というメッセージのように映る。体系化された学問、オートリティー化されたもののまやかしをついている。要するに、己を介さないものは駄目だというのである。己という、それも確かな己を通した考えというものでないと本物にはなりえなえない。本物に到達するためにも、「確固たる己を築くことが大事である」と、デカルトは、小林は言っているように思える。木庵>

「『コギト』は、合理的に世界を再建する為に、デカルトの頭脳の工夫によって生れ出た観念ではない。彼は『コギト』という、これ以上純粋な、直接な、疑いようのない形の経験はない、そういう経験から出発したというだけなのです。『メディタシオン』の中に『コギト』の定義があります。『私とは何者であるか。思う物『une chose』である。思う物とは何か、疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せず、又、想像し感覚する物である』と。・・・・彼の言う『思う』とは、何か特別の思い方を指しているのではない。彼の定義どおりに受け取れば、思うとは意識的に生きるという事と少しも代わりはありはしないのです。・・・デカルトは、誰も驚かない、余り当たり前な事柄に、深く驚く事の出来た人だとも言えるでしょう。彼は徹底的な反省を行い、遂に心眼が、『思う物』を掌をさすが如く見た。・・・『コギト』とは、単なる認識論の基本原理ではない。思う事から出発しなければ、何処からも出発しようがない人間という特殊な物への反省的直感である。」


木庵の反応
<「コギト」のことを、「意識的に生きる」とは、分り易い。しかし、意識的に生きることが案外難しい。我々は日常性に埋没して、意識してものを見ようとしない。子供の時によく発した「なぜ」という問いかけをしなくなった。別に問いかけをしなくても生きていけるからである。社会はあまりしつこく問いかけをする人間を疎んじる傾向がある。「そんなこと考える前に仕事しろ」である。しかし、本当の仕事をするとは、問いかけ、仕事の意味を意識する事から生まれるのだが、一般的な会社員にはそのような問いかけは意味がない。ロボットのように、意識せずに働くことを会社は望んでいる。生きるためにはある程度そうしなければいけないところもあるが、人間として生きている以上、意識をもった人生を送りたいものである。木庵>

モオツアルト
木庵の反応

<ここで一応「考えるヒント2」(文春文庫)を終える。これから「モオツアルト・無常という事」(新潮文庫)に入る。小林が「モオツアルト」を書いた背景について江藤淳が興味ある解説をしている。覗いてみよう。木庵>

「モオツアルト」が書かれたのは、昭和21年7月である。昭和19年6月に、単身でおこなった中国大陸の旅行から帰国して以来、小林秀雄氏は昭和20年1月の『梅原龍三郎』を唯一の例外として、全くなにひとつ書かずにすごした。その間に敗戦と戦後世相の混乱があったのは周知のことである。しかし、この傑作が、昭和21年12月に雑誌『創元』の第一号に発表されたとき、人々は小林の沈黙がこの絶唱を育んでいたことを知っておどろいた。そこには、批評という形式にひそむあらゆる可能性が、氏の肉声に触れて最高の楽音を発しながら響き合っていたからである。『モオツアルト』執筆のために、伊藤の旅館に籠っていたときの小林氏の横顔を、大岡昇氏の小品『再会』は伝えている。その頃は毎夜のように、長時間の停電がおこったものだが、暗い蝋燭を囲んで青山二郎、大岡昇平の両氏と酒を飲んでいた小林氏は、いつもの例で青山氏に絡まれ出していた。小林の批評が『お魚を釣ることではなく、釣る手付きを見せるだけ』で、したがって、『お前さんには才能がないね』というのである。小林氏は黙って聞いていたが、大岡氏が気がついてみると、《驚いたことに、暗い蝋燭で照らされたX先生(小林氏)の頬は涙だか洟(はな)だか知らないが濡れているようであった》。この『涙だか洟だか知らないもの』に、どのような感慨が込められていたかを推測するのは愚かなことである。・・・小林氏は日本の勝利を信じていた国民のひとりだったからである。イヤ、寧ろ敗戦を期待しながら生きるという知識人の姿勢の根本にひそむ虚偽と不誠実を見たのである。・・敗戦を哀しむのと、それを後悔するのとは別のことである。『戦後』は反省の時代で、その結果の自己卑下は今日まで続いているが、小林氏が、《悧巧な奴はたんと反省するがよい。私はバカだから反省なぞしない》という反語を放ったのはその頃のことである。ところで、『モオツアルト』は、小林氏の批評美学の集大成という観を呈するが、それは青年時代の象徴主義との交渉の結果というより、そこからさらに遡行したところに得られた結実である。・・・小林氏が用いている澄んだ『紺青』の色を忘れないであろう。この『かなし』い『青』が小林秀雄氏の音楽の主調音である。つまりそれは氏のいわゆる『宿命』の色である。
《・・・確かに、モオツアルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない、涙の裡に玩弄するには美しすぎる、空の青さや海の匂いの様に、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた『かなし』という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツアルトの後にも先きにもない。まるで歌声の様に、低音部のない彼の短い生涯を駆け抜ける。彼はあせってもいないし、急いでもいない。彼の足どりは正確で健康である。彼は手ぶらで、裸で、余計な重荷を引摺っいないだけだ。孤独は、至極あたり前な、ありのままの命であり、でっち上げた孤独に伴う嘲笑や皮肉の影さえない》」


木庵の反応
<実は「モオツアルト」が小林の作品の最初であった(学生時代ではなく、近頃の)。江藤氏の解説のように、文章の清々しさを感じた。戦争末期から終戦以降の長い沈黙を破って、小林の美意識が爆発したかのような文章であった。天才モオツアルトの感性を理解できる小林を感じた。青山二郎はNHKのドラマで彼の異才ぶりが表現されていたが、確か学歴は中卒程度なのだが、骨董を若い頃からやって、この方面では一流になっていた。小林との交友があったが、小林を弟分のように扱っていたのを、江藤の文章で初めて知った。暗い蝋燭で照らされた部屋で、酒を交わしながら、青山が小林を批評している姿が浮かんでくる。小林はただ黙って友人の酷評を聞いている。確かに小林の澄んだ『紺青』の人間性を感じる。青山の批評もまやかしや、ごまかしや、お世辞など全くない、単刀直入の男青山の姿が浮かんでくる。よき男同士の友情の映像である。木庵>
つづく


写真:モーツアルト

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