訪日(ユダヤ人を助け北海道を救った樋口季一郎)(#93)
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木庵の般若心経(3回目)
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ユダヤ人を助け北海道を救った樋口季一郎
「誇りが持てる日本の歴史学習会」「第5回ユダヤ人を助け北海道を救った樋口季一郎」を受講した。以下は感想である。

木庵の感想
ユダヤ人を助け北海道を救った樋口季一郎
樋口季一郎は決断の人であった。しかも、正義のため、人の命を救う決断を下した。目の前で苦しんでいたユダヤ人を救った。キスカから撤兵する5000人の日本兵を救った。それに、日本国家を救った。終戦になってもなお千島の最北端占守島に侵入しようとするソ連軍を阻止する命令を下したのは樋口であった。
樋口の部下も素晴らしかった。戦争が終わり、家族の元に帰れるという時に、ソ連軍の侵入を阻止するため に身命を賭して戦った。「白虎隊になる気があるか」という問いに、全員がその意志を示した。北海道は日本の領土であると誰も思っているが、もし樋口が武装解除命令を出して、兵士たちが戦っていなければ、北海道はソ連領になっていたはずである。
これらの決断をおこなうのに、上官の命令にただ従うような樋口ではなかった。儒教に「忠義」という教えがある。真の忠義は、上の者の言うことをただ従うのではなく、上のものが間違っていればそれを諫めるというのもあるらしい。
昭和13年3月、ソ連・満州国境オトポールに逃れてきた多くのユダヤ人を救済した。そのとき、上官の東条英機に、「たとえ日独軍事同盟があろうと、弱い人を虐めるのに加担することが正しいかどうか」を尋ねている。東条も立派であった。「よく分かった」と、日本政府にその旨を伝えたという。この時、樋口は軍人の地位を捨てる覚悟で決断したのである。何か胸がすく思いになる。

このような立派な人を、今の我々はあまり知っていない。その理由は藤岡先生が言われたように、樋口が軍人であったからである。軍人は敵を殺すのが仕事であると同時に、人の命も救うことができるのである。東北大地震の時、非番の自衛隊員が津波で流されている多くの人を救ったという逸話がある。
現在の日本でも、潜在的に樋口のような人がいるはずである。危機が訪れたときに、そのような人が活躍するのである。
今回の話で一番興味を持ったのは、樋口が石原莞爾と陸軍幼年学校で同期であり、二人は仲が良かった。石原は天才肌で、樋口は常識家であったというのも、興味のある観点であった。世の中には天才が必要であるが、天才であるがゆえに、トップに上れないというのもあるようである。特に政治の世界では、万人向けというようなタイプが上に上がるようである。石原は天才肌なるがゆえに、上官から疎まれれ、予備役に降ろされ、立命館大学教授になった。もはや軍部の中枢の蚊帳の外になってしまった。一方樋口は、終戦まで要職にあり、北海道を救うことになった。動画の中で誰かが言っていたが、「樋口と石原が軍部のトップにいれば、日本は戦争に負けることはなかった」と。私もそう思うが、先程述べたように天才というのは、唯我独尊の傾向があり、他者との間に軋轢を生じ、なるべき地位につけないというのがあるのだろう。それに対して、樋口は子供のときに人間浄瑠璃に興味があったという。軍事だけでなく芸能事に興味があった。つまり、バランスのとれた人間であったのである。樋口は語学の才能があり、ロシア語、ポーランド語などを理解し、そのために、世界の色々の情報を得ていた。だから、ソ連は必ず日本を攻撃すると見ていた。彼は情報分析が素晴らしいだけでなく、問題が生じたときに、自分の地位を捨ててでも、良きことに向かう実行力があった。
このような立派な人を教科書に載せられた藤岡先生の功績は大きい。新しい教科書には樋口だけでなく、日本の良さを体得し、日本のために動いた人をど
んどん載せるべきである。そうすることによって、若者は日本が好きになり、日本が危機になったときに、樋口のように日本を救うような人になると思う。
木庵

<杉原千畝のことは広く知られているが、まだ樋口季一郎のことはあまり知られていない。樋口の偉業を日本人はもっと知るべきである。感想でも書いたが、彼が軍人であったから知られていないというか。戦後、戦争を引き起こしたのは軍人であり、特に陸軍の軍人は無駄な戦争を引き起こして、多くの日本人を死なせてしまった。という風潮というより、GHQよる洗脳政策にほとんどの日本人が嵌ってしまったのである。それに対しにて、海軍は世界の情報を多く得ていたので、戦争に反対であった。戦後海軍出身の作家がこれがあたかも正しいといわんばかりに我々を洗脳してくれた。海軍出身の作家は、陸軍の悪いこと言い続けた。それに対して元陸軍の将校は貝になった。
杉原千畝氏は外交官であり、政府の命令に従わずにユダヤ人を救った。政府の命令に従わなかったというところに、彼の正義感が出ている。このあたりは、氏の没後、奥さんの多少の脚色があったようである。
杉原千畝と別に比較する必要はないが、樋口が実際に行ったことを知れば、軍人という前に人間として、勇気があり、知恵があった人と誰もが思うだろう。木庵>


ウィキペディアの記事
<ウィキペディアの記事が正しいという保証はない。参考にさせてもらう。それに、講義で聞いた内容と違うところや、加えたいところは、<木庵注:・・・>として、付け加える。付け加えるのは講義で聞いたところのもので、多少の記憶違いがあるであろう。木庵>

樋口 季一郎
経歴
生い立ち

1888年、淡路島にある兵庫県三原郡本庄村上本庄(町村制後:阿万村、現:南あわじ市阿万上町字戈の鼻)に父・奥濱久八、母・まつの5人兄弟(9人とも言われている)の長男として出生。奥濱家は廻船問屋で代々続く地主であったが、明治以降、蒸気船の普及に伴い時代の流れに取り残され父・久八の代で没落した。11歳の時、両親が離婚し、母・まつの阿萬家に引き取られる。木庵注:樋口の出生地は淡路島を三つに区分した南部。そこは500年前(?)から人形浄瑠璃で有名で、樋口は子供の時、人形浄瑠璃の扱い手になりたかったという。>

1901年、三原高等小学校2年終了後、私立尋常中学鳳鳴義塾<木庵注:現在の兵庫県立篠山鳳鳴高等学校>に入学。1902年、大阪陸軍地方幼年学校を経て木庵注:講義では、中央幼年学校。ここで石原寛治と知り合ったとある。卒業の成績が8番。9番以下は赴任地を希望できたという。赴任地が第一・・部隊で、乃木希典の部隊であった。なお石原莞爾は、13番で希望の部隊には赴任できなかった。石原莞爾は天才で13番というのは、素行が悪かったからであろう。>
18歳で岐阜県大垣市歩行町の樋口家の養子(父・久八の弟・勇次が樋口家の婿養子となり季一郎を勇次夫妻の養子として迎え入れた)になった。

軍歴
1909年、陸軍士官学校(第21期)に進む一方で東京外語学校でロシア語を徹底的に学ぶ。陸軍士官学校を優秀な成績で卒業、陸軍大学校(第30期)を経て、ロシア語が堪能であることもあって、卒業後すぐ1919年にウラジオストクに赴任(シベリア出兵) 。満洲、ロシア(ソビエト連邦)方面部署を転々と勤務。

1925年、公使館駐在武官(少佐)としてソ連西隣のポーランドにも赴任している。歩兵第41連隊長時代に起きた相沢事件は、直前まで部下だった者が起こした不祥事であったため進退伺いを出した。しかし、上官の小磯国昭(後年の首相)に慰留され、満洲国のハルビンに赴任する。


オトポール事件
1937年(昭和12年)12月26日(作家相良俊輔の書いた樋口の伝記『流氷の海』では1938年1月15日とされている。)、第1回極東ユダヤ人大会が開かれた際、関東軍の認可の下で3日間の予定で開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の安江仙弘陸軍大佐をはじめ、当時ハルピン陸軍特務機関長を務めていた樋口(当時陸軍少将)らを派遣した。この席で樋口は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるナチ党政権下のドイツの反ユダヤ政策を、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と間接的に激しく批判する祝辞を行い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。(この頃は、まだナチもユダヤ人絶滅を具体的な施策として考えていたわけではなく、単に自領からのユダヤ人追放を企図していただけで、また、日本側にはユダヤ資本とユダヤ人を満洲国に導入できないかという河豚計画があった。)

そうした状況下、翌1938年(昭和13年)3月、何千人というユダヤ人(人数については諸説あり、数字は樋口自身の遺稿による。)がドイツの迫害下から逃れるため、ソ満国境沿いにあるシベリア鉄道・オトポール駅(Otpor、現在のザバイカリスク駅)まで逃げて来ていた。しかし、亡命先である米国の上海租界に到達するために通らなければならない満洲国の外交部が入国の許可を渋り、彼らは足止めされていた。極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口はその窮状を見かねて、部下であったハルビン憲兵隊特高課長の河村愛三少佐らとともに即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施。更には膠着状態にあった出国の斡旋、満洲国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。日本は日独防共協定を結んだドイツの同盟国だったが、樋口は南満洲鉄道(満鉄)総裁だった松岡洋右に直談判して了承を取り付け、満鉄の特別列車で上海に脱出させた。しかし、この具体的内容については異説も多いほか、そもそもこのようなことが実際にあったのかを疑問視する声もある。

樋口の孫である樋口隆一によれば、1970年、樋口の死の直前に日本イスラエル友好協会(現在ある日本イスラエル親善協会とは別の組織。)の顧問となっていた前述の河村愛三が訪れてきて、おそらくそのときに同協会の名誉評議員とされたことを伝えられたとし、樋口の告別式には日本イスラエル友好協会の会員らも出席、同会代表の加藤大弦や後に樋口から手記を託されていて後に伝記を出版する作家の相良俊輔にも取材した当時の朝日新聞の記事では、1938年2月オトポールにユダヤ人2万人が足止めをくい、20人の凍死者が発生、樋口が12両編成の特別列車を13本仕立て、ハルピンに送り、食事も避難宿舎も提供した、その後これがドイツから問題とされたが、樋口はこれに人道上の問題と反論、当時の上司であった東条英機もこれを支持した、このことは日本では軍事機密とされて知られることがなかったとして、紹介された。


異説・異論
木庵注:極端な場合は樋口がユダヤ人を救ったことなどなかったという説まである。樋口の行ったことは、軍の機密扱いにされたことから、色んな説がでてくるのは仕方のないことである。そういうことで。この箇所は割愛した。>

大東亜戦争
大東亜戦争開戦翌年の1942年8月1日、札幌に司令部を置く北部軍(のち北方軍・第5方面軍と改称)司令官として北東太平洋陸軍作戦を指揮。日本軍が重要視していなかったアメリカ領のアリューシャン方面の戦いも、1943年に入るとアメリカ軍が反攻に転じ、激しい争いが行われた。

1943年5月に樋口の指揮下にあった陸軍部隊のうち、アラスカ準州のアッツ島守備隊は玉砕した。大本営がアッツ島守備隊の増援要請を拒否しアッツ島守備隊を見捨てることを決定したとき、一説には、樋口は守備隊を見捨てるとの決定に激怒したとするものもあるが、かといって、守備隊の降伏を認めるといった措置を取ろうとした節などは一切見られない。かえって北方軍司令部はアッツ島守備隊に対し、米軍相手に善戦し玉砕する覚悟を望むとの電文を送っている。アッツ島守備隊の山崎隊長からは、負傷者の処分を終え、玉砕するとの返電があり、その言葉通り、アッツ島守備隊は玉砕した。戦後に樋口が防衛庁戦史室に出した手紙では、これを世界戦史上稀有のことと賞賛している。

木庵注:山崎隊長が玉砕する前、山崎は樋口の家に招待されている。その当時なかなか手に入らない鯛が振る舞われた。このもてなしは、山崎が二度と帰ってこないだろうという思いがあったからなのだろう。ただ山崎以下、2000人の兵士が玉砕することを樋口は決定していない。大本営の決定である。ただキスカの兵士5000人は玉砕をさせない、退却させるために海軍と交渉した。キスカは霧が多いので有名で、霧が出ている間に退却するという作戦をたてた。5000人を一度に退却するのに駆逐艦(?)程度の船が必要である。ただ兵士が銃器を持っていると、その重みで船が早く進まないというので、銃器を捨てての退却であった。それが、功を奏して見事脱出に成功した。銃器を捨てたことは、後に問題になったが、そのことの事情は、この後のウィキペディアの記事に書かれている。>

キスカ島は、海軍が守備担当の地域であったが最終的にはアッツ島から陸軍部隊が移駐され、ほぼ海軍部隊と同数近い部隊が存在していた。陸海軍将兵らのキスカ島撤退は成功している。キスカ島撤退作戦に際しては、海軍側からの要望に応じ、陸軍中央の決裁を仰がずに自らの一存で「救援艦隊がキスカに入港し、大発動艇に乗って陸を離れ次第、兵員は携行する小銃を全て海中投棄すべし」という旨をキスカ島守備隊に命じ、収容時間を短縮させ、無血撤退の成功に貢献した。

帝国陸軍では菊花紋章の刻まれた小銃を神聖視していた。撤退成功の後、小銃の海中投棄が陸軍中央に伝わり、問題になったともされ、とくに陸軍次官の富永恭次中将がこれを問題視したが、富永は陸士の4期先輩である樋口を以前から苦手にしていたため、小銃の海中投棄を命じたのが樋口であると知ると矛を収めたという。


対ソ連占守島・樺太防衛戦と戦後
日本の降伏直前の1945年8月10日、ソ連対日参戦が発生。8月16日大本営はやむをえない自衛戦闘を除き戦闘行動を停止するよう全軍に命じたが、北方の第5方面軍を指揮していた樋口季一郎中将は以降も南樺太(おそらく占守島等の千島列島も)におけるソ連軍への抗戦を命じ、戦闘を続けさせた。これは、ソ連が南樺太から北海道等の日本本土に進攻、占領することを樋口が懸念、それによる赤化を恐れたとする説がある。ただし、樋口が防衛庁戦史室へ出した書簡を読む限り、樋口が南樺太・千島防衛を命じたのは、全く樋口自身がそこを守るべき日本本土の一部と考えていたためのようで、8月下旬の樺太での停戦成立(樺太第88師団の完全降伏である)後に特殊技能を持つ者を抱えた北海道の一部部隊を解散するなど、樋口自身は寧ろ樺太での停戦成立によりソ連軍の北海道侵攻の可能性が薄れたと考えた節がある。また、札幌の方面軍司令部の星駒太郎参謀副長のように、樺太での交戦が方面軍司令部の差し金であることが発覚すれば、寧ろそれがソ連側の北海道への報復攻撃に繋がりかねないと懸念していた司令部幕僚らもいた。樋口自身の戦後の遺稿によれば、ソ連軍は太平洋戦争の状況次第では南樺太に必ず進出してくる、千島はどうなるか分からないとするものもあるが、北海道について明確に語るものはない。むしろ、樋口自身はその遺稿で、1945年6月の対米戦一辺倒で考えていた頃には、千島からくる米軍に対し北海道の西半分を残し東半分を放棄するという南樺太との連繋を重視したとみられる案を持っていたこと、サンフランシスコ講和会議の後でソ連が千島を占拠し続けたことを当初はソ連が破れかぶれで行ったと思っていたが後にヤルタ協定以来の取り決めごとの流れだったと知ったと語っている等、樋口自身は戦後もかなりの時期まで、千島・北海道は本来米軍の進攻領分だと思っていた節があることを示している。

スターリンは、極東国際軍事裁判に際し当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。これについてノンフィクション作家の早坂隆は、樋口の経歴がウラジオストック特務機関員、ハルビン特務機関長、さらに第5方面軍司令官であったことから、ソ連によって『敵の大物』であり、とくに特務機関長であったことが大きいとしている。樋口自身、対ソ連の特務機関長であったことから、札幌方面軍総司令官として北海道にとどまらざるを得ない状況では、個人的にもソ連の北海道占領を怖れる十分な理由があったことになる。

世界ユダヤ人会議はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まった。

また、樋口は終戦後の取り調べを担当した米陸軍のキャッスル中佐から『イギリスは大変あなたをご贔屓にしており、ソ連からの貴方に対する逮捕要求を拒絶した』と聞いている。これにはポーランド武官時代に交流のあったイギリス陸軍元参謀総長のエドムンド・アイアンサイド退役元帥が引き渡しを拒否する様、圧力をかけていたともされる。

冷戦が始まる中で米軍がロシア通として知られた樋口の情報網を利用したかった事やイギリスからの圧力、ユダヤ人らの運動など様々な事が重なり日本占領統治を主導していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否、樋口の身柄を保護した。


写真:第5方面軍司令官として北樺太のツンドラ地帯を視察する樋口中将(2番目):樋口隆一氏提供
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