訪日(第171回You Tube(ヘーゲル)、田母神俊雄)(#66)
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You Tubeを立ち上げた
対談に参加したい人は、
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⓶ どのようなトピックス、日時などを木庵と話し合う。
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⓸ ズームで録画したものを、You Tubeに移動(木庵の作業)
⑤ 出来上がったYou Tubeのアドレスをブログに掲載。
⓺ You Tubeのアドレスをクリックすると、誰でも対話の様子が見れる。

*顔を隠したい人、仮の名前でもよい(勿論木庵の顔はだす)。

*二人以上もできるが、40分でズームは切れる(延長する場合は、再開する必要あり)。

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木庵のZoomミーティングに実際に参加する場合:
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*URLをクリックするだけで、ミーティングルームに入れる(ミーティングID、 パスコードの入力は必要ないよう)。
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木庵の般若心経(3回目)
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第171回You Tube(ヘーゲル)
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ヘーゲル哲学批判
ヘーゲルの哲学は演繹法を使っている。演繹法は、一つの前提から、論理を積み重ねて結論を出す考え方である。一応誰もが納得できる自明の前提からスタートし、結論を導き出す。ところが哲学が取り扱うような複雑なテーマにおいて、自明の前提が正しいかどうかさえ分からない。巧妙な哲学者になると、本当は自明ではないのに、自明であるような言葉遊びをする場合がある。そのために、読者はその哲学者の表現のマジックに引っ掛かり、結論さえ自明のものであると錯覚する場合がある。その一番最たる例が、ヘーゲル哲学であろう。

歴史は弁証法的に発展し、しかも、絶対精神が結論として導きだされるというのが、ヘーゲルにおける自明の前提である。
我々は「絶対精神」、「弁証法」などという言葉に弱い。そのような言葉がでると、もはや魔法の毒素が我々の脳に入って、思考停止になる。

ところで、元々演繹法を開発したのは、アリストテレスであった。アリストテレスが確立した三段論法は、演繹法である。

全ての人間は死ぬ…大前提
ソクラテスは人間である…小前提
ゆえにソクラテスも死ぬ…結論

「A = B」かつ「B = C」であれば、「A = C」であると結論づけるのである。

アリストテレスが例示した三段論法の大前提、「全ての人間は死ぬ」、それに小前提の「ソクラテスは人間である」というのは、間違いのない真実である。
ところが、ヘーゲルの用いた前提は、正しいかどうか疑ってみる必要がある。果たして絶対的精神なるものがあるのであろうか? もし前提そのものが間違っている場合は、誤った方向に結論が導かれていると考えなければならない。

演繹法とは違った、帰納法というのがある。帰納法とは、複数のある事象(前提)から結論を導く思考法のことを指す。一般的に科学的な思考法である。観察や実験から得た大量のデータから、ある法則を見出すという方法である。法則といっても絶対ではない。一つの推論にすぎない。ヘーゲルが言うような絶対精神を導くためには、おそらく現代の科学の力では不可能であろう。帰納法では、1つでも推論に反する実例があると、推論は一気に崩壊してしまう。

簡単な帰納法の例を挙げる。
日本の国会議員を調べると、A議員は立派な政治家である。B議員も立派な政治家である。C、D、D、E、Fも。これだけ調べたので、結論を出した。「日本の政治家は全て立派である」と。
この帰納法から得た結論が間違いであることは直ぐに分かる、なぜなら、これを調査した人は、AからFまでだけで、GからZまで調査していないからである。GからZまで調査すると、きっと「立派でない政治家」を発見するだろう。一人でも立派でない政治家を発見すると、「日本の政治家は全て立派である」という推論は崩壊するのである。


帰納法と演繹法の違いを明確に言うならば、帰納法は「複数の事象の共通点」から結論付けるのに対して、演繹法は前提となるものが証明されていないのに一つの仮説として扱い、そこから結論を導きだそうとするのである。

簡単に言えば、演繹法における前提は結論と同じだということである。なぜなら、結論は前提から派生しているからである。


演繹法を用いるとき、前提に、ルールや一般論など、普遍的なようなものを持ち出す。そうすることによって、論理の土台が整ったように人は思ってしまう。

日本の歴史を考えるとき、よく古事記や日本書紀の記述を基に語ろうとする。古事記や日本書紀に書かれている神話が、日本で実際に起きたこという前提で語ろうとする。これは一種の演繹法である。また、因果関係から結論を導こうとする。「日本が戦争に敗れたのは、日本陸軍の独走があったからだ」という論法も一つの演繹法である。日本が敗戦した理由は色々あった。色々な因果関係があっただろうに、その中の一つを取り上げて、あたかも日本が戦争に敗れたのはかくかくの事情であったからだと説明する。これが演繹法である。
だから、演繹法を使った論法には、まず前提を疑えということになる。

ということで、演繹法を用いる人は、一般的に己の持っている考え(イデオロギー)を披露したいという願望がある。

ヘーゲルの場合、「哲学の理念の絶対的実現である」とした当時の風潮に影響されている。そうであるのに、当時の、現実的な状況を観察、考察することなく、彼の心の中の概念、抽象的なことから推論している。整然と澄み渡った晴天のような「論理学」を構築しているが、その虜になっているに過ぎない。ある意味の体系的な芸術家あり、彼が打ち立てた体系の歴史は、理性の画廊、絵画館のようであったのだ。彼は悟性、理性を信じていた。彼の理性は「絶対的自己内部」の絶対的精神であった。ところが、「感官的実在」を問うことなく「現実の悟性」のなかに真理があると勘違いしたに過ぎない。また己の考えが正しいと主張するために、あまりにも形式的な論法を使いすぎた。学問的厳密さを保とうとはしても、形式主義に陥って、絶対精神が間違いなくあるのだという、無批判的客観論の極端に落ち込んだと言えるだろう。


講演会、田母神俊雄、「わが思いの丈を語る」#1
<現在田母神氏は東京都知事選に出ておられる。10年以上も前であったと思うのだが、氏がロスにやってきて講演をされた。木庵はその講演を聞いたし、実際に田母神氏とも少し話をしている。ブログの書庫を調べると、以下の記事がでてきた。懐かしさと、現在の田母神氏の考え方を比較するのも面白いと思って、再度記事を掲載する。木庵>


  koreyjpさんから、次のコメントがあった。
「話は違ひますが、今度田母神さんがロスアンジェルスに行って講演するらしいですね。彼の話は東京で聞きましたが、ユーモアたっぷりで本質をついてをり、素晴らしいです。木庵さんもぜひ聞かれるといいですね。」
   
実は3月1日(日)、「わが思いの丈を語る」と題する、田母神俊雄氏の講演を聴いている。またその後行われたレセプションにも参加して、直に話もしている。以前に私のブログで「田母神擁護論」を書いたことがあり、私の読者に講演の模様それに講演の内容について報告する義務があるようだ。会場で売られていた彼の著書、「自らの身は顧みず」を私が買ったのではなく、私の知り合が買ってくれ、「木庵さん、これを読んで貴方のブログに書きなさい」ときた。彼は私の恩人(上官?)であり、断るわけにはいかない(笑)。どうも近頃の私の読書、そしてそれの書評は、ほとんどが受動的である。というのは、自分から買って読むというのがほとんどないからである。以前、インドとかフィリピン、中国、ビルマのことについてシリーズで書いたが、実はある知人(複数)に講演を頼まれて、そのための準備としてブログで掲載していたのである。
  例えば一人の知人は、中国問題に関して非常に興味を持っている。そのために、ロスではなかなか手に入らない本を日本から取り寄せ、読んでいる。しかし、自分だけ素晴らしい貴重な本を読んでいるのは勿体ない。そこで私や彼の知人に貸す。ただ読んだだけでもまだ勿体ない。そこで、中国事情について多くの人に知ってほしいと思う。自分は口下手であるから、木庵にその本を下にして、何か喋ってもらおうと、講演会を企画する。本屋の一室を借りての講演会ということになる。ロスには私だけでなくそれなりの論客がいるが、中国問題となるとあとずさりするらしい。簡単に言えば怖いのである。アメリカには抗日中国人組織もあるし、それと密通している日本人もいるので、中国の実情または中国政府を批判することは怖いのである。日本のあるマスメディアと同じようなものである。
  元々私は受動的に本を読むのであるが、読んでいくうちに、新しいことも学び、段々と能動的になってくる。材料を提供してくれるのは知人であるが、後は私の主体的な研究になり、私の思いでブログに書き、講演でも私の考えを述べる。
  他の知人の主催で、満州、インパール作戦、フィリピン、インドとあまり物議をかもし出さないトピックスで話したことがある。考えてみれば、私のブログをにぎわせているものは、ほとんど、まず他者からの依頼があり、そこで私なりに研究して発表している。謂わば大学の先生が学生にあるトピックスを与え、それについてレポートを書かせるようなものである。
   今回も私の上官(恩人)が田母神氏の本を購入してくれ、これを私が読み、レポートを提出しなさいという。半強制的な命令である。この命令を私は嫌がっていない。有難いことだと思っている。私は他者から依頼されないと動かない人間なのかもしれない。また依頼によって私が成長していくのも自分の事ながら面白いと思っている。読者の方も知っておられるであろう。私の知り合いの住職から正月に檀家に配る冊子に載せる「新年を迎える挨拶」を書いてくれという依頼があった。木庵和尚になりきって書いた。そうすると、本物の和尚の評判があがったらしい。
   さて、上官からの命令や、koreyjpさんの田母神氏への関心に応えて、これから講演会の様子、講演の内容について書いていく。田母神氏の本は今日から読み出す。読み終えてから、その書評についても書く。
  主催者の話では、講演の入場者数は275名、100名以上断ったという。急に決まったようで、主催者は田母神(これから敬称を略させてもらう。敬称を書くと、どうも文章に甘ったるいものが残り、明瞭さに欠けるようになると木庵が勝手に思っている。不快感を抱く人もあるとおもうが、許していただきたい)の元上司のTという方である。Tの話ではTが赴任していた沖縄の基地で田母神は彼の部下であった。Tは防衛大一期で田母神は15期である。ということは、相当な年齢差がある。Tの話によると、急に田母神の講演の依頼がTの周辺から巻き起こり、また周辺の人から「貴方は元自衛隊幹部でしょう。田母神氏とのつながりもあるでしょう」というような声がかかり、「それじゃ、連絡してみましょう。ただし彼は30年前の部下ですよ。私のことを覚えているでしょうか。私は覚えているのですが」のようなやいとりがあり、Tが田母神に講演の依頼を直接したという。T自身もまさかと思っていたが、田母神は即座に「先輩がおっしゃるのでしたら、是非行かせて頂きます」となったという。上官と部下との関係が30年たっても変わることなく。Tのためにロスにやって来たという裏話である。
   実は私はTをよく知っている。防衛大学の空手部を創立なされ、防衛庁でも迎撃ミサイルパトリオット導入責任者であった方である。今も空手道場で若者を指導なされ、かくしゃくとされている。
   これも以前の私のブログでも書いたが、私の従兄弟は陸軍士官学校60期(最後の卒業)で、Tを通して従兄弟と同期の方を紹介されたことがあった。同じ小隊で同じ釜の飯を食べていた筈なのに、その方は従兄弟のことを覚えておられなかった。名簿から同じ小隊に所属していたことは確かであるのだが。その方は1年前80歳であったことから、もし従兄弟が今も生きていればあのようになっているのかと感慨深いものがあった。従兄弟は40歳で亡くなっている。年の離れた従兄弟であるが、私は従兄弟の様子を見て、戦前の陸士の様子などを想像していた。私は軍国少年とは程遠い、戦後民主主義教育で育っているのだが、従兄弟という存在が私を戦後の流れに簡単に乗れないものにしたようである。歴史を見るとき、抽象なる過去の出来事を、自分の身近な具体的なものを通して見るようである。たとえば自分の周りに戦争の犠牲者がいればそこから戦争を見る。私のように従兄弟が陸士の最後であるということから、戦争を遂行していた側の観点に立って戦前を見るところもある。だから戦後の自虐史観には染まることなく、また自虐史観を受け入れている人にとって、私のような存在は偏見の目で戦前を見ているということになる。そういう意味で歴史の見方は今生きている自分から派生しているということである。それが偏見であるというなら、誰もが陥ることである。過去に起きた出来事を今ここで再現など出来ない。過去への解釈は現代の解釈、自分の解釈に行き着く。そのような意味でも、私はTや田母神を身近な存在に感じ、田母神擁護になるのは当たり前。なんとかこの私の偏見を排除する努力を行うが、結局木庵の偏向記事になるのかもしれない。
   聴衆を見回すと、日本のタレントのショーを見に行くような軽薄な人は誰もいない。少なくとも日本の政治に関心をいだき、田母神とはどのような人物であるか、この目でしっかり見ておこうという人たちである。主催者の話では、カナダ、ニューヨーク、サクラメント、サンジェゴあたりの遠方よりきている人がいるという。いかに田母神への関心がアメリカでもあるかということである。ただ参加者の中に日本進出企業の駐在の方は少なかったようである。ロスには、JBAという日本企業駐在の組織がある。もし組織が主催でもすれば、2000人以上の動員は簡単であろうが、このような政治色の強い会合にはこないのが常である。彼たちは経済の戦士であって、政治の戦士ではない。彼たちは日米親善に寄与しているが、日本民族のための主張とか日本国益のための主張のようなことなど期待できない。彼らは政治の流れの中で、自分がどの位置にいるのかの認識に欠けている。アメリカ滞在ということから、リベラルと自称する人が多いようであるが。田母神が主張する歴史認識、国家認識に関しては相当検討違いの反応が返ってくるのが予想される。彼たちには企業のためには動くが、「国家のため」とか「民族のため」と言ったところで、アレルギー症状を示すだろう。田母神の講演を聴くより、ゴルフをするなり家庭サービスをした方がよいと考えているのだろう。それより、政治に関心を持つ余裕などないようだ。そういう事情からか、講演参加者は引退者、個人経営者、主婦(駐在の主婦ではない)、それに少数の留学生ということになる。
   私は今までに、石原慎太郎、田原総一郎、稲盛和夫などの講演を聴いたことがある。これらの講演はそれなりに興味のある話であったが、今回の田母神の講演が一番聴衆の反響が大きかったと思う。それは田母神が麻生首相から更迭されて間なしであるというタイミングのよさからきているところが大きいと思う。
つづく


写真:田母神氏
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