訪日(第170回You Tube(キルケゴール)、ビルマ(ミャンマー))(#60)
↓↓↓   ↓↓↓
https://ameblo.jp/naitotakaousa/
←(クリックはここ)アメーバーブログ
↑↑↑    ↑↑↑

You Tubeを立ち上げた
対談に参加したい人は、
⓵ 木庵のメールアドレスをクリックする。

メールアドレス:takaonaito03@gmail.com
⓶ どのようなトピックス、日時などを木庵と話し合う。
⓷ 実際にズーム上で対話をおこなう(自動的に録画できるようになっている)。
⓸ ズームで録画したものを、You Tubeに移動(木庵の作業)
⑤ 出来上がったYou Tubeのアドレスをブログに掲載。
⓺ You Tubeのアドレスをクリックすると、誰でも対話の様子が見れる。

*顔を隠したい人、仮の名前でもよい(勿論木庵の顔はだす)。

*二人以上もできるが、40分でズームは切れる(延長する場合は、再開する必要あり)。

・・・・

木庵のZoomミーティングに実際に参加する場合:
下のURLをクリックする。

https://us04web.zoom.us/j/5582589118?pwd=b0xsUHBQM2NYb0NNVFdYK3JSY2daUT09

ミーティングID: 558 258 9118
パスコード: 2BaZGd

*URLをクリックするだけで、ミーティングルームに入れる(ミーティングID、 パスコードの入力は必要ないよう)。
・・・・

木庵の般若心経(3回目)
↓↓↓   ↓↓↓
https://youtu.be/ZRq3bKOLgLQ
↑↑↑  ↑↑↑

・・・・

第170回You Tube(キルケゴール)
https://youtu.be/N8Ar2S4kw9I


サルトルの思想 
キルケゴールは有神論的実存主義者であった。それに対して無神論的実存主義者の代表は、サルトルである。サルトルの作品『嘔吐』は、あまりにも有名である。

『嘔吐』のあらすじ(ウィキペディアの記事)
何年かに渡る旅行から戻ったばかりの30歳のアントワーヌ・ロカンタンは、18世紀の政治下での生活における研究を終えるため、フランスの港町ブーヴィルに居を構える。しかし1932年の冬の間にある「甘い悩み」が彼がこれまで行ってきた、あるいは楽しんできたあらゆる物 — 彼の研究課題、図書館でアルファベット順に全ての本を読んでいる「独学者」たちの群れ、フランソワーズという名のカフェのオーナーとの肉体関係、かつて愛したイギリス人の娘アニーの記憶、そして彼自身の手や美しい自然さえも — から徐々に吐き気を呼び起こす。その後、彼の存在に対する嫌悪感は、半狂気、自己嫌悪、そして最後には彼という存在の自然への開放を強いた。ロカンタンは、やっかいで仮想的な「存在」そのものの制限された性質に直面していた。すなわち彼はサルトルの実存的不安理論を体現し、そのときまで彼の人生を満たしてきた全ての事象の意味を切望した。


哲学
小説『嘔吐』の役割は、主にサルトルが彼の哲学を単純な表現で解説するための手段であった。主人公ロカンタンは古典的な実存主義者であり、存在というヴェールに穴を開けようという試みは、彼に嫌悪感と驚きの奇妙な組み合わせをもたらした。この小説の最初の部分で、ロカンタンはありふれた物から流れ込んでくる嘔気の気配を感じる。この気配は排水溝の中の丸められた紙切れから砂浜で拾った石まで、不規則に現れるように感じられた。彼が受けた感覚は純粋な嫌悪感であり、激しく高まった侮蔑感はそれが喚び起こされるたびにほとんど彼の精神を破壊しそうになるほどであった。物語が進行するにつれて、嘔気が起こる頻度はそれが何を意味するのか彼には分からないまま徐々に高くなっていく。しかし、公園の栗の木の根元で、彼は嘔気が本当は何を意味するかに関する鋭く鮮明な洞察を得る。存在そのもの、実存する物が無ではなく何者かであるという性質自体が、彼をゆっくりと狂気に追いやる物の正体であった。彼はもはや物体を色や形といった性質も持っているとは捉えなくなった。かわりに、物体自身から単語を切り離すことによって純粋な存在に向かい合った。この考え方と対になるのは不条理思考である。

・・・
訳が分からないあらすじだが、ようするに、主人公(サルトル)の心の不安を表現しているのであろう。

サルトルは幼少期に父を亡くし、母と祖父に育てられた。この祖父が彼に哲学への興味を抱かせるきっかけとなった。その後、1930年代から40年代にかけて、サルトルはパリで活動した。この時期は、第二次世界大戦の真っ最中で、フランスがナチスに占領された時期であった。

サルトルはこの社会的な混乱の中で、人間の自由について考えた。

大戦直後のヨーロッパでは、戦前まで人々を支えてきた近代思想や既存の価値観が崩壊してしまった。人々は生きるよりどころを見失ってしまったのである。巨大な歴史の流れの中では、「人間存在」など吹けば飛ぶようなちっぽけなものだという絶望を感じるようになった。そのような中、「人間存在」の在り方(実存)に新たな光をあて、人々がさらされている「根源的な不安」に立ち向かい、真に自由に生きるとはどういうことを追求したのが、サルトルではなかったのか。

既存の価値観が大きくゆらいでいたヨーロッパの人々は、たよるべきものを失い、「根源的な不安」に直面していたのである。サルトルは、この「根源的な不安」に向き合い乗り越えるために、「実存主義」という新たな思想を立ち上げたのである。「人間の本質はあらかじめ決められておらず、実存(現実に存在すること)が先行した存在である」と唱えたのである。そして、人間は「根源的な自由をもっている」と、唱えたのである。であるが、自由は責任を伴うことも述べている。そこには絶対的な孤独と責任が伴うのである。その状況をサルトルは「我々は自由の刑に処せられている」と表現している。

戦争以前のヨーロッパの世界では、「本質が実存に先立つ」ことが当たり前であった。つまり本質という意志があり、それに従うのが人間の生き方であると考えていた。ところが、その結果として惨い戦争がおきた。だから、サルトルは、本質的なことが間違っていた。それに頼ることなく、自由意志をもった個人が表にでなければいけないという、実存主義を唱えたのである。この考えは戦後の時代の趨勢であり、サルトルだけでなく多くの人々がそう思った、もしくはそう願ったのである。つまり、ある意味の必然として、サルトルの実存主義が出現したと言えるのである。

1945年10月、パリのクラブ・マントナンで、サルトルによる「実存主義とは何か」と題する講演が行われた。この講演には多数の聴衆が押しかけ中に入りきれない人々が入り口に座り込んだほどだであった。翌日の新聞には大見出しで掲載され大きな「文化的な事件」として記録された。その後、この講演は世界各国で翻訳・出版され一世を風靡し、時ならぬサルトル・ブームを巻き起こしましたのである。

このサルトルブームはもはやない。というのは、彼は戦争に反対しなから戦争を引きおこすような共産主義に同調するような言動に走るようになったからである。



その後のビルマ(ミャンマー)
アウンさんから今朝(日本では夜)メールをいただいた。

「こんばんは。お元気ですか?

平和の翼ジャーナル(Vol.4)が先月完成しましたが、住所が分からなかったので送ることができませんでした。

申し訳ありませんでした。

今Vol.5を製作していますので、また原稿をお願いしたいのですがよろしいですか?
内容は、ビルマに関することでしたら何でもかまいません。」

ブログでは私の調べたことは殆ど書き尽くしたところがあり、また近頃のミャンマーでの動きが伝わってこないことから、これ以上書けないというところだが、「ビルマに関することでしたら何でもかまいません」ということで、ビルマについて感じていることを書いてみる。
1) ビルマのことで今私が危惧していることは、現在の軍事政権が中共と接近していることである。新疆、チベットが中共の属国になったプロセスとビルマの将来を重ね合わす人がいるようだが、私は本質的に違うと思っている。新疆、チベットは軍事力の弱さが中共に侵略を許したところがある。特にチベットは秘境の地でまさか新興中共が攻めて来るとはチベットの指導者は考えも及ばなかったのではないか。新疆、チベットともにラマ僧の数が多く、国を守る軍人の数が少な過ぎたところに侵略を許した背景があるとみている。それに対して、ビルマは軍隊がしっかりしている(?)。このしっかりしているという意味は、軍隊としての機能が発揮できる状態であるということである。勿論、タン・シュエ独裁体制がビルマ国民の幸福とは関係ないところで、彼等の利権中心に動いている歪み現象がある。これに対して、自由主義諸国は制裁措置をとっている。それがビルマの世界からの孤立、ならずもの国家中共と結びつかざるを得ないという背景がある。それに対して民主化運動をビルマや外国で展開しているのであるが、この民主化も多岐にわたり、アメリカ、イギリス向けの民主化であったり、中共向けの民主化であったり、少数民族向けの民主化であったりと、私の観測では一つ縄ではないように見受ける。アウンサン・スーチーさんは民主化のシンボルなのであろうが、そのあたりのことをもう少し、私の記事を読まれた人は教えてほしい。それに、近頃の世界不況の波をどの程度ビルマが影響を受けているのか、ビルア軍事政権と中共との結びつきがどのように変化しているのかも知りたい。
2) ロス社会では有名なKという会社の経営者がいる。彼は主計中尉か大尉(学徒動員)でビルマ戦線を経験者している。以前こちらでインパール作戦についてのシンポジュームのようなものがあり、彼はこの作戦には参加していないが、ビルマ戦に参加して九死に一生を得たことを語られていた。私もインパール作戦がどのようなものであったか15分ほど説明したのであるが。先日彼から、ビルマで彼が戦った場所を訪問したDVDを頂いた。彼の訪問場所はダウェー、モーラミャイン、それにタウンシーの東部であったと思う。タウンシーの東部(タイ国境線の近くかな?)は日本軍がインパール作戦に敗れ、連合軍に追われるようにして逃げたところである。そこで終戦を迎えているが。また、そこで戦友を亡くしている。それも、負傷したKを救い出そうとした時に、戦友は敵の爆撃で命を落としている。命の恩人である戦友の最期の場所を訪問し、彼の霊に感謝を述べたくてやってきたのである。気骨のあるKは泣いていた。それに不思議なことに60年間ビルマ語を使っていないのに、いつしかビルマ語が出てきたのには本人も驚いていた。彼のいたところは日本の最後の砦になっていたのであろう。インパール作戦での敗残兵が靴も履かず、殆ど乞食のような格好で辿りついていたという。
3) Kの証言では、アウンサン将軍の日本軍への裏切りにより、幾人かの彼の戦友が命を落とした。アウンサンはビルマの独立という大儀があり、日本軍の情勢が悪くなった時に連合軍に寝返ったのも致し方がなかったであろう。ところが、最後まで日本軍と共にしたバー・モウにより親近感と尊敬の念を抱くのは、私が日本人であるが故であろうか。アウンサンはビルマの文句のない英雄で、彼は日本も愛したようであるが、彼の気持ちをバー・モウに直接手紙に書いている(この後は以前にブログで書いたものの一部抜粋である)。  
「私には日本人を責める気持ちはありません。戦略的な見地に立ってみれば、解って頂けると思いますが、・・・・・究極の勝利を収めるのは我々の大義であるという確信があります。戦争があろうとなかろうと、平和であろうとなかろうと、我々の国の独立を求める戦いは勝利するまで続けなければなりません。私は最善をつくします。貴方には今は理解しかねるかも知れません。でも信じてください。しばらくすれば私の真意がどこにあったか。判って頂けるでしょう。」
  この手紙は今もバー・モウの遺族の元に保管されているという。バー・モウは天国でどう思っているであろうか。
   バー・モウは「ビルマの夜明け」(英文)を書いている。その目的は歴史の歪曲を正すためであった。
 「・・・ビルマ軍は独立を獲得するために英国軍と中国軍に対して果敢に戦ったのであった。しかし、この重大な事実は、独立の数年後、植民地勢力からの贈り物として我々の手に入ったとするビルマ自身の戦後の宣言によって隠されていた。このようにしてわれわれは戦争中のもっとも重要な歴史的業績のひとつを現実には否定してきたのである。ビルマ独立義勇軍の誕生もそのひとつだった。戦争の真只中にあらわれたこの独立義勇軍はこの種のものでは初めてのもので、ビルマ中にめざましい本格的な軍事行動を展開するのに大きな役割を果たした。英国の植民地主義権力がビルマから追い出されたときに全国民が喜びに湧きかえったことを無視されてきた。いまや歴史は半分しか語られなくなった。反英国的なものはすべてぬぐい去られ、物語は初めから終わりまで、戦争の最後時期の反日暴動と、あふれるほどの憎悪に満ちた反日感情と反日の声のこだまでつづられていった。」
  ロンドン・タイムスはバー・モウの著書の主題を的確に掴んで、著書の中から次の言葉を引用している。
  「真実の独立宣言は、1948年1月4日ではなく、1943年8月1日に行なわれたのであって、真実のビルマ解放者は、アトリー氏の率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった・・・日本ほどアジアを白人の支配から離脱させることに貢献した国はない。しかし又その解放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったたりした諸国民そのものから、日本ほど誤解をうけている国はない。これは実に日本が、その武力万能主義と民族の夢想とのために謬(あや)まらせたためである。・・もし日本が武断派的独断と自惚れを退けて、開戦当時の初一念を忘れず、大東亜宣言の精神を一貫し、南機関や鈴木大佐らの解放の真心が軍人の間にももっと広がっていたら、いかなる軍事的敗北も、アジアの半分、否過半数の人々から信頼と感謝とを、日本から奪い去ることはできなかったであろう。日本のために惜しむのである。そうは言っても、最終的には日本の無数の植民地の人びととの解放を果たした役割は、いかなる事をもってしても抹消することはできないのである、私は敗戦後の日本が、あらゆる屈辱と軽蔑に対して、何の抗議も抵抗もしないどころか、占領政策に便乗し迎合至らざるなき変わり方に、日本人は奴隷民族に堕落してしまったかと疑った時期があった。しかしそのあとの日本経済と、現実対応の姿を見て、長い目でみるなら、日本の敗戦は実際に於いては歴史的意味に於ける敗北ではなかったのではなかろうか。この敗戦は日本人に新しい現実主義を教え、日本人本来の偉大さと、世界列国の間に伍する本来の地位とを、発見させたのではなかろうか。」
                   2009年1月30日記

写真:サルトル
↓↓↓   ↓↓↓
https://ameblo.jp/naitotakaousa/
←(クリックはここ)アメーバーブログ
↑↑↑    ↑↑↑