訪日(第170回You Tube(キルケゴール)、ビルマ(ミャンマー))(#59)
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⓶ どのようなトピックス、日時などを木庵と話し合う。
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木庵の般若心経(3回目)
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第170回You Tube(キルケゴール)
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キルケゴールの哲学を肯定的に見る見方
カーター先生は、キルケゴールの哲学を熱情からスタートして、理性を放棄していると批判された。それに対して、キルケゴールの哲学を肯定的に見る見方もあってもよいはずである。その肯定的な見解を考えてみよう。

キルケゴールにとって重要なことは、本当の意味のキリスト教徒になることである。真のキリスト教徒であるということは、イエスの教えに全て従うことである。それは当時の思想、啓蒙思想に逆らうことである。啓蒙思想とは、人間の理性を最大限に評価している。キリスト教では、人間の理性なんて、神の前ではただの一欠けらの塵にもみたない。寧ろ己の力のなさ、己の罪の深さを感じ神に触れ伏すことが、本当のクリスチャンであるといえる。そのような人間にケルケゴールはなりたかったのだろう。彼のこの信仰心はどうも父親から受けたもののようである。

キルケゴールの父ミカエルは信心深いキリスト教徒であった。ミカエルは貧しい農家の出身で、幼い頃に一度だけ神を呪ったことがあった。その後ビジネスで成功し裕福になった。ところが、ミカエルはその成功は自分の力によるものではなく、神を呪った罰であると考えた。その罰として、ミカエルの7人の子どものうち5人は若くして亡くなっている。

父ミカエルの罪を知ったキルケゴールは衝撃を受け、その後のキルケゴールの人生を決定したようである。そして、キルケゴールは、最も原理的な信仰・実存・幸福を求めるようになった。完全な純粋さを求めた。この純粋さは、極端な理想主義でもあった。それは、カーター先生も述べられているように快楽主義の拒絶であった。ソクラテスが酒を飲み、ご馳走を平らげ、若者に恋をしても、自らを失わなかったように、キルケゴールにも快楽に溺れることはなかったようである。

キルケゴールが生きた19世紀のヨーロッパは、産業革命によって機械化が進み、人々の個性が失われていく時代であった。この主体性のない社会を、キルケゴールは批判した。ケルケゴールによると、真理を追究する「主体的真理」があるという。真理のために死ぬことができるような主観的理想をキルケゴールは彼の心の中で描いていたようである。キルケゴールにとって、誰もが納得するような客観的な事実はなく、自分にとっての主体的真理を追究することが重要であると考えたのである。

キルケゴールは客観的事実を追求する従来の哲学を否定し、個人が、特にキルケゴールが幸せになるための哲学を模索したのである。カーター先生が述べられているが、美学的な生き方、倫理的な生き方、宗教的生き方の三つの生き方があるが、最後の宗教的な生き方こそ、本物の生き方であるとキルケゴールは主張している。宗教的な生き方とは、ただひとり、単独者として神と向き合う生き方である。自分の有限性を自覚し、無限の存在である神と向き合うことによって、真の主体性を得ることができると、キルケゴールは考えたのである。

ソクラテスは、「無知の知」を唱えた。つまり、自分は何も知らないことを自覚し、真理を探求することが大事であることを言っている。このソクラテスの「無知の知」の考え方は、キルケゴールの生き方の中に発見できそうである。キルケゴールの時代、哲学界ではヘーゲルが絶大な影響力を持っていた。ヘーゲルは、2つの考えを対立させることによって、より高度な結論を見出そうとする「弁証法」を提唱した。
しかし、ヘーゲル哲学では、壮大な世界観が語られるものの、個人が、キルケゴールが己の人生をどのように対峙するかということを教えていない。
そこで、キルケゴールは、個人の人生に焦点を当てた哲学を構築しようとしたのである。その意味でキルケゴールの哲学は、実存的であるといえる。

道元は「仏を習うは自己を習うなり」と言った。自己とは己のことであり、分かりやすそうであるが、そうではない。自分自身が何者であるのかを正確に認識し、それに基づいて生きることは、想像以上に難しい。自分を高く評価して、実現してもいないことを実現したかのように考える人がいる。また自分ではないものを自分であるとすり替えてしまう人もいる。キルケゴールは、ヘーゲルが言うような「あ絶対精神」などという大層なことは言わない。
キルケゴールの生き方はどこまでも神の前に謙虚で、しかも、己の役割どうかを真摯に考えている。

そして、キルケゴールは、徹底的に、自分ではないものを、自分から遠ざけている。つまり、抽象的・客観的なもの、すなわち美的実存や倫理的実存によって得られる幸福を否定している。所詮人間は死すべきものであり、孤独で、無力で、罪深いと認識する。

キルケゴールの宗教的実存とは、有限で罪のある人間としての自覚を持ち、神の前に一人生きることである。この実存方法は、この世での幸福を放棄することである。そうすることによって、神による救済があり、永遠の幸福が約束されるとキルケゴールは信じていたようである。

このような生き方は、我々に大きな示唆を与え、世界が、日本が、なぜキルケゴールの哲学を高く評価しているかの理由が分かるよう気がなする。
つづく


ビルマ(ミャンマー)
ヂ臈?里砲蝋眦戮雰鎧?亮韻箏海侶亳海求められている(この規定により、現軍政の議長タンシュエ上級大将が大統領に横滑りする可能性がある)
Τ姐颪汎段未隆愀犬砲△觴圈特に配偶者が外国人である場合、議員にはなれない(アウンサンスーチー氏を議会から締め出すことになる。すでに軍政高官はそのことを示唆している)
犯罪歴のある者は議員になれない(ビルマでは「政治犯」も「犯罪者」なので、彼らを排除することになる。NLD関係者や学生運動出身者の少なくない数は議員立候補資格が得られない)
┨馥蘯0造乱れたとき、また国家の主権が崩壊の危機に直面したとき、軍司令官が全権を握ることができる(軍による「合法的クーデター」を認めているようなものである)
国民投票に際し国際監視団の受け入れは認めなかった(よって公平な国民投票にはならず、投票率98%、賛成率92%という茶番の投票となった)
憲法草案反対・ボイコット運動を禁止した(国民投票を前にした国民の自由な議論を封殺した)

2010年に総選挙?
 新憲法制定過程を強引に乗り切ったかに見える軍政は、2010年に総選挙を実施すると宣言している。しかし、それまでにアウンサンスーチーの解放やNLDと対話する約束は示されておらず、選挙に際して先述の軍政の御用団体USDAを政党に衣替えし圧勝させようとするシナリオを用意している。このような勝手を国際社会は認めてよいのだろうか。国連の仲介がサイクロン被災者救援を最優先するあまり、民主化進展に関し後ろ向きになってしまっており、それがアウンサンスーチーをハンガーストライキにまで追い詰めている(2008年8月30日現在)。国連事務総長(パン・ギムン氏)とビルマ担当特使(ガンバリ氏)にはもっと筋の通った対応が求められている。そして国連安全保障理事会(安保理)の常任および非常任理事国も、ロシアと中国の拒否権に屈することなく、柔硬両用のやり方で、ビルマ問題を国連の重要アジェンダとして取り扱い続けるべきである。
 
<次のようなブログもある>
少数山岳民族の人々のことを考えるきっかけは、親しいベトナム人(かれらはキン族とよばれる)の中にある強い差別意識に触れたからです。
 ベトナム人は少数山岳民族を嫌います。山岳民族のものを(それが布製のバッグや小さなアクセサリーであっても)身につけたり持つことは絶対にありません。
 その強い差別意識は一体どうして生まれたのか、ベトナム人の中にある差別意識に触れると、そのように考えざるをえません。
 はじめてサパに出かけたとき同行したハノイ出身の若いベトナム人ガイドは、モンの人々について、彼らを「ミャオ」と呼び、ヘラヘラ笑いました。ミャオとはベトナム語でネコ(meo)のことで、藍染の民族衣装を着た姿がネコに似ているから、と彼はそんな説明をしました。
 モンの人々は、中国では苗族と呼ばれています。中国語で「苗族」をミヤオということから、ベトナム語のmeoと結び付けているのかもしれません。その時のわたしは知りませんでしたが、苗族(ミャオ)という呼び方は蔑称です。ベトナム語のmeoという呼び方は、現地では「野蛮の意」という意味だそうです。正しくはモン(Hmong)と言うことを知ったのは、ずいぶん後のことです。
 ベトナム北部にいるモン(60万人ほどいると言われています。モンという言葉は「自由の人々」を意味するそうです)の人々は、大昔から中国の南(雲南省)あたりにいた民族で、中国の清朝時代に漢民族の迫害を受け、多大の犠牲をはらってインドシナ(ベトナム・ラオス)へ逃げてきた人々です。
 差別意識の因を知るためには、まずモンの歴史を辿らないといけないようです。

ミャンマー軍政は経済政策

リー・クアンユー氏、「ミャンマー軍政は経済政策において全くの無能」
2007年10月10日 23:39
【10月10日 AFP】「ミャンマーの軍事政権指導者たちは経済政策に関しまったく無能。いつまでも政権を支配するとは思えない」-シンガポールの初代首相であり現顧問相のリー・クアンユー(Lee Kuan ……
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(c)AFP
「軍事政権の高官たちには経済感覚がまったく欠如している。多くの天然資源に恵まれているミャンマーの経済がどうすれば現在のような困窮状態に陥るのか分からない」。リー顧問相は自身、小さな島国であるシンガポールを、経済後進地域の一港湾都市国家から、アジアでも有数の経済国へと急速に変革する過程の先峰に立った。「(ミャンマーの軍事政権指導者が)いつまでも生き残ることができるとは思わない」。

 ミャンマーは世界の最貧国の一つだが、その国土は天然ガスや鉱物などの資源に恵まれている。 

資源が恵まれているのにもかかわらず、国が貧しいのはあきらかに政府の責任でしょう。

なぜこのようなことになるのか。国内での資源分配がうまくいかないからであり、不必要に外貨に頼ろうとするからです。なぜ外貨に頼ろうとするかというと、「そのほうが儲かるから」と考えてしまうからです。

ミャンマーに限らず、東南アジア各国は豊富な資源を持っています。しかし、資本主義の波に飲まれると貧しくなります。

モノよりもお金が支配する常識に組み入れられては彼らは必ず負けてしまうのです。

だからアジアに自然主義経済をひろめるべきなのです。アジアの時代は西洋近代資本主義のまねであってはなりません。
つづく

記事【映画南京の真実】へのerasusさんの反応#3 

о1980年代=ジャパンアズナンバーワン=アメリカ合州国沈没
 о1990年代=日本大不況・失われし10年=アメリカ合州国空前の繁栄(アメリカにはもう不況は来ないとエコノミストが豪語)
 -と、両国がともに栄えた試しはなかったのだ。アメリカ合州国は経済的にも…
 о事実敵国
 -に過ぎない。だから、わが国には…
 оアメリカ合州国と共通の価値観
 -などはない。支那政府は愚かにも日本ばかり見過ぎた。本当の当面の敵は<自民党>の親支那派などではなかったのだ。日本など<自民党>の親支那派議員を呼んで支那女でもあてがえば、それで対日外交は終わりだったのだ。支那は対日外交でも失敗したのだった。
 上記に書かれたことは-
 оアメリカ合州国ホワイトハウスのエリート(大統領)補佐官=ホワイトハウスマフィア
 -の考え方とそっくりだ。ブッシュ政権は、それで大失敗を冒したのだった。これは、かつて(旧)ソ連政治局で、
 о冒険主義
 -と揶揄されたものに過ぎないのだ。
 о政治は妥協である
 -これが真実だ。
 о鄧小平の七転び八起き
 -は、
 о現実主義者
 -の勝利だった。
 о天安門
 -は鄧小平にとっても下策であったに違いなかった。<記2008年10月23日>

木庵の反応
■<一九三七年十二月十三日から約六週間にわたって日本軍によって行われたとされる〈南京大虐殺〉を仮に一つの「殺人事件」(ならびにそれに付随する掠奪・強姦事件を含む)としてとらえ、刑事訴訟の手法を用いて、告発した側に挙証責任があるという前提のもとに、「犯罪」としての立証がなされ得ているか否かを綿密に再検証する。素晴しい検証だ。
  それにerasusさんの記述も冴えている。特に「時代の変動に対処すること」は興味ある記事だ。木庵>

「今般のアメリカ合州国発、
 оサブプライム(リーマン)大恐慌への対応、
 о北京五輪
 -での支那首脳部の隠蔽の失敗も無惨だった。そして大恐慌到来で、
 о日本の東京五輪後の大躍進同様の支那の世界制覇の野望
 -も潰えた。おそらく支那政府も<自民党>同様に現状維持政策に凝り固まって今回の大恐慌に対処することに失敗するだろう。」

木庵の藩王
<保守と現状維持とは違う。どのような人間でも、国家でも現状維持が一種の本能から来ているようだ。中国も現状維持に動いている。歴史カードを出して日本を扇動していると思っていても、もはや出すカードの意味は見抜かれてしまった。それなのにまだ同じカードを出すということか。日本も支那中共の「嫌がることを」どんどん言い続けるべきである。中国政府が300億円以上も出して作らせた南京大虐殺事件の映画は世界でほとんど観られていないという。金の無駄使いであった。自国民を洗脳するために、南京大虐殺記念館を作っても結構だけど、時代の変動に対処できる柔軟な中国人を作ることが出来るのだろうか。中共政府に乗せられるような頭脳で新しい時代に対処できるのであろうか。いつか、日本に泣きつくのが関の山である。木庵>
 
о歴史カード
 -など糞の蓋にもならない。北京政府が日本政府ばかりみていると、印度やロシアにやられてしまうだろう。今般の大恐慌は、
 оアメリカ合州国の自滅
 о支那のアジア大平洋覇権の野望の挫折
 оロシアの覇権の野望の挫折
 -など、わが国の三大…
 о現実敵国
 -が右往左往右顧左眄の秋で日本侵略どこではないのだ。ピンチはチャンスなのだ。アメリカ合州国の沈没は、
 оわが国の浮上
 -に過ぎない。
 
 о政治は妥協である
 -これが真実だ。
 о鄧小平の七転び八起き
 -は、
 о現実主義者

木庵の反応
<政治は現実主義である。本当はしっかりした哲学なり,宗教なりに根ざした国家観の上に立った現実主義であるべきである。支那中共ごとき、歴史伝統を破壊した国家観で、破れた箇所を逐次修理する現実主義など、もう先が見えている。たしかにアメリカの沈没はチャンスである。ロシア、中共、インドなどが狙っいる。日本も狙えばよい。日本は製造業が健全である。つまり実質経済が安定しているのであるから、今回のサブプライム恐慌を乗り切る力を持っているはずである。もはや日本はバルブ崩壊後の金融危機を乗り越えた実績があるからだ。本来日本民族は現実主義に長けた民族である。ただ島国で他国との接触があまりなかったので、世界的レベルの現実主義に疎かっただけである。今後は自信をもって、歩むべきである。今年4人のノーベル受賞者が出たではないか。erasusさんが述べているように、戦前の日本人のレベルが高かたっのであるから、戦後も戦前レベルに早く復活すべきである。>
木庵

写真:キルケゴール
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