訪日(渋沢栄一)(#49)
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You Tubeを立ち上げた
対談に参加したい人は、
⓵ 木庵のメールアドレスをクリックする。

メールアドレス:takaonaito03@gmail.com
⓶ どのようなトピックス、日時などを木庵と話し合う。
⓷ 実際にズーム上で対話をおこなう(自動的に録画できるようになっている)。
⓸ ズームで録画したものを、You Tubeに移動(木庵の作業)
⑤ 出来上がったYou Tubeのアドレスをブログに掲載。
⓺ You Tubeのアドレスをクリックすると、誰でも対話の様子が見れる。

*顔を隠したい人、仮の名前でもよい(勿論木庵の顔はだす)。

*二人以上もできるが、40分でズームは切れる(延長する場合は、再開する必要あり)。

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木庵のZoomミーティングに実際に参加する場合:
下のURLをクリックする。

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ミーティングID: 558 258 9118
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*URLをクリックするだけで、ミーティングルームに入れる(ミーティングID、 パスコードの入力は必要ないよう)。
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木庵の般若心経(3回目)
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渋沢栄一
<「渋沢栄一誇りが持てる日本の歴史学習会」にズ―ムで参加した。木庵>

木庵様
本日は、誇学令和6年度
第3回
一万円札の顔・渋沢栄一の「論語と算盤」
へご参加いただき
ありがとうございました。

正に波瀾万丈な
渋沢栄一の人生、
木庵さんの印象は
いかがでしたでしょうか?

ぜひ、木庵さんの
本日の感想を教えてください。
藤岡先生、植木、スタッフ一同
楽しみにお待ちしております。
※アーカイブ視聴の方は
視聴後に教えてくださいね。
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次回の学習会について
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次回、第4回の学習会は
7/14(日)10:00-12:00開催です。

【テーマ】
義和団の乱で獅子奮迅の働きをした柴五郎の会津武士道

当時の西洋人に絶賛されたのに、日本人に全く知られていない柴五郎とは、どんな人物だったのでしょうか?

誇りが持てるご先祖さまについて、来月も木庵さんとご一緒に、学べること楽しみにしております。

目覚めよ、日本人!


木庵の感想
渋沢栄一が尊王攘夷激派であったことや徳川慶喜と関係があったことなど、驚きの話であった。渋沢は日本の資本主義を作ったことは知っていたが、彼のやり方は、日本そのものを豊かにすることであり、一部の資本家だけが金持ちになる仕組みを作ったのではなかった。岩崎弥太郎と渋沢の資本主義の考え方の違いの説明で、よく分かった。今日本の経済が沈滞しているのは、アメリカのしもべ的な資本主義を展開しているからである。今こそ、渋沢が目指した、実際に行った日本型資本主義を考え直す必要がある。そのために、渋沢が行ったことを日本人が知ることである。藤岡先生が主催されている新しい教科書には、それが書かれていることは、素晴らしいことである。
質疑応答の時間に、今日本に自由の言論空間がないのは、マスメディアが嘘を報道するようなことはしないが、重要な出来事を報道しない、報道しない自由を行っているということを、藤岡先生が言われたことは俊逸であった。辛辣で素晴らしいマスメディア批判であった。今日本に求められているのは、渋沢的な日本型資本主義を展開することである。私の周りで、一人の渋沢のような人物の出現により、組織が変わっている。このような組織がどんどん増えることにより、日本人の意識が変わり、本当に日本人が幸せな人生を送れるようになると思う。それを信じ、私は私のやれる範囲で、渋沢的な人生を歩みたいと思った。今回も素晴らしい話であった。植木さんが言われたように、このような話がお母さんたちの井戸端会議でなされるようになると、日本のマスメディアが変わらざるをえなくなるようになると思う。木庵


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ウィキペディアの記事 (渋沢栄一)
渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、旧字体:澁澤 榮一、1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)は、日本の実業家。位階勲等爵位は正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。

江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(一橋家家臣)に取り立てられ、のちに主君・徳川慶喜の将軍就任にともない幕臣となり、明治政府では官僚も務めた。民部省を経て直属の上司である大蔵大輔と井上馨の下で大蔵少輔、吉田清成らと共に造幣、戸籍、出納など様々な政策立案を行い、初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱となる。

井上馨と共に退官後は実業界に転じ、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所といった多種多様な会社や経済団体の設立・経営に関わった。そのうち企業は約500社にもおよび、「日本資本主義の父」と称され、実業家の肥田理吉(肥田琢司の弟)らと日本経済の在り方を論じた。

同時に東京養育院等の福祉事業、東京慈恵会、聖路加国際病院等の医療事業、東京大学文学部新聞研究室(現:東京大学大学院情報学環教育部)、商法講習所(現:一橋大学)、大倉商業学校(現:東京経済大学)、高千穂高等商業学校(現:高千穂大学)等の実業教育、東京女学館などの女子教育、台湾協会学校(現:拓殖大学)の設立、二松學舍(現:二松学舎大学)第3代舎長就任等による私学教育支援や、理化学研究所設立等の研究事業支援、国際交流、民間外交の実践等にも尽力した。また『論語と算盤』の言葉に代表されるその道徳経済合一の思想でも広く知られている。


経歴
郷里にて 1840年 -
渋沢栄一の生家である旧渋沢邸「中の家」。
武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島)に渋沢市郎右衛門(1809年 - 1872年)とゑい(1811年 - 1874年)の姉と妹を持つ長男として天保11年(1840年)2月13日に誕生した。

渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営して米、麦、野菜の生産も手がける百姓だった。原料の買い入れから製造、販売までを担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。栄一も父と共に信州や上州まで製品の藍玉を売り歩くほか、原料の藍葉の仕入れ調達にも携わった。14歳の頃からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、こうした経験がヨーロッパ視察時に、近代的な経済システム、諸制度を理解吸収する素地となり、また後の現実的な合理主義思想の形成にも繋がったともいわれる。

一方で、5歳の頃より父から漢籍の手ほどきを受け、7歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い、『論語』を始め四書五経や『日本外史』を学ぶ。剣術は元川越藩剣術師範で近隣に在郷の大川平兵衛より神道無念流を学んだ。安政3年(1856年)16歳の時、領主代官のいる岡部藩の岡部陣屋で御用金の上納を命じられ、大いに反発したと伝わる。安政5年(1858年)18歳の時、惇忠の妹で従妹にあたる尾高千代(1841〜82)と結婚した。


尊攘派志士から、一橋慶喜の家臣へ 1861年 -
文久元年(1861年)、江戸に出て海保漁村の門下生となる。また北辰一刀流の千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から尊皇攘夷の思想に目覚め、文久3年(1863年)に共に従兄弟である尾高惇忠や渋沢喜作らと、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにしたのち長州藩と連携して幕府を倒すという計画を立てるが、同じく従兄(惇忠の弟)の尾高長七郎の懸命な説得により中止する。

親族に累が及ばぬよう父より勘当を受けた体裁を取り、喜作と連れ立って京都に出るが、八月十八日の政変直後であったため、勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により喜作と共に一橋慶喜に仕えることになる。士分となった栄一は篤太夫、喜作は成一郎の通称を名乗る。当時、慶喜は朝議参与として京都に常駐していた。仕官後、慶喜が朝廷から禁裏御守衛総督を拝命するが、御三卿は自前の兵力を持っていないため兵力調達が急務となり、栄一らが一橋家領内を巡回して農兵の募集で手腕を発揮した。


幕臣となりヨーロッパへ 1867年 -
1866年頃の幕臣・渋沢栄一。
慶応2年(1866年)12月、主君の慶喜が将軍となったことに伴って幕臣となる。フランスの首都パリで行われる万国博覧会(1867年)に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟・清水家当主の徳川昭武の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書を得て、フランスへと渡航する。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。その際に通訳兼案内役として同行していたアレクサンダー・フォン・シーボルトより語学や諸外国事情を学び、シーボルトの案内で各地で先進的な産業・諸制度を見聞すると共に、近代社会のありように感銘を受ける。フランス滞在中に、幕府における役職は御勘定格陸軍付調役から外国奉行支配調役となり、その後開成所奉行支配調役に転じている。パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学する予定であったが、大政奉還に伴い、慶応4年(1868年)5月には新政府から帰国を命じられ、昭武の水戸徳川家相続の件もあり、昭武と共に9月4日(1868年10月19日)にマルセイユから帰国の途につき、同年11月3日(12月16日)に横浜港へ帰国した。


慶応3年(1867年)
一年半ほどの滞欧中に洋装を整え、当時の日本男子が結っていた髷を切り、送られてきたその写真を見た妻は嘆いたという。渋沢は後年、山高帽をかぶり、それを国産化する日本製帽の操業にも携わり、日本で男性が帽子着用を好む文化の定着に一役買った。この経験を通じ、ヨーロッパ文明に驚き、また、人間平等主義にも感銘を受けた。この見聞した経験が、栄一の人生を大きく変えた。

静岡藩、民部省・大蔵省時代 1869年 -
大蔵省時代の渋沢栄一
帰国後、駿府の宝台院(現所在地は静岡市葵区常磐町二丁目)に謹慎していた徳川慶喜と面会し「これからは、お前の道を行きなさい」との言葉を拝受するも旧恩に報いるため、駿府(静岡)に留まり静岡藩に出仕した。静岡ではフランスで学んだ株式会社制度を実践することや、新政府からの借入金返済のために、勘定頭の平岡準に相談し、明治2年(1869年)1月には商法会議所を設立した。この商法会議所では銀行的業務と物産販売を兼ね、小野組で糸店を担う古河市兵衛に取り扱いを依頼することもあった。

1869年(明治2年)10月、明治新政府からの招状が静岡藩庁に届き、栄一は大久保一翁に相談し東京へ向かうと民部省租税正の辞令書を受ける。一度は辞任を決意するも、大隈重信らの説得で11月に出仕する。民部省内に改正掛が置かれると掛長となり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わった。明治4年(1871年)年7月27日に民部省が大蔵省に統合されることに伴い、芳川顕正紙幣頭の下で大蔵権大丞となり、次いで大蔵大丞となる。1872年(明治5年)には大蔵省三等出仕となり、紙幣寮の頭に就任(同三等出仕は上野景範)。大蔵大輔井上馨や大蔵少輔吉田清成と連携して造幣寮の事務に勤しみ、ドイツで印刷された明治通宝(通称「ゲルマン紙幣」)を取り扱ったが、贋札事件の発生も少なくなかった。さらに、同年2月に起きた東京での大火からの再建を大蔵省が主導することとなり、井上馨、東京府参事の三島通庸らとともに煉瓦造りの街並みを計画した。しかし、予算編成を巡って大久保利通や大隈と対立し1873年5月7日、大蔵大輔井上馨や大蔵少輔吉田清成と共同で財政改革意見を建議し、建議書を『日新真事誌』などに掲載して論議を喚起した。明治6年(1873年)5月14日に井上馨と共に退官した。

この間、戊辰戦争を旧幕府側で戦い投獄されていた従兄の渋沢喜作の出獄を引き受け、大蔵省への仕官を世話し養蚕製糸事業調査の名目でヨーロッパ視察に送り出している。同じく戊辰戦争を幕府側で戦った従兄の尾高惇忠には富岡製糸場の初代場長として事業立ち上げを託している。


実業家時代 1873年 -
銀行

大蔵省を辞職した栄一は、井上馨やアレクサンダー・フォン・シーボルト、その弟のハインリヒ・フォン・シーボルトの協力も得ながら明治6年(1873年)自ら設立を指導した第一国立銀行(後の第一銀行、第一勧業銀行、現:みずほ銀行)の総監役に就任する。大株主の三井組、小野組の頭取2名の上に立って、日本最初の銀行の創業を担う。明治7年(1874年)に二大株主の一つ小野組が破綻したことで、新銀行は経営危機に陥った。三井組は単独経営を志向するが、栄一は小野組の古河市兵衛の誠実な対応にも助けられ、被害を最小限に留め、三井組による銀行経営の独占を退けた。自ら単独の第一銀行頭取となり、公益に資する民間取引を軸に据えた銀行の路線を確立する。財閥の機関銀行的な運営とは一線を画し、新興の商工業者の創業指導や資金支援を積極的に展開する。

また、栄一は全国に設立された多くの国立銀行の指導、支援を第一国立銀行を通じて行った。明治10年(1877年)、宇和島伊達家を主な出資先とする第二十国立銀行(後、第一銀行と合併)の設立には相談役を引受け、最終的には第一銀行が吸収合併して経営を引き取り、その深川支店を栄一自邸跡地に移した。

明治25年(1892年)、小口の貯蓄を集める貯蓄銀行の制度ができると、栄一はじめ第一銀行役員の出資により東京貯蓄銀行(後の協和銀行、現:りそな銀行)を設立し、栄一は取締役会長を務めた。

栄一の郷里の埼玉では、明治26年(1894年)に熊谷銀行(後、武州銀行、埼玉銀行、現:埼玉りそな銀行)の設立発起人、明治32年(1899年)設立の黒須銀行(後、武州銀行、埼玉銀行、現:埼玉りそな銀行)では顧問役を引受けている。栄一の頭取退任後ではあるが大正8年(1919年)の武州銀行設立にあたり、第一銀行は栄一の甥で娘婿の尾高次郎監査役を初代頭取に送り出し、設立を支援した。その後、武州銀行は栄一が設立を支援した熊谷銀行、黒須銀行を合併している。

半官半民の特殊銀行が開設されるようになると、栄一は明治29年(1896年)に日本勧業銀行(後、第一勧業銀行、現:みずほ銀行)、明治33年(1900年)に日本興業銀行(現:みずほ銀行)、北海道拓殖銀行、いずれにおいても設立委員として開業を指導した。


事業会社
明治6年(1873年)、栄一は大蔵省在職時から計画を練っていた抄紙会社(現:王子ホールディングス、日本製紙)の設立認可を得て経営を始める。同年、東京府の瓦斯掛(現:東京ガス)の委員となりガス事業を計画。明治8年(1875年)に廻米、生糸貿易の澁澤喜作商店の開業を支援。明治9年(1876年)、平野富二の石川島平野造船所(現:IHI、いすゞ自動車、立飛ホールディングス)に対し個人出資や第一国立銀行の融資で創業を支援。同年、秀英舎(現:大日本印刷)の印刷業創業や、『中外物価新報』(現在の『日本経済新聞』)の創刊を支援した。

明治12年(1879年)に東京海上保険会社(現:東京海上日動火災保険)創立発起人および相談役に就き、保険業創業を支援。明治14年(1881年)に日本鉄道会社(現:東日本旅客鉄道)理事委員となり設立に参画。明治15年(1882年)には倉庫会社・均融会社の設立出願総代、監査役。同年、共同運輸会社の創立発起人となり三菱財閥の日本郵船による海運独占に対抗した(後に両社は合併)。さらに同年には東京電灯会社(現:東京電力ホールディングス)発起人、委員、大阪紡績会社(現:東洋紡)発起人および相談役となった。明治16年(1883年)、工部省深川工作分局の浅野総一郎への払下げによる浅野セメント工場(現:太平洋セメント)創業を支援。明治18年(1885年)、ジャパンブリュワリー(現:キリンホールディングス)設立の理事員を務めた。

明治20年(1887年)、清水組(現:清水建設)の後継者が幼少のため相談役に就き経営にあたる。同年、高峰譲吉の東京人造肥料会社(現:日産化学)の起業を創立委員長として支援したほか、東京製綱会社(現:東京製綱)創立委員、日本煉瓦製造会社理事長、東京ホテル(現:帝国ホテル)発起人総代および理事長、札幌麦酒会社委員長、後に札幌麦酒㈱ 取締役会長(現:サッポロホールディングス)、後に大日本麦酒㈱(現:サッポロホールディングス、アサヒグループホールディングス)設立総会議長 取締役、日本土木会社(現:大成建設)発起人総代、委員長。明治21年(1888年)、古河市兵衛の足尾鉱山組合(現:古河機械金属、古河電気工業、富士通、富士電機、横浜ゴム)の設立を支援。明治25年(1892年)、東京帽子(現:オーベクス)取締役会長。明治28年(1895年)東洋経済新報の創刊を支援、日本精糖(現:大日本明治製糖)発起人および取締役。明治29年(1896年)、汽車製造(現:川崎重工業)創立委員および監査役、浦賀船渠(現:住友重機械工業)相談役、東京建物設立発起人を務めた。

栄一は汽車製造だけでなく、日本鉄道など45の鉄道会社の創立・経営に関わった(小川裕夫『渋沢栄一と鉄道』天夢人)。豊島線(現在の山手線の一部)開業前には、目の前を鉄道が通ることによる騒音を嫌って旧主の慶喜が巣鴨から小石川へ転居する一幕もあった。

明治30年(1897年)、澁澤倉庫部(現:澁澤倉庫)を自邸倉庫を使った家業として創業。

明治31年(1898年)、北海道十勝清水町熊牛地区に開墾を目的とした十勝開墾合資会社を設立。明治39年(1906年)、京阪電気鉄道(現:京阪ホールディングス)創立委員長、帝国劇場会社(現:東宝、東京会館)創立委員長。


明治33年(1900年)
明治40年(1909年)、日本皮革(現:ニッピ)発起人、相談役。この他にも多種多様な企業の設立や運営に関わった。


経済団体
明治10年(1877年)に択善会(後に東京銀行集会所、東京銀行協会に発展)を組織して、銀行経営者の連携により、政府に対して各種の提言を実施。明治11年(1878年)には渋沢喜作、大倉喜八郎、三野村利助、益田孝らの財界人を誘い、東京商法会議所(後に東京商工会議所、日本商工会議所に発展)を設立して会頭に就任し、広く商工業者の輿論を形成して多様な財界活動を展開する。広く資本を集め事業を起こす合本主義の考え方を実践するためには、株式市場の創設が必須と明治11年(1878年)、東京株式取引所を設立。当初は債券取引が中心で、株式を公開する企業が少ない中、第一国立銀行の株式を率先して上場した。

福祉・医療
明治7年(1874年)より、生活困窮者救済事業である養育院(現:東京都健康長寿医療センター)の運営に携わり、後に事務長、院長に就いた。幼少年や長期療養者ごとの分院や感化が必要な少年への学校を設置する等、終生この事業に係わり運営に心を砕いた。明治10年(1877年)には、佐野常民が西南戦争の傷病兵を敵味方無く救護する目的で博愛社が創立されると社員となり、後に同社が日本赤十字社と改称されると常議員となり、引き続き運営に関わった。明治17年(1884年)に高松凌雲が生活困窮者に無料で診療治療を行う事業のために設立した同愛社の幹事となり事業に協力した。

明治40年(1907年)東京慈恵医院(現:東京慈恵会)の相談役および委員長となり、財団化に尽力する。明治41年(1908年)、癌研究会(現:がん研究会、がん研有明病院)の設立にも尽力して副総裁となる。


教育
明治8年(1875年)、当時は実学教育に関する意識がまだ薄く、実学教育を実施する機関が無い事から森有礼の興した商業講習私塾を東京会議所が所管する商法講習所(のちに東京商科大学を経て、現在の一橋大学)とし、経営委員として運営を支援した。明治14年(1881年)から明治16年(1883年)まで東京大学において自ら講師として日本財政論を講義した。明治21年(1888年)には、工手学校(現:工学院大学)設立に際しても賛助員となり支援を行い、明治33年(1900年)には大倉喜八郎の大倉商業学校(現:東京経済大学)にも創立委員として協するなど実業教育の充実発展を継続して支援した。

まだ男尊女卑の風が強い当時にあっても女子への高等教育の必要性を唱え、明治20年(1887年)には伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立し、これを母体として東京女学館を設立。明治34年(1901年)の日本女子大学創立においても支援を行った。なお実業界引退後はそれぞれ館長、校長も引き受けている。

その他にも栄一は私学設立・運営への協力にも積極的で、明治21年(1888年)には新島襄の同志社の大学設立の基金の募集や管理に尽力。明治31年(1908年)の早稲田大学の理工系への事業拡大計画に際しても、基金管理委員長として協力した。明治33年(1900年)、台湾協会学校(現:拓殖大学)の学校設立委員会委員に就任、学校設立に尽力し、設立後の明治36年(1903年)には大講堂において学生向けに演説を行った記録がある。明治34年(1901年)に朝鮮に開校した日語学校の関城学堂設立に向けての構想を、大日本海外教育会の有力後援者のひとりとして尽力した。

また初代根津嘉一郎が大正11年(1922年)に旧制武蔵高等学校(現・武蔵大学、武蔵高等学校中学校)を創立したのは、先述に述べた渡米実業団への参加を通して、アメリカの実業家が積極的に私財を公共事業に投じる姿勢から、「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」と確信したからという。


文化・娯楽
栄一は国民への娯楽提供や文化・生活水準向上にも意を注いだ。明治23年(1890年)に東京・浅草での「日本パノラマ館」開業を主導した一人であった。また後年、広く利用できる社交の場が必要と東京会館開業(1922年)を後押ししたほか、中流層が都市郊外で自然に触れながら生活できるようにと、パリの凱旋門広場をモデルに放射状・同心円状に区割りした田園調布の開発も進めた。

国際交流・民間外交
明治12年(1879年)、前アメリカ合衆国大統領グラント夫妻の訪日に際して東京商法会議所、東京府会に働きかけ、接待委員会を組織。福地源一郎と共同で接待委員総代を務めて歓迎行事を準備し、飛鳥山の自邸(迎賓接待用の別邸)でも歓迎会を実施した。明治14年(1881年)にはハワイ王国のカラカウア王の招待会を飛鳥山邸にて開催した。

明治26年(1893年)、栄一は海外からの賓客に対応するための組織として「貴賓会」を設立して幹事長となる。こうした事業は1912年のジャパン・ツーリスト・ビューロー(JTB)設立に繋がる。明治31年(1898年)、大韓帝国(韓国)を実地視察、韓国皇帝高宗に謁見。韓国のインフラ整備を支援し近代化を進め、両国間の貿易を通じて、善隣友好関係を結ぼうとの考えから、京釜鉄道、京仁鉄道の敷設に尽力。

明治35年(1902年)に米欧を実地視察し、各地の商工会議所メンバーと交流したほか、セオドア・ルーズベルト米国大統領とも会談。明治36年(1903年)、大隈重信らと共に日印協会の設立に携わる。後に実業界引退後は第三代会長も務めた。明治41年(1908年)、キリスト教系慈善団体の救世軍創設者のウィリアム・ブース来日時には、飛鳥山邸で歓迎午餐会を開いた。


実業界引退後 1909年 -
明治42年(1909年)6月6日に数え70歳の古稀に達し、実業界からの引退を表明。第一銀行と東京貯蓄銀行(第一銀行系の貯蓄銀行)を除く61の会社役員を辞任した。銀行経営は後継者の佐々木勇之介が担い、栄一は民間外交や教育、福祉、医療等に軸足を移した。大正5年(1916年)、数え77歳の喜寿には第一銀行頭取も辞任している。その後は社会事業や道徳普及運動、民間外交などに注力していく。1912年には帰一協会の発起人の一人となった。

民間外交
明治42年(1909年)に渡米実業団を組織し団長として、全国の商業会議所会頭を率いて訪米。ウィリアム・タフト大統領と会見する他、3ヵ月かけてアメリカ各地を訪ね、貿易摩擦の解消、相互理解の進展に努めた。明治45年(1912年)にはニューヨーク日本協会協賛会を創立して名誉委員長を引き受けた。同年のアメリカ・カリフォルニア州における外人土地所有禁止法に見られる排日(日本移民排斥)運動などに対し、アメリカ人の対日理解促進のためアメリカ報道機関へ日本のニュースを伝える通信社の設立を提案した。ロイターの障壁は厚かったが、設立した国際通信社は現在の時事通信社、共同通信社の起源となった。

大正2年(1913年)に来日した中華民国国民党党首孫文を民間を代表して出迎える。大正3年(1914年)には、日中経済界の提携のため中国を訪問した。

大正4年(1915年)、パナマ太平洋博覧会のため渡米して各地を歴訪し、ウィルソン大統領と会見した。大正5年(1916年)には日米関係委員会を発足させて常務委員に就任。大正6年(1917年)には日米協会を創立して名誉副会長就任。第一次世界大戦後の大正9年(1920年)には国際連盟協会を創立して会長に就任。大正10年(1921年)、ワシントン軍縮会議出席のため訪米し、ウォレン・ハーディング大統領と会見した。

関東大震災後に設立された帝都復興院委員(左から渋沢栄一、伊東巳代治、加藤高明)。


渋沢栄一と青い目の人形。
大正13年(1924年)、栄一はポール・クローデル駐日フランス大使と協力して日仏交流の拠点として日仏会館を発足させ、理事長となる。大正15年(1926年)には日本太平洋問題調査会を創立して評議員会会長となった。昭和2年(1927年)、日本国際児童親善会を設立し、アメリカの人形(青い目の人形)と日本人形(市松人形)を交換し、親善交流を深めることに尽力している。昭和6年(1931年)には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め義援金募集に尽力した。

栄一は1926年(大正15年)と1927年(昭和2年)のノーベル平和賞の候補にもなっている。


教育
明治42年(1909年)、栄一は東京商科大学の申酉事件の調停を行い、東京大学への統合から同大学を守り、後援組織としての如水会の名誉会員となる。大正3年(1914年)、高千穂高等商業学校(現:高千穂大学)の設立に際して評議員として協力、実業教育発展への思いを持ち続けた。

大正8年(1919年)、栄一に『論語』を講じた三島中洲没後、三島が創立した二松学舎の舎長、理事に就任する。大正10年(1921年)私塾 国士舘(現・国士舘大学)の維持委員に就任した。

女子教育についても、大正13年(1924年)に東京女学館館長、昭和6年に(1931年)日本女子大学校長と、創立から関わった2校のトップも引き受けている。


福祉・医療
明治44年(1911年)、済生会の寄附金募集世話人、顧問、評議員となり恩賜財団設立に尽力。大正2年(1913年)、北里柴三郎の日本結核予防協会に評議員として協力。大正3年(1914年)、聖路加国際病院の評議会副会長、会計監督に就く。大正9年(1920年)には知的障がい児の保護教育事業を行なう滝乃川学園の理事長に就任した。

大正末から昭和初期にかけて、聖路加国際病院評議会会長を務め、病院の発展のために院長のルドルフ・トイスラーと病院を熱心に支援した。


その他の活動

渋沢栄一
明治42年(1909年)5月30日、嘉納治五郎が運営する柔道の総本山・講道館の財団法人化に際し、推されて監事となる。以降、栄一は没するまで終身、講道館監事を務める。

大正6年(1917年)、自然科学の研究機関である理化学研究所(理研)設立に際し設立者総代となる。大正7年(1918年)、旧主慶喜の事績を正確に後世に伝えたいとの思いから『徳川慶喜公傳』を龍門社より刊行。大正7年(1918年)、田園都市株式会社設立(現:東急電鉄)の発起人となり、都市近郊の住宅開発の事業化を後援した。

大正8年(1919年)、労働争議の活発化が想定される中、労使協調を推進するための官民組織として「協調会」を設立し副会長となる。大正12年(1923年)、漢学振興を目的に帝国議会で設立が決議された大東文化協会(現:大東文化大学)の評議員に就任。


震災復興
栄一は大正12年(1923年)の関東大震災に際し、政府や東京市に臨時対応を献策しつつ、自ら被災者に供給するための食糧を自費で近県から取り寄せ配給を行った。協調会を通じた罹災者収容、炊き出し、災害情報板設置、臨時病院確保等の対策を実行。また救済事業資金調達のため、大震災善後会を結成して義援金集めにも奔走し、栄一と交流のあったアメリカの実業家からも多くの義援金が寄せられた。政府帝都復興審議会の委員にも就き、議論をリードし復興都市計画をまとめる事にも尽力した。

死去 1931年
昭和6年(1931年)11月11日、栄一は老衰の為死去した。享年92(91歳没)。

栄一は数カ月前より大腸狭窄症を発症しており、10月には自邸で開腹手術を受けていた。栄一の逝去の報に接し、弔問の客がひきもきらなかったと伝えられている。当日午後には昭和天皇の勅使、香淳皇后と貞明皇太后の使者が差し遣わされた。

14日、通夜に際しても勅使、御使が遣わされ、栄一の事績を称えた御沙汰書が下賜された。栄一の葬儀は15日に青山葬儀場にて執り行われ、飛鳥山邸から青山までの葬送の列を沿道で多くの人が見送った。

法名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。墓所は谷中霊園渋沢家墓地。


シーボルト
幕末期に栄一がパリ万博派遣使節の一員として渡欧した際に、同行して語学を教えた通訳は、長崎出島の商館医で多くの蘭学者を育てたシーボルトの長男であり、当時在日英国公使館通訳をしていたアレクサンダー・フォン・シーボルトであった。栄一が日本に帰国後も交友を続け、弟のハインリッヒ・フォン・シーボルトと共に日本赤十字社設立を始め、栄一にたびたび協力をする間柄となった。

評価
経営学者のピーター・ドラッカーも栄一の業績について「誰よりも早く1870年代から80年代にかけて、企業と国家の目標、企業のニーズと個人の倫理との関係という本質的な問いを提起した」と高く評価し、「20世紀に日本は経済大国として興隆したが、それは渋沢栄一の思想と業績によるところが大きい」(『マネジメント務め、責任、実践』)と言及している。ドラッカーによれば、「岩崎弥太郎と渋沢栄一の名は、国外では、わずかの日本研究家が知るだけである。しかしながら彼らの偉業は、ロスチャイルド、モルガン、クルップ、ロックフェラーを凌ぐ」(『断絶の時代』)とのことである。


写真:藤沢栄一、フランス万博での写真2枚
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