訪日(第168回You Tube(バートランド・ラッセル)、ビルマ(ミャンマー))(#48)
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You Tubeを立ち上げた
対談に参加したい人は、
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⓶ どのようなトピックス、日時などを木庵と話し合う。
⓷ 実際にズーム上で対話をおこなう(自動的に録画できるようになっている)。
⓸ ズームで録画したものを、You Tubeに移動(木庵の作業)
⑤ 出来上がったYou Tubeのアドレスをブログに掲載。
⓺ You Tubeのアドレスをクリックすると、誰でも対話の様子が見れる。

*顔を隠したい人、仮の名前でもよい(勿論木庵の顔はだす)。

*二人以上もできるが、40分でズームは切れる(延長する場合は、再開する必要あり)。

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木庵のZoomミーティングに実際に参加する場合:
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木庵の般若心経(3回目)
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第168回You Tube(バートランド・ラッセル)
https://youtu.be/mfrc0O9KDUA

木庵が一番尊敬しているベンソン先生は、厳格な論理実証主義者である。先生の多くの授業を受けたが、論理実証主義なるものがどのようなものか、いまだによく分かっていない。分かっていないが、何かこのようなものではないかというのを書いてみる。

論理実証主義(logical positivism )は1920年代、スイスのウインでヴィーン学派なる哲学集団が現れた。

ヴィットゲンシュタインは、「哲学は知的活動である。哲学の仕事は本質的には明晰化であり、哲学の成果は一連の哲学的命題ではなく、命題の意味を明瞭にすることである」と述べている。ようするに、ヴィーン学派が誕生するまでの西洋の哲学の兆候として、曖昧なことをあたかも真実であるかのような表現が蔓延っていた。そのようなものを論理的に分析し、それらの真に意味するところを明らかにすることが、論理実証主義である。そして、論理実証主義は経験主義の基盤に立っているので、非経験的なもの、当時哲学の世界で華やかなにもてはやされた形而上学のなかに、不明瞭さを発見し、除去するようになった。
論理実証主義は論理の明瞭性を求め、実証とは経験に基づくもののみ正しいという考え方である。形而上学などで述べる世界は、経験に基づくものではなく、観念の世界だとして排斥している。

大雑把に言うと、演繹的な論理を排除し、科学がおこなう、帰納的な論理のみを正としている。そういうことから、ウイン学派には、哲学者だけでなく、カルナップのような物理学者、バートランドラッセルのような数学者、経済学者のノイラート(Otto Neurath, 1902-1945)等の科学者が集まってきた。

しかし、当時ナチスの興隆の時期にあり、ウィーン学派もその圧力によって活動不能となり、多くの学者は米、英に亡命し、このグループは発足以来10年にして解体した。しかし、この思想はかえって各地に強い根をおろし、とくに、米国の分析哲学の礎石の一つとなった。

ウィーン学派の最大のテーマは「統一科学」であり、「科学的に世界を把握すること」であった。それに、論理主義は論理学を重視し、世界を論理的に再構成しようとした。最初、「論理的原子論」に近い立場をとったが、その後少し形態を変えたようである。

ノイラートは、哲学に期待される役割は、さまざまな科学知識をもとの原理から統合することであると考えた。すべての科学の言語は、同じ一つの、物言語の言明の集まりにほかならないから、すべての科学のための統一言語を導入することによって、統一科学の体系を作り出すことができるはずである。

あらゆる経験科学の言語を、物理的言語によって再構成しようとした。物理的言語は、ルドルフ.・カルナップによれば「いつどこで温度が何度だった」というような言語である。物理主義のねらいは、それまで経験科学の究極的基礎とされていた個々人の現象的な観察命題を物理言語に翻訳し、そこから自然科学の体系を論理的に再構成しようとした。この考え方に従えば、あらゆる経験科学の言語は、最終的に個々人の主観から独立な物理的言語に翻訳(還元)できるのである。

しかしこの立場に対して批判がある。それは生物学が扱う生命現象に対してである。生命現象を物理的言語への翻訳(還元)できるかという問題である。

また、数学の対象が記号化のような操作とは関係なく直観により直接に捉えられる、とする直観主義がある。この直観主義に、論理実証主義は答えをだすことができない。

論理実証主義といっても色々あるようであるが、木庵の理解は、言語を物理的な表現により分析するということだけである。

このような論理実証主義は、人間の感情をどのように言語分析するかという問題があり、もはや、現在の哲学の世界では時代遅れのようである。木庵が大学院の学生の頃、アメリカの哲学界で論理実証主義をまともに研究する人はほとんどいなかった。ただベンソン先生だけが、カルナップの黒子として、カルナップの著作だけでなく、色々なところで講義した講義録を集め、研究されていた。カルナップ生誕100年祭の集いが世界各地で行われた。その時ベンソン先生はドイツに赴き、ドイツ語で基調講演をされている。
カーター先生は上記のようにバートランドラッセル批判をされたほどで、論理実証主義をそれほど高く評価されていない。
ある時、カーター先生は、ベンソン先生が厳格にも論理実証主義を支持されていることに対して、次のようなことを言われた。
「形而上学は、キャンバスに美しい景色を描くようなものである。ところが、ベンソン先生の論理実証主義の取り組みは、キャンバスに少し描いたかと思うと、『これは間違いだ』と、ほんの少ししか描かず、筆をおいて、考え直す。そして、また描こうとするのだが、『いやいや、これもおかしい』と止めてしまう。このような態度が、ベンソン先生の取り組みである」。

もうすでに書いたように、カルナップなどの論理実証主義者はアメリカに亡命し、アメリカは一時、世界をリードする論理実証主義の研究の場であった。ところが、第二次大戦後、アメリカにおける論理実証主義の流行は覚めた。そして、多くの優秀な哲学者は論理実証主義を少し変えるようなものを打ち立てようとした。ところが、カルナップの直弟子であったベンソン先生は、頑なにカルナップの哲学に拘り、変えるようなことをされなかった。そのことが、ベンソン先生をアメリカの哲学界のなかで、「古い化石」のように扱われるようになったのである。ようするに、ベンソン先生は新しい時代の波に乗れなかったのである。そのことが、却って木庵には有難かった。ベンソン先生がアメリアの有名な大学の教授になられたのではなく、木庵が通う二流大学で、木庵という日本からやってきた留学生に、先生が信じる哲学を一生懸命教えてくださったのである。先生がアメリカで、いな、世界で脚光を浴びるよう哲学者であったなら、木庵のような名もない、力のない留学生を心から教えることもなかっただろう。そして、個人的に木庵の生活や、生き方にまで援助を与えるようなことはなかっただろう。それだけは、確かである。木庵>


ウィキペディアの記事(ルドルフ・カルナップ)
ルドルフ・カルナップ(Rudolf Carnap, 1891年5月18日 - 1970年9月14日)は、ドイツの哲学者。論理実証主義の代表的論客として知られる。

生涯
1891年、ドイツのロンスドルフ(現在のヴッパータル)生まれ。バルメンのギムナジウムで学び、その後フライブルク大学で、数学、物理、および哲学を学ぶ。初め物理に興味を持っていたが、第一次世界大戦で研究を中断。その後、哲学者ブルーノ・バウフ(de:Bruno Bauch)のもとでDer Raum(「空間」)と題した博士論文を提出し、引き続き論理実証主義の視点から物理学上の問題について研究した。1924年から1925年にかけてはフッサールの講義に出席している。

1926年にはウィーン大学で職を得、またウィーン学団の一員となる。当時のウィーン学団にはハンス・ハーン、モーリッツ・シュリック、フリードリヒ・ヴァイスマン、オットー・ノイラートなどがいた。またウィトゲンシュタインとも接触している。1928年の著書Der logische Aufbau der Welt(『世界の論理的構成』)では、科学的知識の経験主義的再構築を試みた。

1931年からプラハで自然哲学の教授を務める。1935年にはアメリカへ渡り、1941年に帰化。シカゴ大学、プリンストン高等研究所を経てカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で教鞭を執った。1970年9月14日、入院加療中に死去。79歳。


木庵の反応
<カルナップの葬儀委員長をベンソン先生はなされた。木庵>


ビルマ(ミャンマー)
1) シャン州の北に岐阜県ほどの広さのワ州(ワ軍支配区)、その北にワ州の4分の1ほどのコーカン州(コーカン軍支配区)が隣接している。二つの州は中国と国境を接している。また、ワ州のほぼ南端から狐の尻尾のように中国国境線に沿うように、またラオスの北西とも国境を接するリン・ミン・シャン軍支配区(ワ州の半分ほどの広さ)がある。この3つの支配区は、旧ビルマ共産党支配区である。それに加えシャン州の南部、タイと国境沿いにクンサー軍支配区(ワ州の半分)、とワ軍支配区(コーカン州の半分ほど)が少し間隔をあけて存在する。ワ軍支配区は飛び石状態に二つに分かれている。これらの支配区は一応ビルマ政府軍と交戦中か停戦状態にある地域ということになる。実はシャン州は33の州内州(サブ・ステート)からなり、ワ州の場合、シャン州のワ州ということになる(ビルマ政府はサブ・ステートを行政区分としておらず、慣習的にそう呼ばれている)。ゴールデン・トライアングルとは、タイ、ラオス、ビルマの国境地帯に広がる、いわゆる麻薬地帯のことであるが、ラオス、タイは元々生産量が少なかったうえに、政府の規制でアヘンは1980年代に入ってから激減している。結局両国とも「負のイメージを」払拭しようとした結果である。ところがビルマはアヘンの生産量は落ちるどころか90年代になってから増加する一方である。1997年現在ではゴールデン・トライアングルの全生産高の9割以上であると言える。しかもその60~70%をワ州から生産されている。つまり、全世界の4割前後のアヘンを岐阜県ぐらいの広さの所で栽培されているのである。この地を管理しているのが、ワ州連合軍(ワ軍)という反政府ゲリラ組織である。ワ軍はアヘンに税をかけたり、ヘロインから生じる利益によって強大な武力を維持しているといわれている。
2) 中国がビルマ政府と敵対しているはずのワ州に国境を開いているのは。ワ軍とビルマ政府が今のところ停戦しており、その条件の一つとして中国が国境を開放するというワ側の要望があったからだ。
3) 高野は4年もかけて、「麻薬王」の異名をとる、反政府ゲリラの頭目、クンサー(中国名、張(チャン)奇夫(チーフー)、シャン州出身。中国人の父とシャン人のあいだに生まれる)のグループにコンタクトをとった。前述したように、シャンはシャムと同起源の言葉で、歴史的にビルマより北部タイとの関係が強かった。ビルマ連邦に組み込まれたのは、イギリスら列強による植民地化と国境線引きの結果である。
4) クンサーは口では「シャンの独立」を謳いながら、実際にはビルマの軍事政権と地下で通じ、支配区では独裁君主のような圧制を強いているという噂があった。
5) ワ軍の強さは定評がある。ワ人はかつて宗教上の理由から、あるいは復讐の目的から、近隣の村や他民族の土地を襲い、殺した相手の首を狩る、いわゆる「首狩り族」の末裔である。
6) ワ州は、シャン州の中でも例外的に政府軍が入り込めない土地である。支配区の拡張やアヘン=ヘロインの利益、さらにはシャン州とタイを結ぶルートをめぐって、ワ軍がクンサー軍と衝突を繰り返している。
7) ワ州は、今はワ軍、その前は20年間にわたってビルマ共産党(BCP)に支配され、さらにその前は中国の内戦に敗れた国民党軍の残党が徘徊していたところである。道らしき道もない秘境で、人々は首狩りにいそしみ、とてもビルマ政府やそれ以前のイギリス植民地の統治の及ぶところではなかった。つまり、有史以来、いかなる国家の管轄下にもなったことがないのである。
8) 高野はサイ・バオと言う人間に接しているが、サイ・バオは1970年ごろ、「ゴールデン・トライアングルの首都」と呼ばれたチェントゥインで生まれ育ち、ラオスでCIAの仕事をしていた。ラオスは1954年に旧宗主国フランスが撤退してから1975年に共産化するまで、ラオス国軍はアメリカの軍隊であると揶揄されるほどのアメリカと結びついていた。当時は、そのラオス国軍の総司令官自身がヘロインの精製所や密輸ルートをコントロールしていたといわれ、そのお先棒を担いでいたのがCIAだといわれている。CIAは当時、タイ・ビルマ国境付近の少数民族にケシ栽培を奨励し、彼らから安価で買い入れてヘロインに変え、それを軍資金にして同じ少数民族の反共ゲリラ兵士と戦わせていたという。
9) ワ軍は設立以来、一度も政府軍と戦ったことがない。だから反政府ゲリラという呼称は矛盾している。おまけに、政府軍と一緒に戦ったことがあるというからややこしい。
10) ワ州とそれに隣接する一帯は、1968年から89年まで、中国が全面的にバックアップするビルマ共産党の支配下になった。今でも行政区分や官僚組織の面でワ州が中国の統治方式を踏襲しているのはそのためである。
11) 1989年、共産党内で軍内クーデターが勃発した。ソ連崩壊と直接関係はないにせよ。社会主義というシステムそのものの制度疲労や世界的な民族主義の台頭と無縁ではなかろう。又この頃民主化問題で国際社会からバッシングを食らっていた中国とビルマ政府が「同病相憐れむ」格好で急接近し、中国側も時代遅れのビルマ共産党を早いところ厄介払いしたかったという地域的な事情もあったと思われる。結果として、ビルマ人指導者たちは中国に追放され、ビルマ共産党の支配区は、以前に述べた3つに割かれた。北からコーカン州、ワ州、ムンヤン地区だ。共産党崩壊と同時に各地域は連携をとりながら、自前の軍隊を旗揚げした。このとき、ビルマ政府の事実上のナンバーワンであるキン・ニュン第一書記が自ら乗り込んで旧共産党三派とまたたくまに停戦条約を結んでしまった。つまり、政府軍と戦う前に停戦をしたのである。<このあたり、1988年9月、タン・シュエ議長らが率いる軍部が独裁体制を敷いたネ・ウィン(Ne Win)将軍へのクーデターを決行、それに現在のタン・シュエ軍事政権と中国との接近と関連して考えると、筋が読めてくるはずである> 
12) コーカン人は実は中国人(漢族)のことで、中国語では(果敢)と書く。世界でたった一ヶ所、中国人が華僑としてではなく、他国の少数民族として存在しているところである。国境の線引きでそうなったのではなく、隣の雲南人とは一線を画する。コーカンは明朝の一族及びその近衛兵の末裔である。17世紀、清が攻め込んで明を征服したとき、南へ南へと逃げ、ついにビルマに逃げた。清朝の要請で当時のビルマ王朝は、諸王の一人、永暦帝(1625-62)の身柄を引き渡したが、随行していた人々には辺境の山岳地帯に住むことを許した。したがって、コーカン人は由緒正しい明王朝の末裔である。少なくとも彼らはそう信じている。
13) コーカンといえども、中国人は中国人である。イデオロギーのたががはずれるや、利を求めて驀進するのは昨今の中国大陸と同じである。新軍隊をミャンマー全国民主同盟軍と命名し、ビルマ政府と癒着しだした。実際、1990年の総選挙には、ビルマ国軍の内部でもアウン・サン・スー・チーの国民民主連盟(NLD)が圧倒的支持を得たにもかかわらず、コーカン州ではビルマで唯一、ビルマ国軍の党が第一位を占めた。これはどう見ても反政府ゲリラではなく、「親政府武装勢力」と呼んだ方が良い。コーカン州はワ州の4分の1にも満たない広さであるが、ワ州に次ぐ第二のアヘン生産地である。
14) ムンヤン地区では、東シャン州軍と名乗り、首領は紅衛兵上がりの中国系シャン人、リン・ミン・シャンである。これは民族ゲリラですらなく、いわゆる軍閥である。
つづく


写真:ゴールデン・トライアングル
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