訪日(第168回You Tube(バートランド・ラッセル)、ビルマ(ミャンマー))(#47)
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You Tubeを立ち上げた
対談に参加したい人は、
⓵ 木庵のメールアドレスをクリックする。

メールアドレス:takaonaito03@gmail.com
⓶ どのようなトピックス、日時などを木庵と話し合う。
⓷ 実際にズーム上で対話をおこなう(自動的に録画できるようになっている)。
⓸ ズームで録画したものを、You Tubeに移動(木庵の作業)
⑤ 出来上がったYou Tubeのアドレスをブログに掲載。
⓺ You Tubeのアドレスをクリックすると、誰でも対話の様子が見れる。

*顔を隠したい人、仮の名前でもよい(勿論木庵の顔はだす)。

*二人以上もできるが、40分でズームは切れる(延長する場合は、再開する必要あり)。

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木庵のZoomミーティングに実際に参加する場合:
下のURLをクリックする。

https://us04web.zoom.us/j/5582589118?pwd=b0xsUHBQM2NYb0NNVFdYK3JSY2daUT09

ミーティングID: 558 258 9118
パスコード: 2BaZGd

*URLをクリックするだけで、ミーティングルームに入れる(ミーティングID、 パスコードの入力は必要ないよう)。
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木庵の般若心経(3回目)
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https://youtu.be/ZRq3bKOLgLQ
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第168回You Tube(バートランド・ラッセル)
https://youtu.be/mfrc0O9KDUA

以上述べたように、ラッセルは一般の人々に、政治や社会活動家として良く知られている。ラッセルは第一次世界大戦に反対した。そして、戦争終結のために動いた。彼は単なる平和主義者ではない。戦争は意味がないと考えていただけである。彼はまた、試験的結婚を良しと考えていた。特に大学生にそれを推薦している。学生が、セックスに囚われずに、勉強に集中できると、ラッセルは考えたのである。そのため、保守の人々から疎まれることになった。
ラッセルは1920年にロシアを訪問している。そして、新しい共産主義国家を「偏狭者によって、多くの囚人を収容した」として批判している。そして、憤激しながら、ロシアを去っている。1971年、79歳の時、核武装に反対する運動を行い、刑務所に投獄されている。彼は本当の意味の自由思想家である。ただし、彼の行動は彼の哲学の範囲から離れたものであった。
倫理において、ラッセルは感情主義者であった。「『べきである』というのは、ある人が他者に対しての心理的な圧力をかけるレトリックにすぎない」と言っている。感情主義は一応、倫理学の中に入れることができるが、これは説と言えるような代物ではない。これは、倫理学的な勧告、命令に違反している。
そうであるが、ラッセルの倫理学における感情主義は、彼の最も興味のある活動をさらに推進した。そのため、生気一杯の彼の倫理は、社会批判として、かくも頑丈であった。彼の道徳的感情は、哲学の枠の中に閉じ込められているはずなのに、彼は彼の哲学によって束縛されているとは思っていない。であるので、彼はいつも自由であったし、自由に話し行動した。
そして、もし彼が「全ての哲学の基礎は崩れたと宣言した」とするなら、想像の世界ではあっても、何と素晴らしいことを言うのであろうかと評価できるのだが(これはカーター先生の皮肉)。


ビルマ(ミャンマー)
6) 軍政は反政府活動を封じ込める一方で、軍の権力を固定化する新憲法案の国民投票を5月に強硬。投票への監視と動員で成立させた。
7) 昨年のデモの直接のきっかけは燃料費の値上げによる物価の急上昇だったが、その後も下がる気配はない。ヤンゴン市内の米屋では黄色く変色した安米が売られていた。5月にミャンマーを襲ったサイクロン「ナルギス」で水浸しになった米で、市民は「ナルギス米」と呼び、質の悪い米が売れるのは、生活が苦しんでいる人が多いからである。
8) 5月、タン・シュエ議長と会談したバン基文事務総長は、サイクロン被害への国際援助受け入れを認めさせた代わりに、民主化問題には触れなかった。
9) 制裁強化をちらつかせる欧米も「内政不干渉」を貫く中国、ロシアの賛成がなければ安保理を動かせない。人道支援を一部凍結に踏み切った日本も、天然ガスなど資源が豊富な「親日国」と関係を維持したいのが本音。


木庵の反応
<朝日新聞の報道である、支那中共とタン・シュエ軍事政権との関係について踏み込んだ記事など期待できない。一応、僧侶への弾圧の実体についてはよく取材しているが、僧侶がなぜ反政府運動に走ったかの背景については一切記述がない。僧侶が燃料費高騰だけで立ち上がるだろうか。軍事政権が支那中共と結びつき、ビルマ人の心を中共に売りつけようとする危機感からきていることなど、一切報道していない。また、アウン・サン・スー・チーさんの民主化運動がどのようにビルマ国民に受け入れられているかも書いていない。あたかもビルマの人々はアウン・サン・スー・チーさんを支持しているかのごとき書き方である。ビルマの人々はイギリスで育ったアウン・サン・スー・チーさんを、イギリスの代表ぐらいにしか考えていない。支那中共は、軍部だけへの接近だけでなく、民主化運動家のタイ亡命者と水面下で交渉しているという情報がある。支那中共は軍部が崩壊しても民主化運動の左翼勢力と結びつき、どう転んでもビルマを支那中共に都合の良い国家にしようと目論み、もはや着々と基盤をつくりだした。西洋諸国がビルマの民主化、民主化と騒いでいるうちに、ビルマを実質的に支那中共のものにしてしまいつつあるのである。木庵>

イギリス、国民党、中国共産党、CIAが絡んだ、絡むビルマの麻薬栽培
  「アヘン王国潜入記」(著者:高野秀行、発行所:集英社、第1刷:2007年3月25日)と、「ビルマとミャンマーのあいだ」、(著者:瀬川正仁、発行所:凱風社、初版第一刷発行:2007年10月10日)を参考にしながらビルマ麻薬事情について述べる。
  中国、タイ、ラオスと国境を接しているビルマ東部シャン州というところがある。ここは麻薬生産のメッカ、ゴールデン・トライアングルとして知られている。シャン民族の人口はおよそ500万人、ビルマ全体の4分の1を占めている。「シャン」とは語源的に「シャム」を意味し、隣国タイとの関係は深い。シャン州のラショーは「援蒋ルート」の起点であった。「援蒋ルート」は1942年、日本軍がビルマを占領したことで終焉した。しかし、戦後60年以上たった今、マンダレーからラショーを経由して中国の雲南省の省都・昆明にいたるこのルートは中緬貿易の大動脈として復活している。
  瀬川によると、「ビルマの場合、辺境に向かうほど欲望のボルテージが高くなる」という。瀬川の記事をそのままコピーすると、「道路の大半を建設し、通行収入を得ているのは嘗ての麻薬王ロー・シンハンの一族が関係するアジアン・ワールドという会社だ。麻薬王、言ってみれば初代麻薬王にあたる人物だ。アメリカとの駆け引きに失敗し一時投獄されていたこともあったが、今ではすっかり復権し、大々的にビジネスを展開している。このロー・シンハンにしろ、二代目のクンサーにしろ、かつての麻薬王と呼ばれたものたちが、麻薬ビジネスを退いた後もビルマ国内で隠然たる力を持ち続けていることは驚かされる」。
久左衞門氏の記事をもう一度コピーする
  「ミャンマーの政権を揺るがすことには、メリットがある。中国と接するミャンマー北東部は、世界最大のアヘンの生産地だった。これを守ることはCIAの重要な仕事であり、ブッシュ一族が率いる麻薬カルテルがその販売を担ってきた。ところが軍政が敷かれてからケシ栽培からの脱皮を模索し始め、今では世界の生産量の5%を占めるまで低下した。」
  ケシ栽培は北朝鮮が手がけていると言われているが、シャン州辺りの反政府組織の重要な収入源でもあった。それだけでなく久左衛門氏の指摘のようにCIAの関与もあったのだろう。瀬川の記述では次のように書いている。
  「この地方で麻薬が作られるようになったのは19世紀のことだ。発端は、イギリスが中国の富を収奪しようとしたことである。当時、イギリスは人気商品である中国産の茶や絹織物がのどから手に出るほどほしかった。そのため中国とのあいだに膨大な貿易赤字を抱ええることになる。この赤字解消策として考え出されたのがアヘンつまり麻薬の輸出だった。中国人に麻薬を売りつけ、中毒患者を増やせば、彼らは労せずして中国の貴重な商品を手に入れられるわけだ。アヘンの元になるケシ栽培には充分な日照りと寒暖の差がある熱帯地方の高地が適している。そこで中国と国境を接するビルマの山岳地帯がアヘン生産の基地となった。・・・アヘン戦争だ。戦争の賠償として香港の租借をはじめ上海など主要な港を開かせた。  だが麻薬の物語はこれだけでは終わらなかった。この錬金術はイギリスがこの地を去った後の第二次大戦の後、中国共産党の紅軍に追われこの地に逃げ込んだ中国国民軍の資金源として受け継がれた。当時、強い反共政策をとっていたアメリカは国民党の麻薬生産を知りながら黙認し続けた。さらにその後、この地の麻薬生産はビルマ国軍に追われたビルマ共産党軍に受け継がれ、現在では少数民族の武装勢力が受け継いでいる。ビルマ政府は表向きは麻薬撲滅スローガンに掲げ、時には大々的な軍事作戦を展開している。しかし麻薬生産はいっこうに減る気配がない。かつての麻薬王ロー・シンハンやクンサーがビルマ国内で隠然たる力を持っていることからもわかるように、彼らと利権を共にするビルマ政府が真剣に撲滅に取り組んでいないためである。」
  高野はジャーナリストというより探検家と言った方がよい。実際にケシ栽培の現地に出かけるだけでも危険きわまりない。そこを、現地に赴き、1995年の秋から7ヶ月間ケシ栽培農民と共に生活しているのだから驚きである。雑草取り、ケシから麻薬の原液採りにも従事している。それどころか麻薬中毒にまでなるという体を張った生活を送っている。ジャーナリスト的な取材というより高野自身が探検家として滞在生活を楽しんでいるところがある。だから本の多くが現地の人々との交流における話が主である。ところが、私が必要とするジャーナリスト的な記述も少しある。それをもとに、ビルマの辺境のシャン州での反政府ゲリラの動向、又ビルマ政府軍との癒着、支那中国との関係を浮き上がらせたい。
つづく


写真:タン・シュエ
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