訪日(第167回You Tube(理性))(#42)
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木庵の般若心経(3回目)
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第167回You Tube(理性)(intelligence)
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アラン・チューリング(Alvin Turing)は仮説を打ち立てた。その仮説は彼の名前をとって、 「チューリングテスト」と言う。仮説は、人間と同じ、それ以上の頭脳を機械で作れるというのである。この仮説が正しければ、人間の考えることはバカバカしくなる。そして、人工頭脳の心と、人間の心の違いなど考えるのは意味がなくなる。人工頭脳の機械を壊したとすると、殺人罪になるのだろうか。それとも、ただ単に機械を壊しただけなのか。この機械は人間の心をもち、人間のように考えることができる。そうだとすると、この機械を壊すことは殺人罪になる。私(カーター先生)は、この問題に対して混乱する。それに、IA(人工頭脳)に関してもう一つ難問が浮かんでくる。IA(人工頭脳)は死を恐れるのか。IA(人工頭脳)は生命体ではないので、どうして死を恐れるというのだろうか。IA(人工頭脳)は鶏の唐揚げやハンバーガーが好きなのだろうか。 人工頭脳は何も食べないので、食欲などない。 人工頭脳はベートーベンよりモーツアルトの方が好きなのだろうか。 人工頭脳は何かを好むのだろうか。何かをしたいと思うのだろうか。人工頭脳は何も欲しない。 人工頭脳が考えるという行為は、その生きた核から切り離されている。理性は生命体に宿る。理性は生命体の何々をしょうという意図からやってくる。意図とは生命の形である。もし我々が人工的な理性を作ったとしても、その中身も人工的である。理性はそれだけで存在しない。理性と生命とはお互いに関係して成り立つ。一つでけでは存在しない、他との関係において存在する。

アラン・チューリング(Alvin Turing)は特に最近話題になっている人工頭脳とは何かを問うた哲学者のようである。より彼のことを知るために、ウィキペディアを覗いてみた。


ウィキペディアの記事(アラン・チューリング)
アラン・マシスン・チューリング(Alan Mathison Turing、英語発音: [tjúǝrɪŋ]〔音写の一例:テュァリング〕, OBE, FRS 1912年6月23日 - 1954年6月7日)は、イギリスの数学者、暗号研究者、計算機科学者、哲学者である。日本語において姓 Turing はテューリングとも表記される。

電子計算機の黎明期の研究に従事し、計算機械チューリングマシンとして計算を定式化して、その知性や思考に繋がりうる能力と限界の問題を議論するなど情報処理の基礎的・原理的分野において大きな貢献をした。また、偏微分方程式におけるパターン形成の研究などでも先駆的な業績がある。


人物
経歴・業績の基盤となる出発点は数学であったが、第二次世界大戦中に暗号解読業務に従事した。また黎明期の電子計算機の開発に携わった事でコンピューター・情報処理の基礎理論である計算可能性等に関する仕事をすることとなった。

第二次世界大戦の間、ブレッチリー・パークにあるイギリスの暗号解読センターの政府暗号学校で、ドイツの暗号を解読するいくつかの手法を考案し、英国の海上補給線を脅かすドイツ海軍のUボートの暗号通信を解読する部門 (Hut 8) の責任者となった。ドイツが使用していた、エニグマ暗号機を利用した通信の暗文を解読する(その通信における暗号機の設定を見つける)ための機械 bombe を開発した。

チューリングの業績を紹介する時、チャーチ=チューリングのテーゼと計算可能性理論への貢献がまず第一に挙げられる。特にアルゴリズムを実行するマシンを形式的に記述したものの一つである「チューリングマシン」にその名を残し、人によっては前述のテーゼを「チューリング=チャーチ」と呼称するべきであるとする者もいるほどである。また、任意のチューリングマシンを模倣(エミュレート)できる「万能チューリングマシン」は、同分野の基本的な定理のひとつである停止性問題の決定不能性定理と関係する。さらに、理論面だけではなく、実際面でもコンピュータの誕生に重要な役割を果たした。「コンピュータ科学の父」および(チューリング・テストなど)からは「人工知能(AI)の父」とも言われる。

がっしりした体形で、声は甲高く、話好きで機知に富み、多少学者ぶったところがあったといわれている。また、アスペルガー症候群(自閉症スペクトラム障害・ASD)を示唆する特徴の多くを示しているとの指摘もある。

戦後は、イギリス国立物理学研究所 (NPL) に勤務し、プログラム内蔵式コンピュータの初期の設計のひとつACE (Automatic Computing Engine) に携わった(ただし、チューリング自身は、その完成を見ずに異動している)。1947年、マンチェスター大学に移ると、初期のコンピュータ Manchester Mark I のソフトウェア開発に従事し、数理生物学に興味を持つようになる。形態形成の化学的基礎についての論文を書き、1960年代に初めて観察されたベロウソフ・ジャボチンスキー反応のような発振する化学反応の存在を予言した。

1952年、同性愛の罪(風俗壊乱罪)で警察に逮捕され、保護観察の身となり、転向療法としてホルモン治療を受ける。1954年に41歳で死去。検死によると、青酸中毒による自殺と断定されたが、母親や一部の友人は事故だと信じていた。

2009年9月10日、インターネットでのキャンペーンに続いて、首相のゴードン・ブラウンが、戦後のイギリス政府によるチューリングへの扱いについて、公式に謝罪した。


生涯
生い立ち

母エセルは、イギリス領インド帝国オリッサ州チャトラプルでアラン・チューリングを妊娠した。父のジュリアス・チューリングは、当時インド高等文官であり、1911年に妻エセルの妊娠を知ると、イギリス本国での養育を考えて、ロンドンのメイダヴェールに戻った。1912年6月23日、アランが誕生した。現在、アランが生まれた病院(現在はホテル)には、それを記念したブルー・プラークがある。

父の任期が続いており、両親はインドとイギリスのヘイスティングスを行き来する生活を送っていた。そのため、アランと兄のジョンは、イギリスの友人に預けられる。文字を読むことは三週間で覚えたといわれる。また、数字に強くパズルが非常に得意だった。

6歳でセント・マイケルズ学校に入学した。担任教師に続き、校長もすぐに彼の才能に気づく。


パブリックスクール時代
1926年、14歳でシャーボーン・スクールに入学。登校初日がゼネラル・ストライキ予定日と重なったため、前日から100kmの距離を一人で自転車で行くことにして、途中で宿をとって登校。このできごとは地元紙に掲載された。

シャーボーンは有名なパブリックスクールであり、その校風は古典を重視するものだったが、チューリングは、主に数学と科学に才能を発揮した。そのため、同校の校長は、アランの両親に「どっちつかずにならないと良いですが。パブリックスクールに留まるなら、教養を身に付けねばなりません。単に科学者になるのなら、パブリックスクールに通うのは、時間の無駄です」という手紙を書いた。

しかし、このようなことがあっても、アランは、学問に対する驚くべき能力を示し、初等微分積分学も習っていない1927年に、もっと難しい問題を解いていた。1928年、アルベルト・アインシュタインの書いた文章に触れ、16歳でその内容を理解しただけでなく、そこには明記されていなかったニュートン力学について、アインシュタインの疑問を外挿したという。

同性の親友であるクリストファー・モルコムに恋をしたが、シャーボーンの最終学期中、感染牛のミルクを小さいころに飲んでいたため牛結核症を患って、モルコムは死去した(1930年2月13日)。このことがきっかけとなり、チューリングは、無神論者になった。また、脳の働きなどの現象についても、唯物論的に解釈するようになったが、心のどこかで死後の生を信じていたという。


大学時代と計算可能性についての研究
キングス・カレッジの計算機室はTuringと名づけられている
ケンブリッジ大学キングス・カレッジへ進学した。1931年から1934年まで学生として学び、数学で優秀な成績を修めて卒業した。1935年に、中心極限定理を証明した論文が認められ、キングス・カレッジのフェロー(特別研究員)に選ばれた。ただし、中心極限定理は1922年にJ・W・リンデベルグが証明済みだったが、チューリングはその業績を知らなかった。

1928年、ドイツの数学者ダフィット・ヒルベルトは、「決定問題」への注目を呼びかけた。チューリングは、重要な論文 "On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem"(「計算可能数、ならびにそのヒルベルトの決定問題への応用」、1936年5月28日提出、11月12日配布)で、この問題の解決に重要な役割を果たした。

この論文の重要な点を、現代の数学および数学基礎論およびコンピュータ科学の視点からまとめると次のようになる。(1)「チューリングマシン」という計算モデルを提示し、19世紀以前の数学では数理論理の視点からすると自然言語で記述されるなど曖昧な点があったアルゴリズムを形式的に表現する手法(のひとつ)を確立し、「何らかのチューリングマシンで計算可能な関数を計算可能関数とする」という計算可能性理論における重要なテーゼであるチャーチ=チューリングのテーゼを示した(チャーチの業績とは独立であり、チューリングのほうがよりわかりやすく直感的であった。人によってはチューリング=チャーチのテーゼ、の順とすることもある)。(2)どんなチューリングマシンの動作をも、現代の言葉で言えば「エミュレート」できる、「万能チューリングマシン」が可能であることを証明し、その構成法を示した。(注意: この(1)と(2)が表現していることを曖昧に理解しないように注意すること。「テーゼ」は証明ではない(証明できるような性質のものではない)。しばしば、万能チューリングマシンによりあらゆる計算が可能であることを証明した、というような誤解が見受けられる。)(3)「万能チューリングマシン」の概念を利用して、停止性問題を否定的に証明した(これはゲーデルの不完全性定理と同等の結果とも言えるものである。詳細は停止性問題の記事を参照)。

1936年9月から1938年7月にかけて、プリンストン大学においてアロンゾ・チャーチ(前述の「チャーチ=チューリングのテーゼ」のチャーチである)に師事した。1938年、プリンストンで博士号を得た。博士論文では、数の広がり(正の整数→負数→無理数→虚数)とその公理体系の進化に関して、それらすべてを包含する「順序数」という概念の体系を整理しようとした。その中で、チューリング還元の概念を提案している。純粋数学とは別に暗号理論もここで学び、電気機械式乗算器も試作している。また、この時期、ジョン・フォン・ノイマンも同じくプリンストンにおり、二人は親交があったと言われている。ノイマンは、チューリングにアメリカに残ることを勧めたという。

1939年にケンブリッジに戻ると、ウィトゲンシュタインとの講義に参加した[31]。そこでは、ウィトゲンシュタインが「数学は絶対的真実を発見するのではなく、発明している」という立場を取ったのに対して、チューリングは形式主義を擁護する立場を取った。


不思議な性格
ブレッチリー・パークでは変人で通っていた。同僚は彼を 'Prof' と呼び、 エニグマに関する論文は 'The Prof's Book' と呼ばれていた。同僚の暗号解読者ジャック・グッド(英語版)はチューリングについて次のように述べている。

6月の第1週には毎年花粉症に悩まされるので、彼は花粉を吸わないようガスマスクをして自転車でオフィスに通っていた。自転車は故障していて、定期的にチェーンが外れていた。それを修理してもらう代わりに、ペダルをこいだ回数を数えて、危なくなると一旦降りてチェーンを調整していた。もうひとつの変人ぶりとして、マグカップが盗まれるのを防ぐために、それをラジエータパイプに鎖で繋いでいた。


チューリングとマラソン
ブレッチリーで働いていたころ、ロンドンで重要な会議に出席しなければならないとき、長距離走が得意だったチューリングは、約 64km を走ったという。マラソンにおけるベストタイムは2時間46分3秒であり、1948年ロンドンオリンピックのマラソン代表選考にも参加して5位となっている。

暗号解読
ブレッチリー・パーク内にあるこの建物で、チューリングは、1939年から1940年まで働き、その後 Hut 8 に移った。
第二次世界大戦中、チューリングは、ブレッチリー・パークでドイツの暗号を解読する仕事をしていた。歴史家で自らも戦時中に暗号解読に従事していたエイザ・ブリッグズは次のように述べている。

類まれな才能が必要で、ブレッチリーで天才が必要とされていた。チューリングは、まさにその天才だった。
第二次世界大戦に先立つ1938年9月から、イギリスにおける暗号解読組織である政府暗号学校 (GCCS) でパートタイムで働き始める。そこで、ディリー・ノックスと共にエニグマの解読に当たった。第二次世界大戦勃発の5週間前の1939年7月25日、ポーランド軍参謀本部第2部暗号局 (en)とイギリスおよびフランスの関係者がワルシャワで会合し、ポーランドが解明したエニグマのローター回路についての情報を得ていた。チューリングとノックスは、その情報を元に、問題にアプローチしようとしていた。ポーランドの解読法は不安定なもので、ドイツ側がいつでも変更可能だった。実際1940年5月に変更されている。チューリングの方法はもっと汎用的でクリブ式暗号解読全般に使えるもので、最初の bombe(ボンブ) の機能仕様に盛り込まれていた。

1939年9月4日、イギリスがドイツに宣戦布告した翌日、GCCSの戦時中の基地となっていたブレッチリー・パークに出頭した。bombe の仕様は戦時中の暗号解読でチューリングが成し遂げた5つの成果のうち最初の1つである。他には、ドイツ海軍が使っていたインジケーター手続きの推測、Banburismus と名付けた bombe の効率を上げる統計的手法の開発、Turingery と名付けた Lorenz SZ 40/42 (Tunny) のホイール群のカム設定を明らかにする手続きの開発、そして終戦間近に開発した音声信号スクランブラー Delilah である。

1945年、戦時中の功績によりOBEを授与されたが、その後1970年代までその業績は秘密にされ、近しい友人すらそのことを知らなかった。その功績の大きさにもかかわらず、暗号という重要な機密事項を扱う仕事柄ゆえに、ブレッチリー・パークから一歩外に出れば、チューリングの仕事を知る者は誰一人いなかった。それは、家族すら例外ではなく、母親に一度だけ「軍関係の研究をしている」と話した際には、政府の仕事に携わっていながら身なりに気を払わない息子に対し、母はかえって落胆するばかりであったという。戦後もブレッチリー・パークに関係する事柄は引き続き機密とされ、チューリングが同性愛者として罰せられてからは、その功績を知らない世間から、公然と辱めを受けることとなる。


写真: アラン・チューリング
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