訪日(第167回You Tube(理性)、ビルマ(ミャンマー))(#40)
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You Tubeを立ち上げた
対談に参加したい人は、
⓵ 木庵のメールアドレスをクリックする。

メールアドレス:takaonaito03@gmail.com
⓶ どのようなトピックス、日時などを木庵と話し合う。
⓷ 実際にズーム上で対話をおこなう(自動的に録画できるようになっている)。
⓸ ズームで録画したものを、You Tubeに移動(木庵の作業)
⑤ 出来上がったYou Tubeのアドレスをブログに掲載。
⓺ You Tubeのアドレスをクリックすると、誰でも対話の様子が見れる。

*顔を隠したい人、仮の名前でもよい(勿論木庵の顔はだす)。

*二人以上もできるが、40分でズームは切れる(延長する場合は、再開する必要あり)。

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木庵のZoomミーティングに実際に参加する場合:
下のURLをクリックする。

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*URLをクリックするだけで、ミーティングルームに入れる(ミーティングID、 パスコードの入力は必要ないよう)。
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木庵の般若心経(3回目)
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https://youtu.be/ZRq3bKOLgLQ
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第167回You Tube(理性)(intelligence)
https://youtu.be/UXaVFPDvXMU

2、3年前、アフリカに酷い干ばつが起きた。ある象の群れは全滅し、違った象の群れは生き残った。動物学者はなぜこのようなことが起きたか不思議に思った。そして発見した。生き残った象の群れには,30歳を超すメスの象がいること、そして、30年より少し前に干ばつが起きていたことを突きとめた。そのとき、この年寄りのメス象は子供であったのだが、この象の群れは水のある所を発見し生き残った。この年寄り象はその時のことを思いだしたのである。そして、今回の干ばつのとき、この象の群れを水のあるところに連れて行き、この象の群れは生き延びることができたのである。この年寄り象のもっていた記憶、理性が群れの危機を救ったのである。

原始時代のことを考えると、「記憶」は「理性」の重要な要素の一つになっている。

原始社会において、年寄りは尊敬されていた。それはセンチメンタルからきているのではなく、年寄りは生きた歴史の本であるからである。もし危機が生じた場合、人々は年寄りのところに行って、お伺いをたてる。年寄りは以前に起きた危機のときに、どのように対処したかを知っている。文字がまだ開発されていない時代には、書かれてはないが、文化の経典のようなものがあった。それは叙事詩という形であったのだが、それを世代ごとに口コミで伝えられた。このような叙事詩は人々の知恵の集積であった。旧約聖書は文字化される前は、口伝として継承された。ギリシャ時代のホメロス(Homer)、ヘーシオドス(Hesiod)など叙事詩も口伝であった。
非文字化時代には、理性は記憶であり、知恵は書かれざる文化本として、記憶によって伝えられた。問題が生じたとき、賢明な年寄りが、聖書的な経典のようなものの一節を引用して、問題解決を図る。現在のテレビ宣教師でさえ、聖書を基に解決しようとしている。現在に起きる問題でさえ、3千年前の問題解決法を取り入れているのである。

ソクラテスは哲学の聖者として知られている。しかし、一部の人はこのことを疑っている。そういう人がいるのは仕方がないことだが、もっとも情けない解釈である。というのは、人間の理性で最高のものとされる弁証法を生みだしたのは、ソクラテスであるからだ。弁証法なくして、哲学はなりたたない。それよりもっと大事なことは、弁証法はすべての合理的な考え方の背後にあるエンジンの働きを演じている。ただソクラテスを理解しようとするときに、彼の弁証法は最終的に間違いを犯しているという疑いをかけることがある。ソクラテスは本を著していない。ソクラテスの弁証法は、プラトンの初期の本で紹介されている。そこにはソクラテスの正確な人間像が書かれている。ソクラテスの弁証法は同じ形式を持ち出している。ソクラテスはアテネの権威に対して批判の目を向けている。一つは当時の一般論に対してである。それを批判するために、定義づけを果敢におこなっている。二つ目に宗教的権威に対してである。「敬虔」の意味の定義づけで問うている。三つ目は、政治家に対しである。政治家に対しては、「正義」という言葉の定義づけを行っている。これらに対して弁証法を用いているが、結果として混乱を生じ、明らかに失敗に終わっている。しかし、失敗でないところもある。というのは、それらは、ソクラテスの弁証法の一つの試みを行ったところにあるからである。当時の権威は彼等の行っている悪を自覚していなかった。そして彼等が信じている知識に対して、その防衛策を知っていなかった。ソクラテスの弁証法は、彼等が信じている知識としての記憶が不確かなものであることを知らせようとした。そして、当時の宗教の権威をそれほど評価できないことを指摘している。ところが、このようなソクラテスの初期の弁証法的な試みは、不成功に終わっている。
そうではあるが、ソクラテスの弁証法そのものを否定できない。というのは、「若い人との間の弁証法は上手くいった。彼等には新し考えには興味を示した。ところが、年寄りは古い考えに固執して、柔軟性がなく、彼等へに対しての弁証法は失敗に終わった」と述べている。

ソクラテスの発見した弁証法は、現代の裁判所で展開している。提訴されたものに対して、二つの対立項がある。その議論において、考えが間違っていれば、矛盾を生じる。裁判で勝利したものは、便宜上、一時的に正しいとされる。このやり方は昔から法律の実用的な運用において、使われている。しかし、皮肉にも、このような弁証法的理由付けは、哲学の領域から外れている。前期以後のプラトンの著書においてさえ、弁証法的理由付けの価値を認めてはいるが、精神としてまで高められていない。プラトンの弁証法のアプローチは純粋な意味の形式とはなっていない。ただプラトンの個人的な見解を提示しているにすぎない。問題は修辞学である。そのことをプラトンのおせっかいな読者は指摘している。

弁証法的理由付けは理性の純粋な形式で、最高のものであるべきであるが、単刀直入に言うと結論には到達できていな。弁証法の過程は遅く、遠回りで、度々失敗に終わっている。そういうことで、成功する弁証法を展開するためには、細心の注意と規制が必要である。弁証法という言葉は、一般的に哲学的議論に用いられるが、システマチック、系統的なプロセスが要求される。弁護士、医者、技術者、ビジネスコンサルタントは、この弁証法を用いる理性を持った人々であるのだが。
つづく


ビルマ(ミャンマー)
  ここから、ビルマに関する私の雑多ともとれる考えを述べる。
現在のビルマの混沌は王族の失墜にある
久左衞門氏のブログの文章をもう一度掲載する。
 「『紳士の國』を自稱する英國のミヤンマーに對する仕打ちは過酷極まり無く、ビルマの人々の尊敬の中心であつたアランパヤー朝の最後の國王であるティボー國王を王妃とともに1885年11月に捕へて聯れ去り、インドのマドラスからタラナーギリーに流刑に處した。ティボー國王は遂に再び祖國の土を踏む事無く、1916年に五十八歳で客死された。
 英國は其れ丈では飽き足らず、王子らは處刑、王女らは英國軍の兵卒の慰安婦に貶めた。此の事により、ビルマ國民は國家としての大切な心の依り所であつた王族を全て失ふ事となつた。現在、インド最下層のカーストの家系に、ビルマ王朝の末裔が何人か見られるとのことであるが、彼等は當然ビルマ語を話す事は出來ない。」
 イギリスがインド植民地化の過程でインド各地に散らばる諸侯を利用した。彼らに特権を与え、イギリス植民地政治をスムーズに行なえるようにした。また、ヒンズー、イスラムという宗教的対立をもたらせ、インド人の団結を逸らさせた。巧妙なる植民地政策であった。ビルマの場合、王族を根絶やしにしてしまったのである。上記のようにティボー国王をインドのタラナーギリーに流刑したのである。
   この事情については、ガラスの宮殿、著者:アミタヴァ・ゴーシュ、訳者:小沢自然・小野正嗣、発行所:新潮社、発行2007年10月30日に詳しく書かれている。ただし、これは小説であるので歴史的事実として捉えない方がよい。ただビルマ、インド、当時の国際情勢について興味ある記事がある。
1) 登場人物の一人のインド人が、アメリカで生活する中で語る言葉に次のものがある。
  「教育が緊急の課題となっており、どの近代国家も義務化しようとしていた。東に旅立った仲間たちを通じて、日本の急速にこの方向に進んでいることを知った。シャムでも王家が総力を挙げて教育の改革にとりくんでいた。」
<シャム(タイ)は日本同様アジアで植民地化されなかった国である。シャムの王家がビルマの王家に比べて優秀であったことが植民地化されなかった大きな理由である。注目されるシャムの王様として、ラーマ4世(モンクット王)が挙げられる。この王はタイ語・バーリ語などの習得のほかにヨーロッパ式教育を受けている。王はタイ国を巡る国際情勢を察知し、対外的には西方から蚕食するイギリス、東方からヴェトナムを保護下にするフランスとの両勢力を均衝させる政策をとった。また1826年にイギリスと交わした条約に引き続き、1856年にアメリカ合衆国と同様な条約を結び、そのあと、フランス・デンマーク・ポルトガル・オランダ・オーストラリア・ハンガリー・スペイン・プロシア・ベルギー・イタリア、スウェーデン・ノルウェーと条約を結び、西欧帝国諸国と同様な条約関係を作ることによって、西欧列強とタイ国に対する相殺するねらいがあった。列強を手玉に取った見事な外交ということができるだろう。モンクット王の死去の後、王子チュラロンコン(ラーマ5世)が王位についた。この王は明治天皇と殆ど同時期にあたる君主で、その長い治世は日本の明治年間と同様、タイ国の近代化政策が展開された時期であって、大王の呼称に相応しい君主であった。彼はミュジカルや映画「王様と私」のモデルとされる人である。>
2) 人種差別や、暴力と征服による支配といったことよ。こうしたこと全ての罪が、大英帝国にはあるんじゃないかしら? この帝国が世界を征服していく過程で、あらゆる大陸を併合していくうちに、一体どれだけの人が死んでいったの?
3) 悪にインドが引き裂かれているのは事実よ・・・カースト、女性への虐待、無知、文盲ということよね。でもね、貴方の国、ビルマを考えてみなさい・・・あそこにはカースト制度はないわ。それどころか、ビルマ人はとても平等主義的だった。女性の地位は高かった。・・・恐らく西洋よりもね。誰も字が読めた。でもビルマも征服され、従属された。
 <いくら文明が高くても、武力が弱ければ他国の餌食になる。そのことを肝に銘じておかなければならない。>

なおも気になる久左衞門氏の記事
  ミャンマーの政権を揺るがすことには、メリットがある。中国と接するミャンマー北東部は、世界最大のアヘンの生産地だった。これを守ることはCIAの重要な仕事であり、ブッシュ一族が率いる麻薬カルテルがその販売を担ってきた。ところが軍政が敷かれてからケシ栽培からの脱皮を模索し始め、今では世界の生産量の5%を占めるまで低下した。空爆前のタリバン政権下のアフガンに似ている。日本も麻薬からの脱皮に貢献しており、農村開発による農家の収入向上や道路建設のための機材供与や村落の電化、小学校の改修などの無償支援を行っている。日本向けの報道がことさら軍政を非難するのもうなずける。
  戰後のミヤンマーは、人口の3分の2を占めるビルマ族と26種族の少數民族との間で、常に紛爭を起してきたのが、戰後ずつと辿つて來た歴史であり、嚴しい現實である。夫れを如何に治めるかが、ミヤンマー政權の最大の課題であつた。
 其の中で、軍事政權はスーチー女史の主張する民主主義を全く省みないわけではないが、國内問題が未だ完全に収拾に至らず、不安定要因を多く抱え込み、其の餘裕が無いのが現状である。

 ミヤンマーでは英國からの獨立を勝ち取つたのが「軍」であったため、軍は政治的統一の無い状況に便乘して政治を左右するやうになり、遂にネ・ウヰン將軍(後に大統領)は「ビルマ式社會主義」を掲げて1962年から1988年迄の二十六年間の長きに亘り獨裁政治を行つたのである。
 そもそも、英帝國主義植民地體制下に在つては、ビルマ人は、英國の走狗となつた諸少數民族に壓迫されて下級労働者に貶められ、近代的な社會制度に關する知識や教養を有してゐたのは、殆ど軍人に限られて居り、軍人が主導權を取るのは止むを得ない事情でもあつたのである。

 1988年の民主化要求運動により、ネ・ウヰン社會主義政權が倒れ、國軍がデモを鎭壓して、これまた獨裁政權を樹立した。
 尚、ミヤンマーは社會主義政權時代から此の時期に至るも、終始親日的であつた。

 ミヤンマーは、1989年に社會主義・閉鎖經濟政策を放棄して以降、英國植民地主義の殘滓を一掃すると共に、135を數へる多民族問題に對應して、舊國名・ビルマを改め、市場經濟化と對外開放路線を梃子に國家再建に邁進した。
 見方を變へれば、ミヤンマーは、軍事政權の下で戰後獨立以來、國の存立を脅かしてきた民族紛爭を収拾し、多民族間融和への努力を通じて多民族自治國家を構築したと見ることも出來やう。
つづく


写真:ソクラテス
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