訪日(第166回You Tube(ヒュームの懐疑主義)、ビルマ(ミャンマー))(#38)
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木庵の般若心経(3回目)
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第166回You Tube(ヒュームの懐疑主義)
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ヒュームの懐疑主義
<ヴィトゲンシュタインの哲学は難解である。その難解なのを噛み砕いて解説している記事を発見した。紹介する。木庵>

3分でわかる! ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
富増章成

読破できない難解な本がわかる本
2023.11.9 4:06

世界に多大な影響を与え、長年に渡って今なお読み継がれている古典的名著。そこには、現代の悩みや疑問にも通ずる、普遍的な答えが記されている。しかし、そのなかには非常に難解で、読破する前に挫折してしまうようなものも多い。そんな読者におすすめなのが『読破できない難解な本がわかる本』。難解な名著のエッセンスをわかりやすく解説されていると好評のロングセラーだ。本記事では、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を解説する。

読破できない難解な本がわかる本
哲学の結論はそれぞれバラバラだ。数学や自然科学のように、スッキリした答えがでない。それもそのはず、過去の哲学はその思考ツールとしての言葉を誤って使っていたからだ。言葉の分析をすれば、正しいことがわかる。なぜなら思考=言語だからだ。

言葉が世界を正確に写し取っている
 『論理哲学論考』とは、一言でいうと「過去のすべての哲学を初期化する哲学」です。

 哲学というのは言葉の学問です。すべて、文として表現されます。

 古代ギリシアの時代から、様々な哲学者が「言葉=思考」を展開してきました。

 しかし、哲学者の説いた説が正しいかどうか以前に、彼らの言葉の使い方を分析して誤りがわかったなら、もう中身は検討しなくていいわけです。問題を消去すれば、問題は消えるというのです。

 「問題はその本質において最終的に解決された」(同書)

 たとえば、コンビニで肉まんを頼んだのに誤ってチキンが出てきたとしましょう。

 そのとき、「この肉まんはピザ味か、カレー味か」なんて考えることは無意味です。なぜなら、チキンが出されたことで、すでに、前提が間違っているからです。哲学もこれと同じ。

 ウィトゲンシュタインによると、様々な哲学の問題は言葉の使い方をミスしているから生じるのであり、言葉を正確に分析すれば謎はすべて解けるのだといいます。

 「2・12 絵は現実のモデルである」
 「3・001『ある事態を思考することができる』ということは、その事態について、絵を描いてみることができる、ということである」(同書)

 言葉が世界を正確に写していて、世界と言語は鏡のように対応している。これを「写像理論」といいます。

 言葉と世界が表裏一体なので、言葉の使い方を検討すれば、世界を正しく捉えているかどうかがわかるのです。

過去の哲学は、無意味な文だった?
 「4 思考とは、有意義な命題のことである」
 「4・003 哲学的な主題について書かれてきた命題や問の大部分は、偽ではないが、非意義的である。だから、こういうたぐいの問には、とうてい答えられない。できることは、その非意義性を確認することだけなのだ」(同書)

 たとえば、「ウィトゲンシュタインを掛け算する」という文は、いちおう文の形をとっていますが意味がありません(非意義的)。

 「5・61 論理が世界を満たしている。世界の境界は論理の境界でもある」(同書)

 言語に表現されるものの限界が世界の限界となりますので、語れないことは哲学の世界から排除されてしまうわけです。

 ウィトゲンシュタインは、哲学の諸問題が解決されなかったことは、語れないことをムリして語っていたからと考えたのです。

 もし、ある命題が指し示す対象が存在しなければ、それは無意味ということになります。

 となると、私たちが常日頃から疑問に感じている「人生の意味」「死後の世界」「神の存在」など近代までの哲学が真剣に取り組んできたあらゆる哲学のテーマは、言語の限界を超えてしまっていたのでした。

 「6・521 生の問題の解決を、人は、その問題の消失という形で気づく」(同書)

 生の問題は、最初から意味がないので、解決済みということになります。

 さらにトドメがこのラストを飾るフレーズです。

 「7 語りえぬものについては沈黙しなければならない」(同書)

 ここまで言い切ったのに、実はウィトゲンシュタインは、自ら『論考』の間違いを認めたのです。

 そして、新たに「言語ゲーム」の哲学を展開しました。哲学者が自分の説の間違いを指摘するというのは珍しく、彼の徹底した探究心が伝わってくるようです。

 ウィトゲンシュタインによって、言語論的転回と呼ばれる哲学の新しいステージが始まりました。


富増章成(とます・あきなり)
河合塾やその他大手予備校で「日本史」「倫理」「現代社会」などを担当。
中央大学文学部哲学科卒業後、上智大学神学部に学ぶ。
歴史をはじめ、哲学や宗教などのわかりにくい部分を読者の実感に寄り添った、身近な視点で解きほぐすことで定評がある。
フジテレビ系列にて深夜放送された伝説的知的エンターテイメント番組『お厚いのが、お好き?』監修。
著書『21世紀を生きる現代人のための哲学入門2.0 現代人の抱えるモヤモヤ、もしも哲学者にディベートでぶつけたらどうなる?』(Gakken)、『日本史《伝説》になった100人』(王様文庫(三笠書房))、『図解でわかる! ニーチェの考え方』、『図解 世界一わかりやすい キリスト教』『誰でも簡単に幸せを感じる方法は アランの『幸福論』に書いてあった』(以上、KADOKAWA)、『超訳 哲学者図鑑』(かんき出版)、『オッサンになる人ならない人』(PHP研究所)、『哲学の小径―世界は謎に満ちている!』(講談社)、『空想哲学読本』(宝島社文庫)など多数。


木庵の反応
<論理実証主義では、トートロジー(tautology)について論じている。トートロジーとは、ギリシャ語で「同じ」という意味で、ある事柄を述べるのに、同義語または類語または同語を反復させる修辞技法のことである。
「私は私であり、君は君である」のように、同じ言葉を繰り返すことによって、主語を強調する場合がある。また、「未成年の小学生」「雨の降る日は天気が悪い」というような表現も、一つのことがらを同じ意味の違う言葉で説明しているにすぎない。何一つ新しいことを語っていないのである。
西洋哲学を俯瞰してみると、伝統として形而上学なるものが哲学の主役である。形而上学とは、物事の本質を問う哲学的アプローチである。「神の存在」、「自然の本質」などを問うことは、 形而上学の主題である。しかし、ウィトゲンシュタインではないが、形而上学の文章を分析してみると、トートロジーの罠に陥っている場合が多い。難解な言葉の羅列によって、なんとなく貴きことを論じているのであろうと、読者を惑わし、何かを信じ込ませようとしている。しかし、冷静に文章を論理分析すると、宙に浮いた風船のように、フワフワして、実態から離れていることが分かる。

ヴィトゲンシュタインは、「ことばは世界を正確に写す道具ではなく、言語ゲームである」と言っている。言葉は決まったルールがあるのではないので、ゲームによって違ってくるという意味なのだろう。そうなると、どのような哲学的論文に対しても、新たに、どの言語ルールを使っているかの分析が必要になってくる。木庵>


ビルマ(ミャンマー)
 さて、久左衞門氏が今後言及されるという戦後のビルマの動きを簡単にまとめてみることにする。

戦後の動向
   アウンサンが暗殺後、ウー・ヌがパサバラの総裁となり、独立を達成し、初代の首相となった。そのあと、民族主義者、労働組合を重点に考える一派(大学派)や農民組織を重要視する一派(寺小屋派)を抱える社会党、それに共産党も合法的白旗共産党、非合法的赤旗共産党の権力闘争があり、合法的白旗共産党もインド共産党の影響を受け、武装闘争に変更するなど。複雑に絡みあい、現在の日本人が考えるほど軍部対民主派と簡単に識別できない。それに少数民族の反乱、特にカレン族の反乱、49年末中共に追われた国府軍が、ビルマ東北部ケントウ地方に侵入し、カレンやモンの反乱軍と組んで、政府軍を攻撃したとなると、ビルマの混沌さがわかるであろう。49年から50年にかけて、イラワディ中流域、ヤペグー地方、アラカン地方において政府は支配を失い、マンダーレおよびその他の主な都市は反乱軍に占領され、首都ラングーンだけがかろうじて確保されるという状態であった。ところが、51年になると、反乱軍内部の対立、アメリカ・イギリス・インドからの軍事援助によって立ち直った政府軍は好戦に転じることができた。
  これらの反乱に対して、政府を支持したのが、ビルマ国軍の指揮をとっていたネーウィン中将であった。久左衞門氏も書いておられたが、ネーウィンは海南島で日本軍から訓練を受けた30人の一人である。この頃の軍は、政治的に中立を維持し、合法的政府であるウー・ヌ政府の命令にしたがっていた。 
  治安が一応回復すると、政府は51年末から52年1月にかけて独立以来初めての連邦国会の第一回総選挙をおこなった。議席239のうち、パサバラ及びその派が200を獲得し、ウー・ヌが正式の首相になった。政府は独立すると、48年5月に経済開発2ヵ年計画を立てた。太平洋戦争によって荒廃したビルマ経済の復興が目的であった。そこには、ビルマ民族主義の反資本主義、経済自立化の伝統を継ぎ、とりあげられた諸政策、たとえば地主制廃止、農地の再分配、基幹工業の国有化などは、その後のネーウィン軍制の経済政策に受け継がれていった。
  56年4月、第二回総選挙が実施され、250議席のうち反パサバラが54議席も獲得した。この54のうち47議席が、ビルマ労働党を中心となって結成された民族統一戦線が占めた。このことはパサバラに深刻な打撃を与え、6月ウー・ヌは首相の座を降り、パサバラの再建につとめたいと表明した。左派の民族統一戦線の躍進は、パサバラの腐敗分子のためであると考えていたので、不良・腐敗分子の摘発に乗り出した。この粛清は、皮肉にもやがて軍制権によって徹底的に実行され、パサバラの政治家など、既成の政治家は後に一掃される結果となった。
  58年6月、ウー・ヌは、左派の協力によって彼の内閣への不信任案を否決するため、左派への歩み寄りとして、地下反乱組織に対する恩赦令を公布した。これに対して、軍部はウー・ヌ個人に対しては好意をもっていたが、ウー・ヌの左派への融和的態度、及び反乱軍への恩赦令の公布などに対して、警戒心をもつようになった。その間、ウー・ヌは軍の幹部を左遷するなど軍部の人事まで口を挟むようなことをしたものだから、連邦警察隊2個大隊を、警察総監の許可なくマンダレーからラングーンまで移動させるという緊迫した事態が発生した。そこで、ウー・ヌとネーウィンとの間に、政権移譲について書簡交換された。書簡によって了解された政権移譲の条件は次の通りである。
1) 59年4月までに自由かつ公正な選挙が実行できるよう準備すること
2)公務員や軍人の政治干渉を禁止すること。
3)軍人により不当行為がなされないよう万全の注意を払うこと。
4)暴行・強奪・誘拐・殺人などの犯罪を強力に取り締まること。
5)内乱を防ぎ、国内和平の実現につとめること。
6)積極中立外交政策を推進すること。
   10月29日。ネーウィンが新首相となった。一応、ネーウィン政権は軍人を表に立てなかったが、重要な政策は軍の参謀会議で決定された。ネーウィンの国政運営はあらゆる行政機構に高級将校を配置し、いかなる行政措置もその承認なしには行なえないようにした。これは、日本軍政時代の管理方法にならったものといわれる。そして、最高の決定権はネーウィンの手中にあった。
 政争にあけくれ、国民とはなれたところで権力闘争をしていた政党政治に国民は嫌気を出し、軍制権に漠然とした信頼感をいだくようになった。そのような国内の雰囲気に合わせて、59年2月、国会は憲法の一部を改正して、非国会議員であるネーウィンの首相在任期間を延長した。
  本質的に反共である軍政権は、ウー・ヌ政府が自己の政権維持のために行なった左派への民族統一戦線への妥協、共産党への恩赦令公布(10月31に破棄している)、少数民族への自治権賦与の約束などとうてい認めることは出来なかった。軍政府はウー・ヌ派、左派分子、伝統的反体制勢力である学生への弾圧をおこない、逮捕・投獄した。
  これらの弾圧に対して、国民は軍部を批判するようになった。また軍は、物価の安定のため物価統制令を公布して、商業活動に干渉したので、商人や企業者から軍制権への批判は次第に高まっていった。このような情勢を見てネーウィンは60年2月に民族議院・国民議員の総選挙を施行すると声明した。
  短期間の軍政ではあったが、後62年の革命政権樹立の自信となり、軍が政治へ介入することの正当性を裏付けることとなった。つまり、将来の軍政への布石となったのである。
  1960年、2月、独立後3回目の総選挙が行なわれた。軍はウー・ヌの政権復帰を望んでいなかったが、ウー・ヌの個人に対する大衆的人気をみせつけられ、交換書簡で約束した条件にしたがって、中立性を堅持して、政権をウー・ヌに譲った。
  それ以降、シャン反乱、カレン反乱などが政府を悩ますこととなる。特にカレン反乱軍は共産軍と連絡をとりあい、61年の末には、国土の10分の1は反乱軍の支配下におちるという事態にまでなった。ウー・ヌの決定的政策上の失敗は、61年8月、憲法を改正し、仏教国教化法と国教批准法を制定したことである。非仏教たるキリスト教徒・ヒンズー教徒・アミニスト、民族的にはインド人・カレン人・チン人・カチン人、シャン人の不満は高まった。そして、ビルマはまさに解体寸前の状態に陥った。これが62年3月2日、ネーウィンのクーデタ前夜のビルマであった。


写真:ネーウィン
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