訪日(第166回You Tube(ヒュームの懐疑主義)、ビルマ(ミャンマー))(#38)
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You Tubeを立ち上げた
対談に参加したい人は、
⓵ 木庵のメールアドレスをクリックする。

メールアドレス:takaonaito03@gmail.com
⓶ どのようなトピックス、日時などを木庵と話し合う。
⓷ 実際にズーム上で対話をおこなう(自動的に録画できるようになっている)。
⓸ ズームで録画したものを、You Tubeに移動(木庵の作業)
⑤ 出来上がったYou Tubeのアドレスをブログに掲載。
⓺ You Tubeのアドレスをクリックすると、誰でも対話の様子が見れる。

*顔を隠したい人、仮の名前でもよい(勿論木庵の顔はだす)。

*二人以上もできるが、40分でズームは切れる(延長する場合は、再開する必要あり)。

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木庵のZoomミーティングに実際に参加する場合:
下のURLをクリックする。

https://us04web.zoom.us/j/5582589118?pwd=b0xsUHBQM2NYb0NNVFdYK3JSY2daUT09

ミーティングID: 558 258 9118
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*URLをクリックするだけで、ミーティングルームに入れる(ミーティングID、 パスコードの入力は必要ないよう)。
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木庵の般若心経(3回目)
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https://youtu.be/ZRq3bKOLgLQ
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第166回You Tube(ヒュームの懐疑主義)
https://youtu.be/yrU8hl4plV4


ヒュームの懐疑主義
ヒュームによると、人間の行為は、理由によってではなく情熱によってなされると。理由は義務によって束縛されている。実は人間は情熱の奴隷なのである。そのようなことを言うと、「ホッブスが述べるような自然の状態を思い出し、人間は野獣のような行為を行うというような、無道徳のカオスに陥ってしまうのではないか」と言う人が現れるだろう。「そうではない。我々は十分な常識をもち、お互い調和に生きていける思いやりというものをもっている」とヒュームは述べている。悪い行為は訓練不足からきている。邪悪な心からきているのではない。訓練によってと言っても、道徳哲学のクラスを受けるというような意味ではない。犬を訓練するようなやり方で、我々も訓練できるというのである。犬の訓練のように、飴と鞭による知的な訓練を構築することができるというのである。ヒュームの想定しいていることは、天子から動物まで幅の広い訓練である。このヒュームの考え方に多くの人はショックを受けるだろう。しかし、ヒュームの考えはより正直で、より良い結果を招くだろう。ヒュームは信じている。「我々の殆どの問題は、宗教の思い上がりから来ている」と。「この世の本当の悪魔は、通常における犯罪から引き起こされるのではなく、神を最も信頼できるもの、神のみが真実であると信じこんでいる人たちによって引き起こされている」。それよりも、人間性を信じ、人間は自然の一部であると思いたいものである。

ヒュームは良き書き手であったが、哲学的な議論は珍奇であった。ヒュームの文章を一度読むと、忘れられない。またそこには、どこかズル賢さが隠れている。そして、生きたユーモアのセンスがある。ヒュームは信じている。「哲学と宗教はお互いに全く違う方向に引きあっている」と。このことが、問題を引き起こし、また解決の糸口を見いだせるのかもしれない。この点において、ヒュームはウィトゲンシュタイン(Wittgenstein)のようである。ウィトゲンシュタインは、哲学を「精神的に痙攣状態にある」と言っている。ヒュームはウィトゲンシュタインのように、「哲学をそれほど高く評価しない方がよい」と言っているようである。

カーター先生は「ヒュームの哲学はウィトゲンシュタインの哲学のようだ」とは述べておられるが、まだ一つどのようなところが似ているのか掴めない。そういえば、ベンソン先生が大学を退職されたときのパーティーで言われたことを思いだした。先生はハーバードの博士課程で世界の著名な哲学者の講義を聞いたり、彼等と接触されている。
興味のある話として、バートランドラッセルの授業を受け、バートランドラッセルの講義の内容を批判して、成績がBであったと。木庵は以前、バートランドラッセルの著書、『The Principle of Mathmatics』を図書館から借りて読もうとしたが、あまりにも難解で、ほとんど読まなかったことを思いだす。そのような難解な哲学を批判されたベンソン先生の知的程度の高さが伺える。ベンソン先生はバートランドラッセルよりも、ウイン学派(論理実証主義)の創立者の一人のルドルフ・カルナップに傾倒し、カルナップとの間に師弟関係を結んでおられる。そういうことで、木庵は大学院のとき、ベンソン先生のセミナーを受け、カルナップの本を演習として使い勉強したことがある。カルナップはドイツ人であり、英語は外国語であるということもあり、木庵にとって、彼の英語は分かり易く、論理的で分かり易かった。
ウィトゲンシュタインはケンブリッジで勉強の後、ケンブリッジを去り、放蕩生活を送っている。小学の教師までしている。そのウィトゲンシュタインがある人の紹介で、ウイン学派の会合に出席するようなことがあった。カルナップとも接触、議論をしたことがあるようで、ウィトゲンシュタインの哲学は一応論理実証主義の仲間に入るそうだが、どうもカルナップと哲学的な体質が違い、カルナップとは同調しなかったという。顔からしてもウィトゲンシュタインは神経質でまったく天才肌である。それに対して、カルナップはある意味の常識家で、それほど奇妙な議論をしていない。ただ、当時の西洋哲学の悪弊を常識的に攻撃している。だから、木庵のような凡庸な人間にとっても、カルナップの哲学をある程度理解できるのである。

ヴィトゲンシュタインの哲学は、前期と後期に分けられる。 前期は論理実証主義の考えで、後に前期の理論を「すべて間違っていた」として全撤回、後期の言語ゲームを展開している。

ベンソン先生の退職パーティでヴィトゲンシュタインの人となりを述べておられた。ヴィトゲンシュタインと同居していた人から聞いた話である。ヴィトゲンシュタインは神経質で、いつも下痢をしていたという。だから、ヴィトゲンシュタインが便所に入った後の便器は非常に汚れていたと。汚い話であるが、木庵が知るヴィトゲンシュタインの人となりは、これ程度である。それに、多くの兄弟は自殺したと思うのだが。これはベンソン先生が言われたかどうかは定かではないが、ヴィトゲンシュタインもいつ自分も自殺するのではないかと恐れていたという。天才というのはこのようなものである。それに対して、ベンソン先生の言われるのには、カルナップはバランスのとれた人で、ビオラの奏者でもあり、プロではないが、ビオラの演奏を楽しむというような人であった。ベンソン先生も常識のあるバランスのある人であった。ただ知的に高すぎて、大学の教授会ではいつも孤立していたと、木庵に話されたことがある。
つづく


ビルマ(ミャンマー)
戦後のビルマをどのように表現することができるか
  アウンサンを失ったビルマは、民族主義、共産主義、少数民族の独立運動、政治的、宗教的な対立による混沌な時代に差しかかったといえる。それを一応曲がりなりにもまとめたのが軍事政権であると言えるのではなかろうか。軍事政権によるアウンサンスーチー女史の軟禁は日本の世論を喚起し、アウンサンスーチー(善)、軍事政権(悪)というイメージがもはや日本国民の中に定着していそうだが、そう簡単に結論づけられない事情がビルマにはありそうである。
  久左衞門 http://blogs.yahoo.co.jp/kyuhzaemon/55216481.html 
さんのブログで興味のある記事があったので、ここで紹介する。
 其の後、英國は遺されたアウンサン將軍の娘、スー・チーを英國本國へ拉致し去り、英國の手により教育(=洗腦)を施した上で、英國人男性を夫として娶わさせた。
 後に彼女は「病氣で危篤の母の看病」の名目でミャンマーに入る。
 そして、「民主化運動」の象徴として祭り上げられた。

 このやうな英國が稱する、「民主化」を、だうして信用せよ、と云ふのであらうか・・・。
  それに、私の記事以上に突っ込んだ記述があるので、それらも紹介する。

「紳士の國」を自稱する英國のミヤンマーに對する仕打ちは過酷極まり無く、ビルマの人々の尊敬の中心であつたアランパヤー朝の最後の國王であるティボー國王を王妃とともに1885年11月に捕へて聯れ去り、インドのマドラスからタラナーギリーに流刑に處した。ティボー國王は遂に再び祖國の土を踏む事無く、1916年に五十八歳で客死された。
 英國は其れ丈では飽き足らず、王子らは處刑、王女らは英國軍の兵卒の慰安婦に貶めた。此の事により、ビルマ國民は國家としての大切な心の依り所であつた王族を全て失ふ事となつた。現在、インド最下層のカーストの家系に、ビルマ王朝の末裔が何人か見られるとのことであるが、彼等は當然ビルマ語を話す事は出來ない。

 官吏や軍人は、英國人に續いてカレン族、カチン族、チン族などの山岳少數民族が幅を利かして居り、實業界では、英國が聯れてきたインド人や支那人が國内を闊歩してゐた。山岳地帯に住む少數民族の多くは精霊信仰であり、佛教徒や回教徒等を改宗させる場合よりも、宣教師によつて容易に基督教徒に改宗することが出來た。
 また、印度人や支那人を多數移住させ、ミヤンマー國内の開発に當たらせた。その結果、主としてインド人は金貸し業者、地主等として、支那人は商人として各々中間層を形成するようになつた。誇り高いビルマ族の多數は、社會の下層を形成する小作人に成り下がつてゐた。
 印度でもスリランカでも、英國が好んで行つた悪辣な分割統治方式である。
 
 また、アランパヤー朝の都が置かれてゐたマンダレーに有つた、シユナンドーと謂ふ金箔に覆はれてゐた國王の寺院の金箔を、第三次英緬戰爭時に英國兵が全て剥ぎ取つてしまつた。佛教徒であるビルマ人の町であつた美しいマンダレーは佛教寺院の象徴であるバコダ(佛塔)が次々と破壞され、その代りにモスクや耶蘇教會が建つと云ふ風景の街に成り果ててしまつたのである。

 此の様な状態が長く續き、ミヤンマー國内で無力感が蔓延する中で一條の光明を與へたのが、日露戰爭での日本勝利である。日本の勝利は、アジアの人たちに希望を與へる事となつた。
 一方で相變らず英國の狼藉は續いてゐた。當時、最もミヤンマー國民の心情を蹂躙してゐたのは、パゴダや寺院等、聖なる場所に歐米人が土足の儘で立ち入る事であつた。ビルマ人は其の様な行爲を耐へ難い侮辱と見做した。1917年には、青年佛教徒聯盟が歐州人專用客車の廢止、土足でのパゴダ參詣禁止などを要求した。1920年には、ヤンゴン大學で最初のストライキが起きた。

  日本軍は大東亞戰爭開戰直前の昭和16年2月1日に、ビルマに於いて、大本營直属の「南機關」を發足させた。
 雷帝ボ・モージョこと鈴木啓司大佐を機關長とする「南機關」が最初にやつた事は、ビルマ獨立に燃えるタキン黨の若い優秀な青年30人を選んで、日本に脱出させることであつた。
 この30人を川島威伸大尉を教育隊長にして、海南島で昭和16年4月から猛訓練を施した。この30人の中に後のアウンサン將軍、獨立宣言を発したバー・モウの副官ボー・ヤン・ナイン、後の議長ネ・ウィンなどが居た。

 又、昭和17年(1942)1月21日には東條英機首相は、ビルマ進攻の目的はビルマ獨立に在ると明言した。
 1943年3月にはアウン・サンは日本に招かれ、わずか二十八歳の若きリーダーと稱へられ旭日章を受章た。此の時期には、「面田」という日本名をも名乘つてゐる。

 しかし乍ら日本軍はラングーン攻略後、ビルマ獨立は戰爭終了後と語を翻した。日本軍のビルマ進攻作戰の目的は主として援蒋ルートの遮斷にあつたが、同國の地下資源に目を付けた軍部は、獨立云々を考慮することは當面問題外との雰圍氣を強めてゐた。是は即時獨立を約束してゐた鈴木敬司らを苦況に陥れた。また、アウンサンらも日本の眞意に疑念を抱くやうになつた。
 斯様な状況下、昭和17年(1942)6月には南機關は解散させられ、鈴木敬司は日本に轉出となつた。

 當時の日本軍の一參謀は回想してゐる。「かつて第三十三軍の田中情報主任參謀が『オンサン(アウンサンのこと)國防大臣は梟雄の相があり、油斷のならぬ人物であるから氣をつけた方がよい』と、言われたことがある。」(野口省己「回想ビルマ作戰」光人社)

 バー・モウやボー・ヤン・ナインは日本を裏切らず、バー・モウは日本に亡命し、ミン・オンは日本を裏切るのは忍びないと自決した。
 
 ミヤンマー(ビルマ)は、英國からの正式な獨立後も、苦難の道を歩み續ける。軍事獨裁政權の興亡、社會主義化、共産支那からの接近、「民主化運動」を盾に取つた諸外国からの干渉・・・。
 是に關しては、いづれ別に項を設けて語りたい。 
  するどい久左衞門氏の記事、読者はどう感じられたであろうか。
つづく


写真:ヴィトゲンシュタイン
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