訪日(第166回You Tube(ヒュームの懐疑主義)、ビルマ(ミャンマー))(#34)
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You Tubeを立ち上げた
対談に参加したい人は、
⓵ 木庵のメールアドレスをクリックする。

メールアドレス:takaonaito03@gmail.com
⓶ どのようなトピックス、日時などを木庵と話し合う。
⓷ 実際にズーム上で対話をおこなう(自動的に録画できるようになっている)。
⓸ ズームで録画したものを、You Tubeに移動(木庵の作業)
⑤ 出来上がったYou Tubeのアドレスをブログに掲載。
⓺ You Tubeのアドレスをクリックすると、誰でも対話の様子が見れる。

*顔を隠したい人、仮の名前でもよい(勿論木庵の顔はだす)。

*二人以上もできるが、40分でズームは切れる(延長する場合は、再開する必要あり)。

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木庵のZoomミーティングに実際に参加する場合:
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*URLをクリックするだけで、ミーティングルームに入れる(ミーティングID、 パスコードの入力は必要ないよう)。
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木庵の般若心経(3回目)
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第166回You Tube(ヒュームの懐疑主義)

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ヒュームの懐疑主義

 今回もカーター先生が書かれた『Encyclopedea of Philosopahy』の中の一つのトピックスを選らび、述べていきたいと思います。今回のテーマは「デービッド・ヒューム」です。彼はイギリスのスコットランドで1718年に生まれ、1776年に亡くなっています。イギリスというと、ジョンロック、バークレー、ホッブスなどの経験主義者が誕生したところです。経験主義とは、生まれた時に白紙で生まれ、経験によって知識を得るという考え方です。ドイツやフランスなどの大陸派とは違います。大陸派は、生まれた時に既にある種の知識が持って生まれるという考え方です。つまり、生得のものがあるという考え方です。
ヒュームは経験論者の中でも疑い深い、懐疑主義者の最右翼に挙げられる人です。疑い過ぎるので、嫌がる人が多いようです。では、先生の記事がどのように書いてあるかを、本に書かれていることを下にして、解説していこうと思います。

ヒュームはあまりにも有名な懐疑者である。それに、彼は「極悪の無神論者」としても知られている。ところが、彼は無神論者であることに罪の意識をもっていない。むしろ、無神論であることに自信を持ち、十分な理由を持っているのである。彼は生涯にわたって、我々が得る知識を疑っている。「知識だと信じてるものは、論理的でなく、整合性がない」と、言っているのである。それに、「神が存在していないことを、私は知っている」とまで言っている。「神が存在していること、それに神の特性などというものを知ることはできない」と言うのである。そのためか、「全ての問題を否定する人」と烙印を押されている。なぜヒュームは完全な懐疑主義者になれたのであろうか? 間違いなく、疑いをもつような体質で生まれたのであろう。ヒュームのような懐疑主義者は、ありとあらゆる哲学的な問題をただの思弁で追わらせたくないのである。その意味でいくと、懐疑主義もまんだら捨てたものではない。哲学さえ疑うような人間が、なぜ哲学を勉強したのであろうか。そして哲学に関する本を多く書いている。しかし、ヒュームは大学での教授という職を得ていない。それは当然というか、ヒュームにとっても、大学の権威に縛られることなく、自由に研究ができたという意味で、良かったのかもしれない。
ヒュームは一つの使命をもっていた。彼はイデオロギーや予言に対して、執拗な熱情でもって対決した。牧師や予言者たちの専制主義者から世界を救うという使命があったのである。『The Enquiry Concerning Human Understanding』(人間理解のための探究)の最後のところで、「我々の試みは、全て失敗に終った。我々は科学、宗教、哲学に関しての知識を発見できないということを証明できた」と書いている。そうであるのなら、我々は何ができるのだろうか? そうであっても、私(カーター先生)は、懐疑主義から学ぶものがあるのではないかと思う。
読者の皆さんは、火刑にされたり、銃殺刑にされた人の話を聞いたことがあるだろう。そして、「彼等は懐疑主義の持ち主であるが故に殺された」ということを聞いたことがあるだろう。しかし、ヒュームはそのようなタイプの人ではなかった。ヒュームの懐疑主義は、論理的で心優しい人であった。ヒュームのような懐疑主義者のほとんどは、平和な人生を送りたいと願い、また他者も同様に平和な生活を保証したいと思っていた。ところが一端知識に関する議論となると、「知識の専制主義」を厳しく攻撃した。誰もが知識だと信じていることは、「悪魔の本性」であるとまで述べている。
つづく


ビルマ(ミャンマー)
 同年8月、バモー政権による「独立」が実現すると、アウンサンらは共産党などの地下独立運動組織と連帯し、「反ファシスト人民自由連盟」を組織し、抗日行動を開始し始めたのである。
  南機関とビルマナショナリストたちとの関係は、1年半という短い期間であった。ビルマの民族主義運動の開始から独立までの一連の流れの中では、一部であったかもしれない。しかし、ビルマ独立に寄与したアウンサンたちの民族独立派を助け、軍隊らしき組織と訓練を施した南機関の業績は大きい。ビルマの現軍事体制には民族義勇軍の精神が生きているようである。そのため現政権を肯定するとき、民族義勇軍を指導した南機関を美化する動きがあるという。果たして、それが単なる表面的な美化なのか、南機関の実際におこなった行為を客観的に検証してみる必要があるだろう。
  太平洋戦争という国家同士が極度の緊張のあった時代に、日本ビルマ双方のそれぞれの目的や思惑が交錯し、一種の駆引きの中で歴史が展開して行ったのは間違いない。その意味でもアウンサン、鈴木の思惑は国家という強力な傘の下での、思い込み、達成感、焦燥感、挫折感など複雑な心情が交差したなかで、自国のため、また相手国(少なくとも鈴木は)のために奮闘した生き様は評価できるだろう。
アウンサンは偉大なる英雄で、アウンサンの殺害を指導したウー=ソーは、ただ単なる野望的民族主義者であったのだろうか?(「アジア読本、ビルマ、発行所:河出書房新社、著者:田村克己・根元敬、初版発行:1997年2月20日」の中の、『あるナショナリストの肖像』、著者根元敬の記事の多くを抜粋している)
  ガロン・ウー・ソーは処刑されてから久しい。だがこの男はいまだにビルマで嫌われ続けている。ビルマが独立してわずか4ヶ月後の1948年5月、死刑台の上で48歳の生涯を終えた。アウンサンは「ビルマ独立の立役者」などの敬意を表す修飾語がつくのが一般的だが、ウー・ソーの場合は、名前さえ出すのも汚らわしいとばかり、「人でなし」という表現で呼ぶときさえある。この嫌われ者ウー・ソーは1940年9月から42年1月の初めまで英領ビルマの第三代首相を務めている。この時代のナショナリストといえば、アウンサンやウー・ヌ、バモーなどがいた。それにウー・ソーもナショナリストであったのである。彼の場合、アウンサンやバモーとは違った意味で日本と深いかかわりを持っていたが、彼は運命に翻弄され、結果的に処刑の露と消えたという側面がある。
   ウー・ソーは1900年に地主の息子として生まれた。若い頃からビルマ人団体総評議会(20年代から30年代にかけてビルマのナショナリズムをリードした著名な民族団体)に属し、ナショナリズムと関わりを持っていた。最終学歴は高校中退で、その後下級弁護士の資格を取っている。その資格を生かして、逮捕、起訴された反徒たちの弁護を買って出た。そのため反乱の指導者の一人であるサヤー・サンを弁護したバモー(のちに英領ビルマの初代ビルマ人首相)とともに、ウー・ソーは一躍有名になる。1933年、立法参事会(植民地議会)の補欠選挙で当選した。それ以降、彼の活動の場は立法参事会になる。また彼は民俗派のビルマ語新聞「トゥーリーヤ」の大株主の一人でもあった。35年日本を親善訪問する機会があり、急速に発展した日本の経済力と工業力をもち、一方伝統文化を守る姿勢に感銘し、さらにアジアの連帯志向が強く存在することを好意的に記している。その後1936年4月にヤンゴンに赴任した日本領事金子豊治との交流を深めた、金子はビルマにおける華人の日本商品ボイコット運動(日貨排斥運動)を孤立化させるために、ビルマナショナリストを取り組み、親日化させようとして、ウー・ソーに近づいた。そして、ウー・ソーに多額の資金援助をしたことが、当時のイギリス側の秘密公安資料に記されている。この資金はライバルのバモー首相を倒す資金としても使われたようである。つづくウー・ブ内閣のとき、農林大臣として初入閣を果たす。あくまで植民地ビルマの首相を目指していた彼は、この頃からイギリスの疑惑をまねかないように、日本との親密な関係を切った。40年九月、ウー・ブ内閣の不信任決議案に賛成票を投じてウー・ブを裏切り、念願の植民地政府首相に就任した。40歳のときであった。
  第二次大戦が始まって1年たった折、ウー・ソーは戦争協力の姿勢を見せながら、イギリスから早期自治領化の具体的約束を得ようと考えた。イギリスは1939年11月、ビルマにコモンウェルス内の自治領(現在のオーストラリアやニュージーランドのような主権国家)の地位を与えることを約束していたが、その時期などについては曖昧にしていた。将来自治領初代首相をもくろんでいたウー・ソーは41年10月ロンドンを訪問し、首相チャーチルなどに直談判したが失敗に終わった。その後アメリカに渡り、ルーズベルトやハル国務長官と会って、イギリスに説得してくれるよう協力を求めた。そのあと、カナダに短期間寄ってからシンガポール経由で、コモンウェルス内の自治領であるオーストラリアとニュージーランドを訪問する計画であった。ところが給油のためにホノルルに寄った日がよりによって現地時間の12月7日、午後、つまり日本軍による真珠湾奇襲の直後だったので、足止めをくらってしまった。数日後、アメリカ本土へ飛ぶ飛行艇の席を確保し、北米横断東海岸へ出て、ようやく12月末、中立国のポルトガルのリスボンに到着した。そこで、ウー・ソーはイギリスの敵国となった日本の公使館に駆け込んだ。そして、一転して、対日協力と、「自由ビルマ政府」の設立を申し出た。真珠湾での日本軍の凄さを目撃し、日本に味方した方が得であると判断したのだろう。
  日本公使館がこの件で東京の本省宛に打った極秘暗号電報が、アメリカに傍受され、あっという間に解読された。アメリカはただちにチャーチルにそのことを知らした。イギリスは帰国途上のウー・ソーをパレスティナのティベリアスで飛行機から降ろし拘束し(42年1月12日)、エルサレムに連行して取り調べた。ウー・ソーは日本公使館との接触は認めたが、日本在住のビルマ人留学生を英国臣民扱いでほしいと伝えに行っただけだと言い、イギリス側の嫌疑を前面否認した。解読した暗号を証拠にしてウー・ソーを国家反逆罪で起訴するわけにもいかず、イギリスはやむなく超法規的に事を処理し、アフリカの英領ウガンダにあるボンボという小さな町に彼を監禁した。
   戦後、1946年1月、やっと釈放され、4年3ヶ月ぶりにビルマに戻ったが、すでに彼の時代は終わっていた。15歳年下のアウンサンがビルマのナショナリズムの代表としてイギリスと独立交渉を進めていた。一時ドーマン=スミス総督に取り入るなどをして復活の機会を狙っていたが、イギリスのアトリー内閣が、46年後半以降アウンサンを主要交渉相手と確定すると、ウー・ソーの再登場は極めて困難な状況になり、最後の復権をかけた勝負がアウンサン暗殺であった。
   イギリス本国の公安組織M16の海外拠点とされる英国文化協会の幹部ビングレーという男から、アウンサンが死ねばイギリスはウー・ソーを後継者にするだろうと吹き込まれたようである。ビングレーは、アウンサンの容共的姿勢を嫌うM16から秘密指令を受けていた可能性がある。1945年7月19日午前、ウー・ソーは部下たちに銃を持たせ、ビルマ政庁の建物の中で閣議中のアウンサンら閣僚を襲撃させた。守衛と、たまたま出席していた官僚を含め、9名が撃ち殺された。アウンサンはとりわけひどく撃たれ、即死であった。


写真:ヒューム
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