訪日(第165回You Tube(民主主義)、ビルマ(ミャンマー))(#31)
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木庵の般若心経(3回目)
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第165回You Tube(民主主義)
ttps://youtu.be/zAHcKQPKM1E

『アメリカのデモクラシー(アメリカの民主政治)』に対しての伊藤貫氏の解説
■中間支配者層が消滅したことによる政府による全体主義
 中間支配者層が社会からなくなると政府はたとえ自由主義、民主主義を守っているようなふりをする政府であっても、実際には全体主義的な行動をとれる。とトクヴィルは指摘している。彼は、『革命前のフランスには国王と国民の間に中間的な支配者層が存在していた』と指摘し、彼はこの中間的支配者層(中間にいる権力の保持者:国王と国民の間におかれたsecondary power)の存在を非常に重視していた。それがあるからこそ、彼の考えによれば、16世紀から18世紀までのヨーロッパ諸国の政府は、政府による専制主義、画一主義、言論弾圧を阻止できた、と彼は言っている。

 トクヴィルより少し前の、イギリスの思想家、エドマンド・バークも同じことを言っている。彼も世界には中間的支配者層が必要だと言っている。単に政府と国民だけでは本当の自由主義は実践できないと指摘している。

 トクヴィルの説明によると、中間的支配者層というのは、『中小の領主層、もしくは貴族階級、騎士階級、紳士階級、聖職者階層、という層があって、国王と国民の間で、一種のクッションの役割を果たしている。この中間的支配者層こそ、本当の地域のコミュニティのリーダーシップをとっていた。』と。国王がいちいちコミュニティのリーダーシップをとるわけがないのだ。彼らが庶民を指導していた。バークもトクヴィルもこれが非常に重要だと言っている。

 彼によれば、『民主主義体制よりも中間的支配者層のあるアリストクラシーの方が個人の独立を保証するのに向いていた。』

 アリストクラシーというのは日本語では貴族制度と訳すが、僕は、アリストクラシーというものを貴族体制と訳す/理解することは必ずしも正確ではないと思っている。もともとギリシャ語で、アリストとは、優れた人、卓越した人であり、貴族というものではない。貴族というときれいな服着てお城に住んで贅沢しているという印象だが、もともとアリストクラシーはギリシャ語では、優れた人たちが統治している政府ということを意味する。貴族=贅沢している特権的な階級とは違う。アリストクラシーを貴族政治と訳してしまうと違う解釈になる。

 『民主体制よりアリストクラシーの方が個人の独立を保証するのには向いていた。アリストクラシーにおいては、国王は権力を独占することができず、国家の統治権を分割せざるを得なかった。アリストクラシーにおける政府の官僚は自分たちの地位と権限を国王から与えられていたわけではない。従って国王は自分の意に従わない政府の官僚を首にする能力を持たなかった。アリストクラシー社会では、独立した影響力を持つ人が多数存在しており、政府がこれらの有力者を抑圧することはできなかった。国王が勝手なことをやろうとした場合、これらの有力者たちはお互いに協力して国王の専制を阻止する能力を持っていた。』


木庵の反応
<木庵は一度、父に代わって村の寄り合いに参加したことがあった。一人が「この村は知識人が多いので・・・・」と言っていた。知識人とは、旧制の中学卒業者である。なるほど、知識人が多いので、村史の編纂をすることができた。兵庫県の中でも、最小単位の村で村史の編纂をしているのはほとんどないであろう。また、最近では大学卒業者が多いというのもあり、ソフトボールの近畿大会で準優勝するようなことも行っている。一流企業のチームと競っての準優勝であるので、大したことである。つまり、我が村は中産層が多いので村経営がわりとスムーズに行われているようである。木庵>

 つまり、国王もこれらの有力者を怒らせるようなことをやると、自分の権力を制限されてしまう。アリストクラシーは国王に対する拒否権(Veto power)を持っていた。しかし、トクヴィルによれば『フランス革命ではこのような中間的支配者層を一掃してしまった。聖職者も騎士階級もすべていなくなった。』という。

 『中間的支配者層が無力化されたため、民主主義社会では政府の権力に対して抵抗できる個人がいなくなってしまった。民主主義社会における個人は弱々しく孤立する存在であり、中央政府に対抗できない。無力化された群集は中央政府の組織化した権力に従うしかない。従って、民主主義は国民を中央政府によって均一化された矮小な市民の群れと扱われるようになった。』

 『中間支配者層がフランス革命によって消滅したことにより、フランスは逆に政府によるラ・ヌーベル・サービチュード(New Slavary system)新らしい奴隷制が発生することになった。』


木庵の反応
<フランス革命によって、新しい奴隷制ができたことがよく分かった。木庵>

 1840年のトクヴィルの著作「アメリカの民主主義」の最終部に書かれていること。これを読んだ20世紀後半の人はみんな驚いた。なぜかというと、トクヴィルは第二次大戦後の西ヨーロッパと北欧の福祉社会の実現を予言していた。100年以上後のことを、予言していた。

 トクヴィルによると福祉社会主義(スウェーデン、デンマーク、ノルウェイ)は必ずしも人間の尊厳にとって望ましいものではない、と言っている。なぜかというと、福祉主義を進めると、トクヴィルは自由主義、民主主義を支持したが、それと同時に、国民が政府に従属しすぎることをすごく嫌がっていた。

 彼はアメリカ人のことを「これほど言論の自由がない国はない、、、」などとけなしているように、彼は非常に鋭敏で、みんなが自由主義と民主主義を実行しているつもりのときに、それは本当の自由主義ではない、人間としての尊厳を失っているのではないか、という疑念・疑問を抱いてしまう。トクヴィルはPascalが大好きで、パスカルも非常に孤立した秀才だが、トクヴィルもパスカル的なところがあり、本質をグサッとっすような考えをもち、秀才で両者は似ていると感じさせる。

 彼は、20世紀後半に人類が実際に作った福祉社会/福祉主義といものを「新しい専制主義(Despotism)」とまで呼んでいる。新しい種類の専制政治において、『政府は均一的な大衆の矮小な快楽に対する要求まで満足させてやろうと行動する。政府は保護者的な親切でかつ几帳面な態度で人々の日常生活と欲望をコントロールしていこうとする。政府の態度はパターナル(優しい面倒見のいいお父さん)と言ってもよいくらいだ。この新しい種類の専制主義の目的は、国民を恒常的に幼児的な状態・段階にとどめておくことである。精神的に国民が大人になれない状態にとどめておく。すべての国民にとって何が幸せな人生なのかを決定するのは政府であり、政府のみが国民の幸せを定義する能力を持っている。政府は国民にとって必要な生き方や関心事や娯楽まであらかじめ決めてあげる。政府はまるで国民の一人一人が自分のことを自分で考える必要性まで除去してやろうとするようである。その結果として、国民は一人一人考えなくなり、人間の自由意志は非常に狭い範囲内でしか機能しなくなる。国民が自立して自分で考える(自思)能力は衰退していく。』

 『しかもそのような自分のことは自分で考えて決めることができなくなった人間は自分のことを幸せな境遇に住んでいると思うようになり、社会は細かい画一的な規則で縛られるようになり、このような社会では独創的な思考力の持ち主や強い精神力を備えた人は拘束的な環境から脱出できなくなる。 人間の意志力は抑制されて鈍化され、枯渇化していく。そして、国民は単なる勤勉で臆病な家畜の集団となっていく。』


木庵の反応
<伊藤貫氏は「パターナル」という言葉を使っている。この言葉はパターナリズム( paternalism)からきている。強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援することをいう。例えば、医師と患者の関係において、患者の利益(生存、健康)を保護するためとして、医師が患者に干渉し、その自由・権利に制限を加えることを当然視するようなことである。患者がどのような医療をうけるかの決定権があるのに、それを無視するのは、paternalism の悪である。ただ、幼児を含む未成年者や麻薬中毒患者や、自傷行為・暴力的言動をする者への干渉は制度に従って認められることがある。それはともかく、日本の人々を観察していると、自己決定をするのがない。何か権威に、他者に、己の人生を委ねているところがある。日本は、paternalism 社会であるということができるのかもしれない。木庵>

このトクヴィルの言葉は後に非常に有名なフレーズとなった。1840年に、「将来の国民は勤勉で臆病な家畜の集団となるであろう」と指摘したことはオーウェルの『1984年』にあるような臆病な飼いならされた集団となっていくというものである。

 トクビルはこのような家畜の集団の国民を「やさしくて平和的な奴隷制のもとの国民」と呼んでいる。やさしい奴隷制。『このような奴隷制は国民主権や自由主義と矛盾していないという外見を維持できる。このようにコントロールされ、拘束されている国民は、自分たちを監督者(拘束者)を選挙で選んでいるのは自分たちだ、と思って満足している。人々は人間としての真の自由を失った状態のもとで生きながら、自分は人間としての自由を維持していると思い込んでいる。』

 要するに、民主主義、平等主義、自由主義を続けることは、トクヴィルの目には新しい奴隷制(国民の面倒を1から100まですべてコントロールして満足している幼な子のような)、奇妙な奴隷制をつくることになる、と指摘している。

 トクヴィルは1835年のアメリカの民主主義において、『民主主義における選挙において、政治指導者の質は低下していく。普通選挙を実行すると政治家の質がどんどん落ちていく。」と書いている。

 その議論はものすごく説得力がある。彼は、彼自身がフランスの7月王朝(ブルジョア封建主義王朝)の国会議員であったので、彼自身が民主的な選挙を体験している。自分が国会議員になったのにもかかわらず、民主的選挙をやると政治指導者の質がおちていくと判断している。

 私は、この1835年のトクヴィルの分析は2023年の現在も正しいと思う。190年前の判断であるが、彼が指摘している三つの点は、現在でも正しいと思っている。

 『民主主義政治の仮説・前提は何かというと、行動の自由、言論の自由を実践すれば、それによって啓蒙された国民たちは質のよい政治指導者を選出するだろう、これが民主主義の仮説、もしくは前提である。』

 しかし、トクヴィル自身はこれを信じていなかった。なぜなら、彼によれば。報道の自由、言論の自由についていうと;

 『アメリカのジャーナリストは教育レベルが低くて彼らの言論は粗野であり攻撃的である。彼らには本当の信念や節操などと言うものはなく他人の弱点や欠点を暴き立てることによって熱中している。しかし、そのようなジャーナリストが群れをなして同じ主張を繰り返すと世論はその方向に引きずられて行ってしまう。個々のマスコミ人は矮小な存在に過ぎない。それにもかかわらず、これら矮小なマスコミ陣が集団となると、アメリカで最大の社会的影響力を行使している。』

 トクヴィルはジャーナリストが嫌いだった。下品で教育レベルも低く人の荒さががしばかりしている。一人一人は矮小だが、グルになると世論が引きずられて最大の社会的影響を行使する結果となっている、と。彼は報道の自由、言論の自由を実践すれば人々が啓蒙されるとは思っていなかった。

 つぎに、『すべての人に投票権を与えれば優秀な人が選出されると民主主義者は主張してきた。しかし、私はアメリカで逆の事態が発生していることを発見した。本当に優秀なアメリカ人は選挙に出たがらない、彼らは政治に出ることを避けて、経済活動に専念している。選挙に出馬したがるアメリカ人たちは凡庸な人たちばかりである。しかも、一般の投票者たちが選挙で優秀な人に票を投じると言うこともない。民主主義社会の投票者は自分の失望や嫉妬や怒りといった感情に基づいて票を投じているのであり、自分より優越した人を選挙で支持しようとしている訳ではない。従って優秀なアメリカ人にとって政治家というキャリアは魅力のあるものではない。政治家になれば、自分の独立を失うし、人前で品のない振る舞いをしなければならないこともある。従って、人々は政治家というキャリアを避ける。

 私の目から見ると普通選挙を実施すれば優れた政治指導者が出てくるという考え方は完全な妄想である。しかも、国民の知的レベルの向上には明らかに限界がある。公の政策を理解するには政策を勉強する時間が必要である。しかし、大部分の国民は自分の生活を支えるための労働をすることで精一杯で、彼らには公共の政策を勉強してみる時間的な余裕と経済的な余裕などない。そのような余裕のある生活をしている人々はごく少数である。そしてそのような人たちは一般の庶民ではない。従って大部分の国民は本当の政策理解力をもてないまま、表面的な印象に左右されて投票している。そして、口のうまい詐欺師的な政治屋たちはそのような国民を操るテクニックを身につけている。そのため、質の低い人物が選挙で多数当選するのである。』

 彼は、優秀な人は政治家になりたがらないし、マスコミは人の悪口ばかり言っているし教育レベルは引くくだらない連中だし、国民は国民で、一握りの人を除けば公共政策をじっくり勉強する時間的、経済的余裕はない。投票者も政治家になる人もマスコミもろくなもんではない、と指摘している。それなのにどうして普通選挙をやると質のよい政治指導者がでてくるのか、と指摘している。これは、トクヴィルが1835年に言ったことだが、今でもどこの国においても100%正しいと思う。


ビルマ(ミャンマー)
    早くも42年5、6月ごろ、既に抗日抵抗運動が始まっている。39年に創設されたが何ら活動することなく消滅したビルマ共産党は、42年8月に再建され、日本に期待することの危険を説き、ビルマ独立の為には、連合国と協力し日本と戦うべきであると主張し。バモーの政府に参加したタキン=タントゥンを日本の傀儡とよび、アウンサンやその系列のタキン党員や将校を日本の第五列とみなし、日本軍の援助と指導を受けてつくられたビルマ軍を、日本ファシストの奴隷であると攻撃した。
   アウンサンは、44年8月1日、ラングーンで催された独立一周年記念祝賀会の席上で、「ビルマが独立してちょうど1年になった。この間我々は何を得たか。正直にいうと、われわれビルマ人はまだその恩恵を享受していない。我々の独立は紙上の独立にすぎない。自分のような大臣やその取り巻き連・産業開発者・新興成金などの少数の恵まれたものだけが、この独立の甘い果実をえているのみ。現状と我々の目標との間には、長くて険しい道がなお横たわっている」と演説した。これは日本への協力を打ち切る決意を表明したものであった。
   そのころ、共産党員やアウンサンらのビルマ革命党派の閣僚たちが密かに集まり、反日蜂起の計画を相談していた。そしてその後、アウンサンの率いるビルマ国民軍・ビルマ革命党によって、ばらばらに行なわれていた抗日運動は統一されるにいたった。ここに、反ファシスト人民自由連盟、ビルマ語でパサバラと呼ばれる組織が誕生した。
  この間、44年3月に開始された日本軍のインパール作戦は完全に失敗し、7月には退却に移った。雲南戦線・北ビルマ戦線でも、英印軍・米中軍の攻撃がはじまった。日本軍は戦線を縮小し、イラワディ川の線で南下する連合軍を迎撃しようとした。45年1月からはじまたイラワディ会戦は、英印軍の突入によって日本軍の敗北は決定的となり、3月上ビルマの中心地マンダレーは英印軍の手中におちた。いまや全面的敗北は必至となった。
  45年5月3日、イギリス軍はラングーンにはいった。ビルマはイギリス軍の軍制下におかれた。復帰したイギリスの目標は、戦前の植民地権力の回復であった。しかしイギリスは、抗日抵抗運動を実行し国民統一戦線として公然と姿をあらわしたバサバラと対決しなければならなかった。ビルマ国民軍は愛国ビルマ軍と改称され、イギリス正規軍に編入され、連合軍と共に日本軍と戦った。
  戦争終了後も、ビルマ独立運動はなおも展開していった。45年九月から12月にかけて愛国ビルマ軍は解散され、ビルマ国軍が新設された。ビルマ国軍に編入されなかった旧愛国ビルマ軍の兵士が多数出て、大量の失業者の発生となった。この時期アウンサンは政治に専念することを発表し、軍籍を離脱してパサバラの総裁に就任した。彼は多数の失業兵士の生活の安定と、国内治安にあてるため、人民義勇軍を組織した。兵数は次第にふえ8000ないし1万4000となり、公然と軍事訓練を行い、次第にアウンサンの私兵的存在となった。全国各地の支部が設けられ、軍隊組織と同じようになった。イギリスは人民義勇軍の抑圧・解体をはかったが、成功しなかった。人民義勇軍はアウンサンの対英交渉の強力な後ろ盾となった。
  パサバラはその後、なおも勢力を拡大していった。46年9月、パサバラの指導のもと、警察官が賃上げを要求してストライキに突入した。ついで郵便および政府印刷局労働者・政府の全官吏・鉄道従業員・石油労働者があいついでストライキに入り、ゼネストとなった。新総督ヒューバート=ランスはパサバラの幹部と交渉をはじめ、旧行政参事会の解散、新行政参事会の発足、及びその構成について両者の意見の一致をみた。46年9月、アウンサンを議長代理とする9名よりなる新行政参事会、すなわち第二次行政参事会が成立した。アウンサンは防衛・外務を兼任した。それは総督の補佐機関ではなく、実質的にはアウンサンを首相とするビルマ内閣であった。イギリスはパサバサに大きな譲歩をしたことになる。10月にゼネストはパサバラの指令で終わった。
   11月、パサバラは総督に4項目の要求を提示した。47年1月31日から1年以内のビルマの独立の実現、ビルマ復興計画の再検討であった。まさに上げ潮にのったパサバラの攻勢であった。45年7月成立していたアトリー労働内閣は、12月ビルマ独立について討議を行なうため、アウンサンを首席とする6名の行政参事会の閣員をロンドンに招いた。アウンサンは出発に際して、「最良の結果を希望しているが、最悪の結果も覚悟している」と述べた。最悪の場合には、彼の私兵的存在となっていた人民義勇軍の反乱を指令していた。またイギリス政府に圧力をかけるために、全土にわたってストライキとデモ行進を行なわせた。  
47年1月27日、アウンサン=アトリー協定が署名調印された。これによると、「イギリス連邦に止まるか否かはビルマの自由選択に任され、現行行政参事会は独立までの中間政府となり、4月に制憲議会の選挙が実施され、辺境地区はこの地域の住民の同意によってビルマ本土に統合され、イギリスはビルマが外交関係樹立を望む国の政府に、これに同意するよう要請し、又ビルマの国連加盟に努力し、ビルマ駐屯のイギリス軍をのぞいて、ビルマ人の軍隊はビルマ中間政府の指揮下に置かれることなど」が取り決められた。
  1月30日、代表団はラングーンに帰り、2月、行政参事会はこの協定を承認した。ラングーン市民主催の歓迎大会でアウンサンは「我々の望んだものを、100%手に入れなかった。・・しかし自由へ進む道は開かれている」と、この協定について評価している。彼個人としては、イギリス連邦内における自治領を考えていたが、完全独立への圧倒的な民衆の要求のまえに、連邦離脱・自主独立への方針を変えざるを得なかった。これは20年のラングーン大学のストライキにはじまり、サヤー=サンの反乱をへたビルマ民族主義運動の当然の帰結であったといえる。完全独立へのスローガンがいまや現実に手の届く範囲にはいった年であった。しかし同時に、左・右両派の対立の激化の年ともなった。
47年7月19日、閣議の開催中にアウンサン、タキン=ミャなど行政参事会閣員7名が計機関銃を持つ4名のテロリストによって、一瞬にして暗殺された。これを計画したのは戦前の首相で、保守政治家ウー=ソーであった。彼のアウンサンの声望に対する個人的嫉妬心と、権力へのあくなき欲望が、この暗殺を決行させたのだろうか。
つづく


写真:村の人々の集まり
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