訪日(第165回You Tube(民主主義)、ビルマ(ミャンマー))(#30)
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木庵の般若心経(3回目)
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第165回You Tube(民主主義)
ttps://youtu.be/zAHcKQPKM1E

『アメリカのデモクラシー(アメリカの民主政治)』に対しての伊藤貫氏の解説
1.多数派至上主義による専制主義
2.世論崇拝主義による知的な画一主義(Conformism)
3.民主主義社会の平等主義から来る嫉妬による抑圧主義
   法律的には自由主義が実行されているように見えても実態としては
   抑圧されている。
4.ヨーロッパの革命前の世界と後の世界、また、ヨーロッパとアメリカを比べ
  た場合、中間的支配者層が双方(革命後の世界とアメリカ)に存在していな
 い。

 トクヴィルは中間的支配者層を非常に重視している。革命前のフランス、
19世紀のイギリスにはそれが存在した。トクヴィルの分析によれば、国家
の自由、寛容というものを本当に維持していたのは国王ではなく、一般国
民でもなくその間に存在する中間的支配者層だったと説明している。


木庵の反応
<日本ではどうだろうか? 江戸時代は、一応徳川家の独裁となっている。幕府は、簡単にお家潰しができたが、結構地方分権があったと最近の研究で分かってきている。ということは、諸藩の殿様や家来が中間層だということだろう。それに、商人の力が強かったので、富裕な商人やそれに豪農も中間層と見てよいだろう。木庵>

5.中央政府による保護者的な統制主義による「新しい奴隷制度」。
   トクヴィルは民主主義、平等主義、自由主義を実行しているとそのうち政府の力ががどんとん強くなって、政府は国民を保護してあげるというポー
ズをとりながら、新しい奴隷制度をつくることになるだろう。そうすると、最終的に啓蒙思想を追求していって行くところまで行くと新しい奴隷制度を作ることになる、と指摘している。


木庵の反応
<現在の日本は、アメリカの奴隷であると言えそうだ。木庵>

■一つ目.多数派至上主義による専制/独裁
 民主主義というのは多数派の意見に従うこと。トクヴィルはフランスでは民主主義をフランスでは支持していたが、多数派がすべてを決めてしまうという社会は長期的にはまずいことになると考えていた。文章を引用すると;

 『民主主義のエッセンスは多数派が権力を行使することであり、議会は多数派の意思を立法化する。社会は多数派の政治的な面での優位性を認めるだけではなく、多数派に道徳的な優越性まで認めてしまう。民主主義では一人一人の議員の資質よりも、議員の数が問題になる。要するに多く議員を当選させた人間が勝ち!これは人間の知性の分野にまで平等主義の原則を適用することであり、数が多ければそれでいいのだということになる。数が多い方が道徳的にも政治的にも勝ちだということになる。』

 トクヴィルは、「私は個人的には多数派は、何をやってもいいという考え方には、不潔で卑しいものを感じる。」、と述べている。この考え方は、トクヴィルの宗教的もしくは哲学的考え方からにもとづくものである。


木庵の反応
<知恵者は少数の中にいる。そうであるのに、民主主義は多数の暴力を遂行する。それを実施するのは、政府である。政府が専制主義を遂行する。木庵>

 『アメリカでは多数派が何かを決定するとそこで議論がピタっと止まってしまう。ヨーロッパでは最も専制的な国王ですら、国内の少数派の言論を止めることはできない。しかしアメリカは、少数派を沈黙させることができる。アメリカでは多数派が物理的な権限だけでなく、道徳的な権限も行使している。世界諸国の中でアメリカぐらい思考の独立と真の言論・議論の自由が欠けている国はない』と指摘している。これは彼が1835年に書いた文書で、1830年代当時の世界のことを指している。

原文:
Je ne connais pas de pays où il y ait moins d'indépendance d'esprit et
de véritable liberté de discussion qu'en Amérique.

 『アメリカぐらい、思考(エスプリ、スピリット、マインド)の独立性に欠けている国はない、また、議論の自由の欠けた国はない』、ということ。トクヴィルの観察によると自由と民主主義を実行していたアメリカという国ほど、精神と思考の独立性と自由の議論する態度が欠けている国はない、とみていた。アメリカの民主主義のことを、「La tirany de la Majorite」=「多数による独裁の国」と見ていた。『アメリカは少数派の意見を唱える人を露骨に迫害して村八分にして社会から抹殺してしまう。アメリカの言論迫害はスペインの異端審問よりひどいものである。』と書いている。


木庵の反応
<現在のアメリカでも、言論弾圧は巧妙にされている。アメリカ国民は言論の自由が保障されていると思っているだけである。木庵>

 しかも、トクヴィルは、『多数派による専制、圧政、独裁政治を恐れるアメリカ人はいつも多数派の意見に迎合しようとするような計算高い国民となっている。そのため、アメリカでは偉大な人格者というものが出てこない。』、と述べている。
 
 要するに、フランス革命にしてもアメリカ独立革命にしても、自由主義、民主主義を実践したと言うことになっているが、トクヴィルから見てこれは「多数派による圧政・独裁」に見える。


木庵の反応   
<アメリカは人種差別を伝統する国である。ヨーロッパからやってきた白人がインディアンを虐殺し、アフリカから黒人を奴隷として連れてきた。そうではあるが、奴隷を解放するために、南北戦争を引き起こし、北部が勝利し、奴隷解放をおこなった。さすがにリンカーン、アメリカであると思いたいところだが、1865年奴隷解放後、
Lim Crow Laws(ジム・クロウ法)という法律を作っている。 1876年から1964年にかけて実際に有効な法律として存在したというから驚きである。

具体的な例として、
アラバマ州法
病院:白人女性の看護師がいる病院には、黒人男性は患者として立ち入れない。
バス:バス停留所には白人用と有色人種用の2つの待合場が存在し、乗車券販売所も白人用と非白人用があった。座席まで区別されていた。
電車:人種ごとに車両が選別されるか、同一車両内でもバスと同様、人種ごとに席が分けられた。
レストラン:白人と有色人種が同じ部屋で食事ができるようなレストランは違法になりさえもした。

フロリダ州法
結婚:白人と黒人の結婚は、禁止された。なお、4世代前までに黒人の血が一人でも含まれれば(16分の1)、純粋な黒人と同様、『黒人』として扱われた。
交際:結婚していない黒人と白人は(結婚自体既に禁止されているが)一緒に居住してはならないし、共同の部屋で夜を過ごしてもならない。この犯罪には12か月以上の禁固刑、もしくは$500(当時)の罰金が科せられた。
学校:白人学校と黒人学校は、厳密に区分された。

ミシシッピ州法
平等扇動罪:パンフレット・出版・公共場での演説などで社会的平等・異人種間結婚を奨励すれば、6か月以下の懲役、もしくは$500以下の罰金。
上記州以外に、ジョージア州、ルイジアナ州、ノースカロライナ州、ワイオミング州が類似した法律を持っていた。

ほとんどの南部州
過剰な投票税を課すなどして、黒人が投票するのを防止しようとした。

アメリカの人種差別の土壌があったから、日系人も多くの差別を受けたのである。木庵>

■次の、世論崇拝から生ずる知的な画一主義について
 『平等主義、民主主義の時代になって人々は一般の世論に真理の根拠を求めるようになった。革命以前の社会においては、それぞれ違う階級に所属する人たちは全く異なった見解を抱くことを不思議に思わなかった。

 階級社会では深い学識と教養をもつ少数の力強いひとたちと多くの無知な大衆が共存していた。そのような時代の人々は少数の卓越した知性をもつ賢人の意見に耳を傾けて、彼らの意見をガイダンスとして自分の意見を形成していった。

 当時の人々は大衆の世論が真理だなどと思っていなかった。しかし、平等主義、民主主義の時代になると一般の世論が非常に強い影響力を持つようになった。人々は世論の推移に従うようになり、世論の判断を信奉するようになった。最多数となった意見が時代の真理と見なされるようになって、人々にとって自分自身で考えてみるという行為は不要となった。多数派による世論が一種の宗教となったのである。』


『この、世論に従うという人々のパターンは人間の思考力を狭い範囲に閉じ込めてしまった。平等主義を是とする民主主義社会は逆に知的、精神的自由を拘束している。階級社会の漆黒から解放された筈の人間の知性は、多数派世論による拘束という新しい別の牢屋に閉じ込められることになったのだ。』


木庵の反応
<多数派による世論は、確かに一種の宗教である。多数の意見に頼り、己の頭で考えようとしないのである。木庵>

 『人々は奴隷制度の新たな側面=形(nouvelle physionomie de la servitude)となっている。民主主義による世論崇拝という画一主義は、「新しい奴隷制度の時代」を作った。』

 要するにみんなが民主主義と自由主義を実行しているつもりなのに、トクヴィルからみると、「これって新しい奴隷制度なんじゃないか」、と見えた。

 次に.次に民主主義社会の平等主義から来る嫉妬による抑圧主義を説明している。

 彼は、自由と平等というものは常に共存できるとは思っていなかった。当然です。誰でもわかること。みんなの自由なことをやり出せば、だんだん平等ではなくなってくるし、誰かの自由を制限せざるを得なくなる。自由と平等とはそう簡単には両立しない。これは自明である。「 彼によれば、『平等を望む人間の心理はしばしば社会の強者や優越者に対する嫉妬や怨恨となり、人々は自由な状態における不平等よりも、隷属状態における平等を望むようになる。』トクヴィルによれば、『人間の欲求の中で最も強いのは、自由に対する欲求ではなく、平等こそが人間の最も強い欲求でああるという。

 従って、民主主義社会では、優越した人もしくは自分と違った人に対する嫉妬や不快感が、政府の権力を使って人間社会の画一化を求める人間の格差や差異を消滅したいという衝動となる。従って人々は社会環境の均一化と人間の同一化を求めるようになる。これによって政府は、国民からの人間の平等化・均一化の要求を受け入れて、政府の規制件と介入権を拡大していくことになる。』 つまり、自分と違った人に対する嫉妬とか恨みを持つようになると、結果としてより大きな政府を作っていくようになる。

 これに対して私が感じるのは、今のアメリカは差別反対、偏見反対という世論が蔓延し、マスコミと民主党はそれ一色になっている。それで相手を攻撃することが連日起きている。これがPolitical Correctness(ポリコレ)とか、ウォークネス(wokeness:差別に対して意識が高い、覚めている)と言う言葉で、you are not woked (おまえは鈍感だ、差別感情が強い、時代遅れだ、私の人間性を無視している・・・)というような言い方になる。差別反対、偏見反対というマスコミと民主党が主導するポリコレとWokenessによって今のアメリカでは、教育機関においてもマスコミにおいても政治活動においても行政機関においても、行政機関においても、言論の自由と表現の自由が非常に厳しく規制されている。

 例えば、一番馬鹿げた話だが、大学に入ると先生が学生に対して、男であれ女であれ、例えば男子に対して、「私はあなたをHe/him と呼んでいいか、それともShe/her、あるいはTheyとかThemと呼ばれたいか」と聞いている。男子でも自分のことを女性と認識している人にheと言っては相手を傷つけることになると。ひどいところでは小学校の一年生の生徒にも聞いている。小学校の一年生に聞いてもわかるはずがないのに。小学校の先生が、「Hi Boys and Girls!」という呼びかけはNG。なぜなら、自分のことをBoyとかGirlとか思いたくない人がいると。自分をトランスジェンダー、ジェンダー・フルイッド,ジェンダー・エクスチェンジャブル(性別はその日の気分によって変わる!)と思っているひとがいるらしい。それは差別用語になると!!これは本とのことなんです。

木庵の反応
<聞くところによれば、日本の学校では、男の子に「●●君」と言うのではなく「●●さん」と言うのだそうだ。全く男女の差などない。日本では男の子は男らしく、女の子は女らしく育てるのが普通であったのだが、それが崩れつつあるという。崩れるというより、崩させているようだ。木庵>

 ポリコレとウォークネスから来る極端な言論の制限、抑圧が実際に起きていて、アメリカに住んでいる僕は、嫉妬とか反差別感情による抑圧主義というのは笑い事ではない。一般の英語におけるheとかsheの当たり前の表現を使うときも用心しなければならない。単数でも、Call me they or them などと複数で読んでほしいと言う人がいるので英語の文法までおかしくなっている。

 平等主義から来た言論の抑圧というのは、アメリカでは、言葉の最も基礎的な名詞、代名詞を使っていいのかまで制限される事態になっている。これが平等主義と民主主義の行きつく先ということです。


ビルマ(ミャンマー)
ここでタキン=アウンサンのことについて少し述べておく。彼はラングーン大学のストライキで放校処分を受け、そのあと、学生たちの激しい抵抗(ストライキ)にあい、学校当局は折れ、タキン=アウンサンは復学している。
6) 1938年は、ビルマでは「革命の年」といわれる。第二次大戦の勃発の前年である。ラングーンでインド人とビルマ人の衝突がおこった。直接的原因は宗教的なものであったが、人種的・経済的対立が衝突の真の原因であった。 
   こうした状況のなかで、39年8月、ラングーン市の一隅でビルマ共産党が結成された。もちろん非合法組織で、書記長アウンサンおよびその他の幹部はタキン党を兼任していたため、党の仕事に専念するあまり、共産党としての活動は何らしないまま、翌40年には自然消滅した、
   1939年ヨーロッパで第二次世界大戦がおこった。タキン党は民衆を基盤とした確固たる勢力に成長した。彼らはストライキを通して、植民地権力の打倒と独立の達成には、冒険的孤立主義的行動をやめて共同闘争を組み、最後には武装蜂起をうったえる以外には道はないとの結論に達していた。
   当時タキン党は、独立達成のためには、中国の国民党・共産党、ソ連・日本、どこからでも援助を得たいと望んでいた。日本では、早くも35年には日緬文化協会が設立され、右派の民族主義者ウー=ソーは来日し、日本から資金の援助を得て、『ツーリヤ』紙上に、親日的論調を発表し、彼の率いるミヨチョ(愛国)党は、中国への軍需物質を輸送するビルマ=ルートを使用することに反対するデモ行進を行なった。ビルマ=ルートは雲南省の昆明とビルマ国境(田+宛)町(えんちょう)を結ぶ道路で、37年末に着工し、38年の中頃完成し、39年1月に正式に開通した。40年にはこのルートにより月間輸送量は、当時のいわゆる援蒋ルートによる輸送量の31%を占めるに至った。日本の強硬な抗議をうけて、イギリスは40年7月から3ヶ月、すなわち雨季の期間閉鎖したが、雨季明けとともに10月再開した。支那事変の処理を急いでいた日本は、このルートの完全閉鎖を意図し、対ビルマ工作が次第に現実化した。
   ビルマに対する工作は海軍側と陸軍側の二つの線で行なわれた。海軍側の工作は予備役海軍大尉国分正三が指揮権を握っていた。彼はラングーンの歯科医を開業し、39年ごろよりタキン党員と接触し、ビルマ各地やビルマ=ルートの調査を行い、タキン党員のビルマ独立計画書をつけて、ビルマ施策大綱案を海軍省に提出した。陸軍省の工作は陸軍大佐鈴木敬司を通して行なわれた。40年6,7月にわたり、ビルマ=ルートや民族運動の現地調査のため、日緬協会書記長南益世の偽名でビルマに渡り、タキン党員たちと接触した。たまたま警察の追跡を逃れ、又外国の援助をえるため、アウンサンとタキン=フラミャインの2名が海路脱出し、アモイにひそんでいた。彼らは中国共産党でも、日本とでも、連絡がとれたほうから独立達成のための武器援助の約束を取り付けたいとの計画であった。彼らの脱出を知った鈴木はアウンサンらをみつけ、40年11月空路東京につれてきた。41年1月、陸海両路から進めてきたビルマ工作を統一することになり、2月ビルマ独立援助を目的とし、鈴木を機関長とする南機関(鈴木の偽名南からとっている)が大本営直属の特務機関として正式に発足した。南機関はバンコクに本部をおき、ラングーン班を設け、情報収集と、軍事訓練のためのビルマ青年の獲得につとめた。41年2月より6月にかけてアウンサンら30人のビルマ青年を収容し、海南島・台湾で軍事訓練と特殊訓練をほどこした。彼らはのち『三十人志士』とよばれた。この間、鈴木は軍と相談せず独断でアウンサンらに、日本はビルマ独立のため武器を援助し、日本軍の進駐はテナセリム地区確保のための一個旅団に留め、ビルマ全土の作戦と施政は南機関とビルマ独立義勇軍が当たると約束した。アウンサンらはこの約束を信じた。
  12月8日真珠湾奇襲とともに、南機関と30人はバンコクへ移り、新兵の募集を行ない、同月ビルマ独立義勇軍が編成された。日本軍のビルマ侵攻は42年1月本格的に開始され、3月、ラングーンを攻略し、ひきつづいて中・北ビルマの作戦に移り、ほぼ5月中旬までにビルマ全土を占領した。ビルマ独立義勇軍は、最初は200名にすぎなかったが、日本軍とともにビルマにはいるや、参加者が激増し、ラングーン占領時には、約3万を数えた。彼らの宣伝により、ビルマの民衆は日本軍に積極的に協力した。しかし、日本軍はラングーン占領後、ビルマ独立は戦争終了後と宣言した。これは即時独立を独断で約束した南機関長鈴木を苦境におとしいれた。また約束を信じていたアウンサンらは、日本の真の意図に疑問をいだくようになった。ビルマ独立義勇軍の人数は膨れあがっていたが、なかには勝手な行動に走るものもあわわれ、またビルマ独立義勇軍の名を借りて、暴行、掠奪を行なうものもあった。42年5月、下ビルマのミャウンミャで、イギリス軍に加わっていたカレン人の復員兵の武装解除をめぐって、ビルマ独立義勇軍との間に衝突がおこり、多数のカレン人が殺された。この事件の背景には、植民地時代を通して、イギリスの植民地支配に組したカレン人に対するビルマ人の憎悪があった。この対抗意識は、ビルマ独立後、ビルマ統合を脅かす、カレン人の反乱に繋がるものである。
  日本軍は42年7月ビルマ独立義勇軍を解体し、そのうちから2800名を選んでビルマ防衛軍を編成し、アウンサン少将を司令官とした。防衛軍はその後8000名まで増員され、装備も充実した軍隊となった。これはまさにタキン党が望んでいた軍事力であった。このビルマ人の軍隊がビルマ独立を推進する基礎となった点に、大きな意義がある。日本軍は42年6月には南機関を解散し、鈴木を日本へ転出させた、南機関がビルマ独立運動に軍事力を与えることによって、独立の展望を確実にしたことは否定できない。
  日本軍はラングーン陥落二日後、42年3月10日に軍政部を設け、軍政施行の準備に入った。一方、南機関の鈴木はビルマ独立義勇軍とタキン党を指導して、各地に治安維持会・各級行政委員会を作り、治安維持につとめながら4月、三十人志士の一人タキン=トゥンオウを首席行政官にするビルマ=バホウ(中央)政府をつくった。これは日本軍の正式な承認を得ていなかった。鈴木によるビルマ統治は、日本軍の軍政施行の方針と衝突を起こすこととなり、上に述べたように南機関は解散され、同時にビルマ=バホウ政府も消滅した。
  西南太平洋方面ではガダルカナル島の攻防戦の敗北を機として戦局は逆転した。日本はビルマに対する政策の転換を与儀なくされるにいたった。43年1月、第8回『帝国議会で首相東条英機は、年内に軍政の廃止と独立許与を声明した。これをうけて5月バモーを委員長とするビルマ人25人からなるビルマ独立準備委員会が設置された。かくて同年8月1日軍政は廃止され、ビルマは主権を有する独立国家たることを世界に宣言した。バモーは国家主席となり、15名からなる内閣がつくられた。アウンサンは国防大臣となった。独立と同時にビルマ防衛軍はビルマ国民軍と改称され、ネーウィン大佐が、ビルマ国民軍の司令官となった。
   この日本が許容した独立は、戦局の不利な展開とビルマの戦争協力を得るための、その場しのぎの政策の転換によるもので、傀儡政府であるという評価はまぬがれない。しかし、ビルマが不徹底な形であれ、いちおうの独立政府をもったことは、ビルマ民族主義にとって、意義があったといえるだろう。
つづく 


写真:有色人種専用の水飲み場(1950年頃)
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