訪日(第165回You Tube(民主主義)、ビルマ(ミャンマー))(#28)
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You Tubeを立ち上げた
対談に参加したい人は、
⓵ 木庵のメールアドレスをクリックする。

メールアドレス:takaonaito03@gmail.com
⓶ どのようなトピックス、日時などを木庵と話し合う。
⓷ 実際にズーム上で対話をおこなう(自動的に録画できるようになっている)。
⓸ ズームで録画したものを、You Tubeに移動(木庵の作業)
⑤ 出来上がったYou Tubeのアドレスをブログに掲載。
⓺ You Tubeのアドレスをクリックすると、誰でも対話の様子が見れる。

*顔を隠したい人、仮の名前でもよい(勿論木庵の顔はだす)。

*二人以上もできるが、40分でズームは切れる(延長する場合は、再開する必要あり)。

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木庵のZoomミーティングに実際に参加する場合:
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*URLをクリックするだけで、ミーティングルームに入れる(ミーティングID、 パスコードの入力は必要ないよう)。
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木庵の般若心経(3回目)
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第165回You Tube(民主主義)
ttps://youtu.be/zAHcKQPKM1E

『アメリカのデモクラシー(アメリカの民主政治)』に対しての伊藤貫氏の解説
そこで思い起こすのが、プラトン、アリストテレス。彼らは、民主主義をずっとやっていると国民が価値判断能力を失って、もう一度独裁者もしくは専制政治となると言っていた。24世紀前に先人が言っていたことにトクヴィルも同意している。

木庵の反応
<現在のアメリカを見ると、もはや専制政治になっている。表面上は民主主義の形態をとっているが、それが機能していない。はっきり言ってデ●●が背後でアメリカをコントロールしている。デ●●が先制政治の大本である。木庵>

 今の日本、今のアメリカがなぜ混迷した状態、うまくいかない状態なのか。廃れていくか、優秀な政治家は出てこない。民主主義をやっているとほんとうに優秀な政治家は出てこない。民意を反映した政治家は多くの場合、ほとんどの場合、やっているふりをしている政治家にすぎない。実際に歴史を変えたり文明の混乱、低迷状態を改善するような能力を持っていない。なぜ、そういう政治家が出てこないかということもトクヴィルは180年前に、指摘・予言している。


木庵の反応
<今の日本の首相を見ても、全く能力がない。またアメリカの梅ちゃんは、岸ちゃんより酷い。木庵>

 私のようにアメリカの民主主義政治を観察しているとアメリカの政治にも期待は持てない。日米ともに悪くなっていくだろうと思っている。なぜそうなっていくかをトクヴィルは約180年前に説明してくれている。ですからとても役に立ちます。今日は約10のことを説明します。トクヴィルの著作から多くを引用します。

■まず最初に
 『民主主義、自由主義、平等主義を続けていると国民が深く考える能力を失っていく。』、トクヴィルの観察によれば、『18世紀の階級制度が残っていたヨーロッパのほうが19世紀の民主主義を実行し始めたヨーロッパよりも国民が思考能力があった』、と考えている。


木庵の反応
<明治維新後の日本人を見ても、これはと思う人は、江戸時代に教育を受けた人である。木庵>

 彼に言わせると、『民主主義社会では、すべての国民が平等な思考力と平等な価値判断能力を持つとみなされている。したがって民主主義社会では、すべての人がすべてのことに自分の判断を下す能力があるという建前になっている。国民はだれもが自分の判断に自信を持つようになる。したがって、自分より優れた判断を持つ人の意見に耳を傾ける必要を感じなくなる。同時に、社会の伝統的な価値基準を尊重する姿勢も失っていく。民主主義社会くらい深くものを考えるという態度に向いていない体制はない。


木庵の反応
<人間の知恵というのは、過去の人間の行為から学ぶところが多い。過去には人間の生き方に対する資料が一杯ある。木庵>

 民主主義社会においてはほとんどの人が金や社会的地位や名声や権力を追いかけて毎日あくせくと動き回っている。18世紀の階級社会において、人々は実は、のんびりしていた。しかし、19世紀の民主主義、自由主義の社会においては、機会平等であるから、だれもが自分の地位と経済的条件を向上させようと競争し始める。したがって国民は18世紀と違って19世紀の国民は自分の目先の損得と勝ち負けに熱中する。このように目先の損や勝ち負けに熱中する人々にとってじっくりと自分の人生を考えてみるという沈着冷静な態度は不必要なものとなっていく。


木庵の反応
<戦後の日本は、アメリカの民主主義を強制的に受け入れさせられた。その結果どうなったか。人々は金の亡者になり、金の儲かることばかり考えている。立身出世も国家のためとか、日本人を幸せにするとかいうのではなく、己のことだけ、己が出世し、己が豊かになることだけ。そのためには、民主主義に汚染された人々を言葉の上で騙し続ける。大学も経済や政治を選び、功利性を学ぶ。木庵>

 したがって民主主義における人間は、激流に押し流されるあぶくのような存在になる。民主主義社会ではじっくりものを考えるという態度は軽視されるようになり、社会で活動的で活発な生き方をする人が尊敬される。深い思考力は必要とされなくなる。民主主義社会で必要なのは、世間の潮流を素早く察知して群衆の心理を鋭く見抜いて自分が成功するチャンスを増大させていくことである。


木庵の反応
<「民主主義における人間は、激流に押し流されるあぶくのような存在」とは的確な表現である。あぶくであるので、成功したように見えて、実態がなく、尊敬もされない。木庵>

 したがって民主主義社会では、表面的ではあるが、もっともらしく聞こえるアイディアがもてはやされ、深い分析や洞察力は過小評価されていくようになる。国民は自分の利益と自分の快楽に役に立つ新しい方法やテクニックを望むが、自分の得にもならない抽象的な知的な活動には見向きもしなくなる。』


木庵の反応
<戦前では京都大学で哲学を勉強するのがエリートであった。今は哲学を専門にするような人間は、それこそあぶくと評価される。木庵>


■二番目に個人主義(Individualism)がある
 トクヴィルによると、ギリシャ・ローマ時代から18世紀まではそもそも個人主義という言葉が存在しなかった、という。そういう言い方がなかったので、人々は個人主義的ではなかったのだ。


木庵の反応
<「ギリシャ・ローマ時代から18世紀までは、個人主義という言葉が存在しなかった」とは、特記すべきことである。日本の場合、個人というより、家族の一員、社会の一員として個人が考えられていた。木庵>

 しかし、革命以降のヨーロッパで民主主義、自由主義、平等主義がはじまって、初めて個人主義的な生き方が広まってきた。トクヴィルはこの個人主義という生き方に対して、批判的。『なぜなら民主主義の時代になると、人々は優れた人の見識から学ぶよりも自分自身の好き嫌いの感情と生まれつきの性格、体質、気質の中に自分の心情を見出そうとする。彼らは個人主義者となり、自分の気に入る人だけと交際して社会の動きに関心を持たなくなる。これは人々の公徳心を枯渇させていく。個人主義とは民主主義から生まれた生き方であり、平等主義により一層強化されている。』


木庵の反応
<木庵の周囲にいる人も、他者、特に優れた人から学ぼうとしない。どんぐりの背比べで、自分と同じレベルの人との交流で、自分も他人と同じだと安心している。しかも、自分と考えの違う優秀な人の言うことを拒否する傾向がある。木庵>

 『フランス革命前の階級社会において、人々は自分の先祖を明確に覚えており、しかも尊敬していた。そして彼らは、自分の孫の世代を明確に意識しながら生きていた。人々は先祖に対する義務と子孫に対する義務の双方を常に念頭に置きながら生活し、先祖と子孫のために自分の利益を犠牲にすることを厭わなかった。しかし、民主主義社会になってから、人々は先祖のことなどあっさり忘れてしまった。そして、子孫の世代のことも気にしなくなった。そして彼らは、隣人に対しても無関心になった。』


木庵の反応
<ということは、現代人は、現代という孤島のなかで暮らしているということである。過去と断絶し、そのために荒涼とした人間になっているのである。木庵>

 『階級社会であったときは、国王から農民まですべてのひとは人間関係のネットワークに組み込まれていた。しかし民主主義社会は、このようなネットワークを解体してきた。』

 当然ですよね。機会均等・平等主義ですから。ネットワークはどんどん解体されていく。そうする人間関係のネットワークなどというのはどんどん破壊いてもかまわない、自由に動き回るのが国民の生き方。

 『人々はバラバラになって孤立し、お互いに対する義務感と期待感を持たなくなる。民主主義社会で、国民は人生で頼りになるのは自分だけという孤立感を抱くようになり、緊密な人間関係を築くのが難しくなっていった。


木庵の反応
<繰り返す。現代人は現代の孤島の中で暮らしている。木庵>

 人間の心を大きくししかも思考力を深めて行くには人間同士が相互に影響し合うことが大切である。しかし、民主主義社会においては人間関係がどんどん希薄になっていくので、お互いに思考力を深めるとか心を大きくする機会も減っていく。機会平等主義と能力主義を重んじる民主主義社会は民主社会は人間を自分の成功と自分の幸福にしか興味を持てない孤独な競争者(lonley competitor)に変えていくのである。』


木庵の反応
<「孤独な競争者」とは上手い表現である。なぜ孤独なのか。それは己のためだけに生きているからである。木庵>

 トクヴィルは、『このような平等主義が普遍的な思想になるなら、人々の思考力は狭くなっていくだろう。人々は自分の目の前の世界にしか関心を持たず公共の問題には関心を失う。人々は無気力、無関心な態度で時代の流れに押し流されるようになり、奮起して社会の流れを変えようとして努力する人などいなくなる。それによって多くの人たちは孤独で矮小で不毛な人生を生きていくことになるだろう。』と述べている。


ビルマ(ミャンマー)
国民

• 人種・民族
o ビルマ族 68%
o シャン族 9%
o カレン族 7%
o ラカイン族(ラキン) 4%
o 華人 3%
o 印僑 2%
o モン族 2%
o 他 5%


• 宗教
o 上座部仏教 89%
o キリスト教 4% (バプテスト教会 3%、ローマ・カトリック教会 1%)
o イスラム教 4%
o 精霊崇拝(信仰) 1%
o その他(ヒンズー教など) 2%


• 言語
o ビルマ語(公用語)
o 少数民族諸語(シャン語、カレン語など)


世界遺産
ユネスコの世界遺産への登録はないが、世界三大仏教遺跡の1つであるバガン(旧称パガン)の寺院群が、登録申請中である。

ウィキペディアの記事によって、基礎的なビルマについての知識を読者の方は得たと思う。これから私(木庵)のビルマに関する見解を述べることになるが。その前に、「ビルマ一般論から核論へ行くためのプロローグ」と題して、イギリス植民地化、ビルマ独立運動、日本統治についての歴史の流れを書く。これが、後の私の核論の伏線になるであろう。

   
ビルマ一般論から核論へ行くためのプロローグ
 1)ビルマの国土の広さは日本の約1.8倍である。一般にビルマは上ビルマと下ビルマの二地域に分けられる。下ビルマは大体1824年及び52年の2回にわたるイギリス=ビルマ戦争の結果イギリス領となった地域である。気候は国土の主要部分が熱帯圏内にあり、雨季と乾季が交代する典型的なモンスーン気候に支配されている。雨季は5月中旬から10月中旬までつづく。雨量は地域差があり、中央乾燥地帯をのぞいてきわめて多く、特にデルタ地帯・アラカン・イラワディ上流山岳地帯・中国国境地帯などは、年間平均して2000ミリから5000ミリに達する。インパール作戦が雨季に入り、この洪水量の多さで日本軍が苦戦したのは有名である。
   最初の近代的国政調査は、イギリス占領下、1872年と81年2回行なわれているが、その後の91年の調査では、人口800万弱であった。1941年の調査はほぼ1700万と推定される。1973年現在の人口は2888万5867人である。
  
2)ビルマ人・シャン人・モン人は殆ど上座部仏教の信者である。山地居住民は精霊崇拝が多いが、近頃仏教やキリスト教に改宗する人がでている。カレン人の多くはキリスト教に改宗し、高い教育を受け、植民地時代には教師・下級官吏・軍人として勤務し、独立以後もビルマへの対抗意識が強く、反政府運動の指導者となっているものが少なくない。このあたりの事情が、イギリス統治の狡猾さであり、その影響が今もビルマを分裂している要因になっている。
  
3)第三次イギリス=ビルマ戦争について少し述べる。王宮内の陰謀によってティーボー・ミン王が王位についた(1879年)。彼は王位をうかがう恐れのある兄弟姉妹704人を虐殺した。国内の治安は乱れ、流賊がばっこした。しかし、このような時代に王は何とかイギリスの圧迫を排ししようとしたが、イギリス人経営のポンペイ=ビルマ貿易会社とビルマ王国との間におこったチーク材伐採についての紛争によって、結局イギリスは直ちに軍事行動を起こし、対抗できる軍隊をもたなかった王国は滅亡した。ティーボー国王 と王の家族はインドのゴアに近いラトナギリに配流され、その地で死亡した。このあたりのビルマ王族のまとまりのなさ、国防への準備のなさがビルマ王朝の滅亡へという結末になったと考えられる。
 
4)第一次・第二次イギリス=ビルマ戦争によってイギリス領となったアラカン・テナセリム・ペグーの三地区は管区とよばれ、最初はそれぞれ独立してベンガル総督に責任を負う弁務官の統治の下におかれ、インドで施行された法律が、いくらかの修正を加えられたものの、殆どそのまま適用された。1861年に警察法が交付された。これは反乱に手を焼いたイギリスが植民地統治のために案出したものである。1897年、ビルマをインド議会条例による自治州とするインド総督令が発布され、弁務長官にかわって、副知事が統治することとなった。副知事が兼任する立法参事会が諮問機関として設けられ、議長が任命する9名の議員より構成された。参事会議員の大部分はイギリス人で、ビルマ人の任命はほとんどなかった。その機能は一般治安と交易などの立法に関係するだけで、行政・財政などにくちばしを入れることは許されなかった。そもそも人種・言語・宗教をまったく異にするビルマが、インド政庁のもとにおかれたのは、ビルマ植民地化の過程においての便宜的なものであった。32年11月、インドから分離するかどうかを問う、立法参事会の総選挙が行なわれたが、反分離派が勝利をおさめた。反分離派の主張は、インドが完全な自治権を獲得するまではインドから分離すべきではなく、イギリスが分離をとなえるのは、インドが要求している政治的地位より低い地位を、ビルマに与えようとするもので、分離によってビルマは直轄植民地となる恐れがあるというものであった。
 イギリスのビルマ統治は現実的で、民族主義運動の目標を先どりしたところがあった。例えば女子に選挙権をあたえている。ビルマにおける男女の社会的平等の実際をみての処置であったといえよう。立法府は任期5年の公選議員132名からなる下院と、任期7年の、半数は下院議員のなかから互選され、半数は総督指名の、計36名からなる上院との二院制よりなっていた。選挙権は男子18歳、女子は21歳以上のもので、資格は一定額の納税者にかぎられ、被選挙権は男女25歳以上で、選挙権と同じ資格のものであった。下院議員選挙では一般選挙と特別選挙の二つに分けられ、一般選挙では民族別に113選挙区から116名を選び、特別選挙では団体別に11選挙区から13名を選んだ。しかしながら民族別人口数と民族別議席との間に不均衡が生まれ、とくにイギリス人およびイギリス系混血人に過大の選挙数が与えられていた。特別選挙区は商業中心に設けられたが、ビルマの商業がビルマ人以外のイギリス人・インド人・中国人に握られていたので、彼らの利益を特に代表し擁護する仕組みになっていた。
つづく


写真:カレン族の女性
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