訪日(第163回You Tube(思考停止) 、ブログを始めた頃の記事)(#20)
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You Tubeを立ち上げた
対談に参加したい人は、
⓵ 木庵のメールアドレスをクリックする。

メールアドレス:takaonaito03@gmail.com
⓶ どのようなトピックス、日時などを木庵と話し合う。
⓷ 実際にズーム上で対話をおこなう(自動的に録画できるようになっている)。
⓸ ズームで録画したものを、You Tubeに移動(木庵の作業)
⑤ 出来上がったYou Tubeのアドレスをブログに掲載。
⓺ You Tubeのアドレスをクリックすると、誰でも対話の様子が見れる。

*顔を隠したい人、仮の名前でもよい(勿論木庵の顔はだす)。

*二人以上もできるが、40分でズームは切れる(延長する場合は、再開する必要あり)。

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木庵のZoomミーティングに実際に参加する場合:
下のURLをクリックする。

https://us04web.zoom.us/j/5582589118?pwd=b0xsUHBQM2NYb0NNVFdYK3JSY2daUT09

ミーティングID: 558 258 9118
パスコード: 2BaZGd

*URLをクリックするだけで、ミーティングルームに入れる(ミーティングID、 パスコードの入力は必要ないよう)。
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第163回You Tube(思考停止) 
https://youtu.be/AjFfNawViGQ

禅は宗教なのか哲学なのかということをよく言われる。禅は他の宗教に比べると哲学的であり、より科学的であるといえそうである。ところが、禅を修行する人によって、宗教の方に近い人、哲学に近い人に分かれる。木庵はどうなんだろう。宗教の定義づけによって、違ってくるだろう。宗教は一般的に論理を超える世界、人知では知ることの出来ない世界に足をつっこむ。「以心伝心」、「教外別伝」を強調する人は、宗教に近そうだ。また悟りが存在すると思っている人も、宗教に近い。その意味でいくと、木庵は論理を超える世界を信じていないし、悟りも所詮人の自己満足だと考えているので、宗教の世界から離れていると言えそうである。しかし、道元禅を宗教のカテゴリの中に入れるとすると、木庵は宗教の仲間に入る。
道元は中国に渡り、曹洞禅の極意に達したといわれている。心身脱落、脱落心身と無の境地になり、所謂悟ったと捉えることが出来る。しかし、道元はいくら悟りの境地のようなものを得ても、「眼横鼻直」(がんのうびちょく)と言って、目は横、鼻は縦についている、当たり前のことが分かったと言っている。道元が永平寺で生活するようになってからも、「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪降りてすずしかりけり」と歌われている。当たり前の自然を感じ、それに応じた生活を送ることが仏教の本質であると教えている。それに、道元は一切の奇跡を信じていない。キリスト教で言う、海が割れて渡れるようになるとか、1匹のイワシが何十万匹になり、多くの人を潤せたなんでいうような奇跡を一切道元は述べていない。そのような道元の思想を宗教とするなら、木庵も宗教の世界にいるということになる。
同じ禅の修行をしても、道元のようにありのままの世界を受け入れる人と、どこか奇跡のようなもの、夢物語のようなものを信じる人がいる。禅は人なりというのはこういうところからきている。人間の理性は限りがある。かつてオウム真理教の信者の中に高学歴の人が多くいた。いくら、大学、大学院で物理学、化学を勉強しても、奇跡や夢物語に弱いのである。また宗教を求めるような人は、赤子のような純真な心を持っている人が多い。だから、奇跡や夢物語に簡単に引っ掛かるのである。
木庵の信じる禅は、ありのままを受け入れることは最終段階で、最初は疑い、疑い尽すのである。「小疑に小悟、大疑に大悟」と言われるように、大きな疑いには大きな悟りが待っているのである。さらに、悟りさえ疑うのである。木庵の考えでは、悟りさえないのである。ではなぜ、悟りの世界に到達できないのに修行をするのであろうか。乃木希典や児玉源太郎の禅の師匠であった南天棒は喝をいれている。「道(い)いうるも南天棒、道(い)えざるも南天棒」と。つまり、「道が分かりました」と言うと、「そんなに簡単に分かるはずがない、でなおしてこい」。「道が分かりません」と言うと、「どうした、分かるように修行してこい」と。この意味するところは、「本当の真理というのはあるかどうかは分からないが、どこまでもそれに向かって修行をする」ことが大事である。「真理の探究には、限りがない」のである。真理の探究の過程で、「これだ。これが真理だ、悟りだ」と思うときがある。それは間違いなく「幻想」であり、「間違いの悟り」である。だから、死ぬまで真理を求めることが大事である。真理を求める過程には、思考停止などないのである。また、禅では「釈迦に会っては、釈迦を殺し、達磨に会えば、達磨を殺す」というのがある。それは真理追及の過程で、権威を信じてしまう危険性があるということである。
いくら科学のある分野の権威と言われる人、前回で書いた村上和雄氏のような人が言ったサムシング・グレートを、「そのようなものがある」と思ってしまう人は、村上氏という権威に溺れてしまっているのである。また、村上氏も南天棒のようにどこまでも真理を追究するのではなく、サムシング・グレートという曖昧な言葉の中に逃げているのである。つまり、思考を発展していない、思考停止に陥っているのである。
つづく


ブログを始めた頃の記事                          
中国帰還者連合 

近頃分かったことであるが、中国帰還者連合(中帰連)という組織(1957年9月24日に結成)(2002年、全国組織としては解散。しかし、「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」へ事業が継承)がある。

ウィッキペディアの記事を参考にすると、中国帰還者連合(中帰連)は以下のようにまとめることが出来る。

戦後中国に捕まった日本軍戦犯は二つに分類される。一つはソ連に抑留後、1950(昭和25)年に中国に引き渡された人たち。もう一つは、降伏した日本軍の一部が山西省に残留した第1軍関係者を中心にした人たちであった。
 
前者の969人は「撫順戦犯管理所」に、後者の140人は「太原戦犯管理所」 という「監獄」に収容された。収容者のほとんどは、1956(昭和31)年に帰国(起訴免除)している。短い人で中国に6年間、ソ連に5年間、あわせて約11年間の収容所生活を余儀なくされたのである。

撫順戦犯管理所に収容された人のなかに愛新覚羅溥儀、張景恵、古海忠之などもいる。太原戦犯管理所には、戦争終結後、中国国民党軍に加わり中国共産党軍と戦った者などが収容された。

中国共産党政府の設置した戦犯管理所ではシベリア抑留とは異なり、栄養豊富な食事、病人や怪我人への手厚い看護、衛生的・文化的生活が戦犯容疑者たちに保障された。しかし一方、戦争中、「日本による数多くの非人道的な犯罪行為を目にし、加担し、実行した」とされた戦犯容疑者たちは、それまでの自分たちの行為を「反省」し、罪を「自主的に」告白する認罪運動を、長期間にわたって課された。

1956年4月、「中国に侵略した日本軍の処分に関する全国人民代表大会常務委員会の決定」に基づき、1956年6月から7月の間に、山西省太原市と遼寧省瀋陽市で開かれた特別軍事法廷で、重要戦犯容疑者の45人の裁判が行われた。それ以外の容疑者たちは管理所内の臨時法廷で「起訴免除、即時釈放」の判決を受けた。

1957年、中国共産党により「罪」を許され帰国した元戦犯容疑者たちの一部は中国帰還者連絡会を創立し、「反戦平和運動」、「日中友好運動」を展開した。特に、自らが戦争ないし戦地で行ってきたことを証言することで、戦争の愚かさを明らかにすることをその運動の核としてきた。

1966年、日中友好協会が分裂したことを機に、中国帰還者連絡会もまた分裂し、運動は低迷したが、1986年には統一大会を開催し、中国帰還者連絡会は再度統一した。

と、ウィッキペディアでは当たり障りのないことが書いてあるが、もっと深く考えると、この組織はただ単なる平和主義運動家の集まりではない。シベリヤや中国での悲惨な目に遭った人たちであったということから、彼らが語る平和の言葉は重く尊いと簡単に考えてしまう。とんだ落とし穴に嵌ってしまうのである。シベリアの元日本軍の抑留には共産主義への洗脳という目的があったが、主にシベリア開発の労働力として使われたのである。それに対して、中国での抑留は明かに、中国政府の国策が絡む、洗脳活動であった。

新中国は建国、発展のために大義名分が必要であった。それは日本軍によって虐げられた庶民を中国共産党が救ったという嘘の歴史を捏造することであった。日本軍は実際の戦いで共産党軍とほとん戦っていない。国民党軍と戦ったのである。国民党軍は米英の援助は受けているが、弱い軍隊であった。敗走に敗走を繰り返す、いつも逃げてばかりの軍隊であった。ただ、逃げるときに「三光作戦」といって、「殺光」(殺しつくす) 「焼光」(焼きつくす) 「搶光」(略光、奪光ともいう)(奪いつくす)を行ったのである。

ところが、新中国は国民党の行ったこの 「三光作戦」を日本軍がしたと、新中国に捕虜として監禁した元日本軍将兵に語らせようとしたのである。やってもいないことをやったと無理に言わせるのであるが、このあたりがとても巧妙なのである。

ウィッキペディアに書かれているように食事は十分に与えたうえでの、表向きは自主的に告白したということにしているが、実体は生死をチラつかせた「洗 脳」活動であったのである。

洗脳に際して「二つの態度と二つの道」が強調された。「罪を認めれば寛大な処置が受けられ、罪を認めなければ厳しい処置を受けなければならない」というものであった。

しかも「下を落としてから上へ」。つまり「低い階級を先にして、上位者は後に」という取調べの原則があった。下位者に対しては、「上官の命令によってやったのだから、お前の罪は軽い(お前には罪はない)」とすれば「自白」がしやすくなることを考えてのことであった。

そして、芋づる式に上位者に対してはもちろん、同僚に対する追及を行っていった。また、「グループ犯罪」 とすれば、自白もしやすいと当局は策謀した。

 抑留者は17~18人が1組になって小部屋で生活した。部屋ごとに「学習組長」「生活組長」が各1名選出された。このような組織をつくり、共産主義教育をさせ、肝心の自白にもっていく雰囲気を作ったのである。

収容者の多くは死刑になるのを恐れて、自分の意志とは関係なく罪状を具体的に述べている。そして、1956年に釈放され帰国することになった。2年から3年の学習と認罪教育を経て、80パーセント以上の尉官級以下の日本人戦犯は、2980項の罪行を告白し、637件の摘発資料を書き出したのである。勿論これらは「731部隊のコレラ作戦」とか「南京事件」として中国政府によってその後重大資料として使われるようになった。

はやくもその成果が現れたのは。1951(昭和26)年2月、「松川事件」であった。 東北本線・松川駅付近で起きた死者3人を伴う列車転覆事件に対して、〔20人の進歩的労働者を迫害した」 として中帰連メンバー7名連名で日本政府に抗議文を送っている。勿論7人に与えられた松川事件にかかわる情報は、中国側の一方的情報によることは間違いない。

それ以上に最悪に展開するのは、朝日やNHK、それに進歩的知識人が、 中帰連が言ったことを鵜呑みにして報道したり書いたりするようになったのである。

実際に三光作戦を日本軍がしたと書いてある本が出版されている。

『「三光作戦」とは何だったか―中国人の見た日本の戦争 』(岩波ブックレット) 単行本 – 1995/7/20である。この本の宣伝文には、以下のことが書かれている。

広範な地域での「無人区化政策」,殺しつくし(殺光)焼きつくし(焼光)奪いつくす(搶光)「三光政策」の展開.日本軍の中国侵略を語る上でそれらの事実は見逃せない.著者は現地を再訪問し,人々の苦難を検証する。

『三光作戦』を日本軍が行ったと信じている日本の人が意外に多くいるようである。
つづく


写真:南天棒
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