訪日(第162回You Tube(神話) 、ブログを始めた頃の記事)(#15)
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You Tubeを立ち上げた
対談に参加したい人は、
⓵ 木庵のメールアドレスをクリックする。

メールアドレス:takaonaito03@gmail.com
⓶ どのようなトピックス、日時などを木庵と話し合う。
⓷ 実際にズーム上で対話をおこなう(自動的に録画できるようになっている)。
⓸ ズームで録画したものを、You Tubeに移動(木庵の作業)
⑤ 出来上がったYou Tubeのアドレスをブログに掲載。
⓺ You Tubeのアドレスをクリックすると、誰でも対話の様子が見れる。

*顔を隠したい人、仮の名前でもよい(勿論木庵の顔はだす)。

*二人以上もできるが、40分でズームは切れる(延長する場合は、再開する必要あり)。

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木庵のZoomミーティングに実際に参加する場合:
下のURLをクリックする。

https://us04web.zoom.us/j/5582589118?pwd=b0xsUHBQM2NYb0NNVFdYK3JSY2daUT09

ミーティングID: 558 258 9118
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*URLをクリックするだけで、ミーティングルームに入れる(ミーティングID、 パスコードの入力は必要ないよう)。
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木庵の般若心経(3回目)
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第162回You Tube(神話)
千葉県ホームページより
さらに室町時代になると、関東では、鎌倉公方と室町幕府との対立が激化、関東管領の上杉氏(藤原勧修寺家流)も加わった争いが相次ぎ、長い戦乱が続いた。現在の県域も巻き込まれ、荒廃した。この一連の戦いは、関東管領・鎌倉公方(古河公方)を始め、関東の諸氏の勢力を衰えさせた。千葉氏も例外ではなく、康正元年(1455年)の享徳の乱の際には、一族の重鎮である馬加康胤を擁した重臣原胤房によって千葉氏宗家が滅ぼされるなど、戦国時代には大きく勢力が衰退していた。この状況に乗じ、戦国時代になると小田原の後北条氏が関東各地を次々と支配下に置き、台頭してきた。千葉氏は、北条氏に従属し、安房を本拠とする里見氏との戦い(国府台合戦など)や、反北条を掲げる上杉謙信による越後国(現在の新潟県)からの関東遠征に巻き込まれていく。
上総国では、上総武田氏が台頭、古河公方の分家筋である足利義明を小弓公方として擁立して勢力の拡大を目指した。

安房国では、永享12年(1440年)の結城合戦に破れ、安房に上陸した里見義実が領主だった安西氏を追放し台頭する。里見氏は、戦国時代になると後北条氏と房総の覇権を争うことになる(里見氏の結城合戦後の詳細は不明で諸説有)。


安土桃山時代から江戸時代まで
天正3年 (1575年)、後北条氏が上総国に侵攻した。
天正18年(1590年)、第31代当主千葉重胤の時に豊臣秀吉の小田原征伐で敗れた後北条氏が没落すると、千葉氏も所領を没収され、戦国大名としての千葉家は断絶してしまった。一方、里見氏も房総半島南部一帯に勢力を伸ばしていたが、小田原征伐の際の軍事行動が私的な戦闘行為とみなされて安房一国に削減された。

下総・上総を含む後北条氏の旧領には、徳川家康が駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5か国から移封されたことにより、房総の大部分がその支配下に入る。上総・下総には、常陸佐竹氏と安房里見氏を警戒して、本多忠勝を始めとする徳川家の譜代家臣団が配置されるも、里見家は存続し、引き続き安房を領有する。だが、江戸時代初めに起きた大久保忠隣失脚の余波を受けて改易、その後断に絶することになる。

江戸時代の江戸周辺の牧と主な街道
江戸幕府が開かれると、徳川家康が鷹狩りなどのため船橋、御茶屋、東金などに御殿を建造し、御成街道も整備された。江戸に近いことから、有力な大名家は置かれず、小大名領と旗本知行地、天領に細かく分割された。房総で最も大きな大名は、下総佐倉藩(11万石)で、幕末には、藩主だった堀田正睦が老中としてアメリカとの交渉役を務めた。また、下総関宿藩も著名である。この藩は佐倉藩に次ぐ規模で、幕末には、藩主の久世広周が同じく老中を務め、公武合体政策などを推し進めた。下総国には、他に小栗原藩、高岡藩、小見川藩、多古藩、生実藩が、上総国には鶴牧藩、請西藩、飯野藩、一宮藩、佐貫藩、久留里藩、大多喜藩が、安房国には勝山藩、船形藩、館山藩がそれぞれ置かれた。また、明治維新時の徳川家達の静岡藩への移封に伴い、静岡藩に編入された駿河・遠江両国にあった藩が代替地として与えられたこの地に移封して成立した藩があり、廃藩置県まで続いていく。

江戸時代前期には、房総最大の百姓一揆が佐倉藩で起こり、この時に一揆の指導にあたった佐倉惣五郎は、重税に苦しむ百姓を救おうとした「義民」として芝居や歌舞伎の演目に描かれ、庶民の尊敬を集めた。しかし、小規模な領主が多かったこの地域では例外を除き、殆どの地域の場合、このような大きな一揆が起きるのは稀で、多くの場合、税率も平均的な天領並みか少し高いくらいで恵まれた地域であった。
江戸時代を通じて、県域各地は、幕政改革の影響を強く受け、印旛沼治水工事や椿海干拓などの大規模な土木事業や新田開発が盛んに行われた。また、風土や立地に恵められていたことから、薬草や農産物などの栽培所が設置され、試験栽培などが行われた。有名な話としては、享保の大飢饉対策のため、サツマイモ栽培を関東で広めるために、下総国の馬加村(現:千葉市花見川区幕張町)、上総国の九十九里浜の不動堂村(現:九十九里町)において試験栽培が実施され、享保20年(1735年)関東地方でも栽培が可能であることを確認。これ以後、サツマイモが関東一円に広がるきっかけを作ったことは有名である。なお、下総薬園台(現:船橋市)では、朝鮮人参や黄蓮の栽培も試みられている。

また、房総は江戸に近く、軍馬の養成に適した平地が多かったことから、旧官牧地を利用した3つの幕府直轄牧(小金牧・佐倉牧・嶺岡牧)が設置されていた。その牧の風景や様子は、旅人には珍しかったようで、房総名所に数えられ、松尾芭蕉や小林一茶、歌川広重などの作品や紀行文にも登場する。なお、嶺岡牧では、徳川吉宗時代にインド産の白牛を放牧・繁殖、白牛酪(バター)などが日本で初めて生産された。

江戸時代中期になると江戸で人気を馳せた歌舞伎役者の市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居が打ったことなどから成田参詣と呼ばれる個人参詣運動が盛んになり、江戸から成田を結ぶ佐倉街道は人々で賑わい、街道や水運なども整備され、宿場町や間の宿が形成された。

江戸時代初期の利根川東遷事業で河川舟運の拠点となり栄えた佐原は”北総の小江戸”、”水郷の町”と呼ばれ「お江戸見たけりゃ佐原へござれ、佐原本町江戸まさり」と唄われた商家町で、商業や醸造業が発展した。『大日本沿海輿地図』として結実する日本各地の測量に歩いた伊能忠敬は、佐原の商人出身である。


下総国と武蔵国との境界の変化
近世初期(天和3年(1683年)、また一説によれば寛永年間頃(元和8年(1622年) - 寛永20年(1643年))、下総国葛飾郡の一部、すなわち隅田川から利根川までの地域(現在の墨田区・江東区・葛飾区・江戸川区等)を武蔵国に編入、境界を改め武蔵国葛飾郡とした。


ブログを始めた頃の記事
自主防衛論#2
2011年04月26日(火) 18時56分08秒
<erasusさんのトラックバック。木庵のコメントは、<・・・元木庵>と新しくerasusさんのトラックバックに添える<・・・新木庵>と区別してもらいたい。新木庵>
 <2024年度に,新たに書いたものを<・・・・新新木庵>とする。

<リアリティの日本語の意味は現実ということになる。現実的な見方をする考えが現実主義となり、その反対が理想主義になる。理想主義とは実現しそうもない未来に夢を抱く考えである。元木庵>
 -非リアリストとは、
 о何も知らない者
 -とか、
 о何も知らされない者
 -とか、
 оつんぼ桟敷に置かれた者
 -とか、
 оつんぼ桟敷を是認する者
 -とか考えることが可能だ。われわれの20世紀中葉後に実用化された科学というものは、
 о19世紀末
 -から、
 о20世紀初頭
 -に実は完了していたものであった。われわれが戦後に学んだものは、
 о≪戦前≫の科学だった
 -のであった。科学は既に手に負えない程厖大であり、われわれは、
 о学ぶことに汲々としている
 -のが実相である。誰も科学の全貌というものを知らない。科学とは、
 о専門分化
 -によって、
 о狭い学問領域に矮小化
 -しなければ、われわれの手には負えなかった。こういう場合の人類お得意の手法は、
 о理想化
 -であった。リアリストであれば、
 о科学が(現代人類には)手に負えない
 -ということを認めなければならぬ。だから、
 о理想郷(ユートピア)
 -に逃げ込んだのだ。すなわち、
 о思考停止
 -である。そもそも学ぶということは、“思考停止”なのである。馬鹿ほど素直に学び、
 оよい大学院へも行ける
 -のである。これが懐疑の塊なら、
 оすべてを、わが手で検証する
 -ということが学問ということになってしまい、これも手に負えない。20世紀中葉後(戦後)の科学は、
 о多くの思い込み(知的省略)
 -に満ちている。まだ、赤ん坊のほうが、
 оなぜ?
 -と訊くだろう。現代の超高学歴者は、
 о知ったかぶり
 -はするが訊けないのである。これは、
 о科学的態度
 -や、
 о科学的方法(こつこつと積み上げる)
 -とは程遠い。要するに、
 о知的省略=信仰
 -なのである。

<新新木庵:木庵の身の回りに,知的省略=信仰に陥っている人がいる。知識量は凄いのだが、erasusさんの見解からすると、知的省略=信仰=思考停止に陥っているのである。このことを述べたerasusさんは天才であり、そのことを気づかない人は、ただの凡人である。新新木庵>

これを敷衍すると、
 о理想的状態は達成できるだろう
 -という科学的根拠のない、
<神話の解釈でも、理想的なことを述べる方がいる。その方も思考停止している。新新木庵>
 о理想主義に転落してしまう
 -のである。そもそも理論とは、
 оそうなるだろう
 -という机上の想像から発するのである。科学とは、
 о大勢の人類あってのもの
 -なのである。ひとりのマッドサイエンティストが、
 о何もかもやる
 -というほど、ちっぽけなものではないのである。要するに、総体の科学とは、
 о寄せ集め
 -なのである。だから科学の一分野の専門家というものは、
 о他分野(専門外)は知らない
 -で済ませている。専門家の専門外については、
 о門外漢
 -であり、
 о匹夫と同じ
 -なのである。その専門外について特定分野の専門家は、
 о理想主義
 -を振りかざし、すなわち、
 о思考停止(その他分野の専門家の言の受け売り)
 -を平気でやるのである。理想主義の理想とは、
 о空想
 -であり、すなわち、
 о空疎
 -であり、
 о空虚
 -なのである。理想は空虚で構わないわけだ。
<erasusさんの鋭い指摘である。彼の言うことを理解しない人は、理想主義、思考停止に陥っているかもしれないので、ご用心を。erasusさんが言われるように現代の科学の知識はあまりにも膨大であり、一人の人間では御しきれない。しかし、権威に我々は頼る習性がある。それは人間の弱さである。どの分野でも権威者が君臨している。確かに権威者は我々のレベルより高い知識を持っている。しかし彼らはその分野のことをすべて知っているわけではない。ただ知ったかぶりをしているだけである。そして理想主義という抜け穴に逃げて、大衆を惑わす。現実主義とはいつも懐疑を突きつけることで、懐疑の洞穴で前に進まなくなる。結局懐疑に疲れてしまい、何か安らぎのような世界を求める。それが理想主義の光であることをある程度意識しても、それに頼ってしまふ。そして、嘘でもよい理想主義者の唱える明るい光の前にひれ伏してしまうのである。そういうことからも理想主義が現実主義より優位にたつ図式がある。新木庵>
<前回書いた全共闘に心を寄せた人々は理想主義者になる。また真正保守と名乗る人も、理想主義者になる。それは観念の世界に夢を抱いているからである。元木庵>

 -木庵先生がおっしゃる『真正保守と名乗る人も、理想主義者になる』という真意が読めないが、
<定義の仕方の問題。真正保守を現実主義者としても良いが・・・。ここで言いたいのは「真性保守者」と「真正保守を名乗る人」とは違うということである。新木庵>
 
о『理想主義者』とは思考停止者である
 -ということと、真正保守主義者ならずとも、保守主義者とは、
 о墨守者ではない
 -ということから、保守主義者とは、
 о不断の思考者たるべし
 -とされるのである。保守主義者とは、実は、
 о非思考停止者
 -なのである。これは凡人には厳しい立場なのである。われわれの暮らす社会には、
 о変更してはならないもの
 -と、
 о変えなければならないもの
 -のふたつがある。この分別は容易ではない。そこに保守主義者の出番がある。

<現実とは、善い悪いとは別に存在する。この善悪を超えた現実から未来が少しでもよいようになる選択をしようとするのが現実主義である。しかし、この現実主義の選択は実は非常に難しい。元木庵>
 -『現実主義の選択が非常に難しい』のは事実である。『現実主義の選択が非常に難しい』のは、
 о『現実の選択が非常に難しい』
 -からである。『現実』とは、
 о政治
 -であり、
 оそれぞれの利害が異なる
 -からである。“政治”とは、
 о各人の利害の調整(者)
<見事な政治の定義である。新木庵>
 
-なのである。そこに政治哲学の存立基盤がある。その『現実』とは、
 о善悪
 -というレッテルを貼って思考停止できるようなものは少ない。善悪というのなら、
 о各人が善悪を含む
 -のであり、
 оまるごと悪人は居ない
 оまるごと善人は居ない
 -という現実がある。もし“まるごと悪人”が居たら、
 о刑務所へ放り込んで権利を剥奪すればよい
 -のである。そんな格好の落ち度を蒙る者は少ない。われわれは、
 оほどほどに悪人
 -であり、
 оほどほどに善人
 -である。
<善悪というレッテルを貼りたがるのが人間である。日常の会話でも「あの人はね・・・」と言っているが、そこにはそう言っている人間の主観、善悪が如実に現れている。そういう観点にたって友人との会話を分析できる人は、少しは現実主義者に近いと言えるだろう。新木庵>


写真:徳川家康
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