訪日(第162回You Tube(神話) 、ブログを始めた頃の記事)(#14)
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You Tubeを立ち上げた
対談に参加したい人は、
⓵ 木庵のメールアドレスをクリックする。

メールアドレス:takaonaito03@gmail.com
⓶ どのようなトピックス、日時などを木庵と話し合う。
⓷ 実際にズーム上で対話をおこなう(自動的に録画できるようになっている)。
⓸ ズームで録画したものを、You Tubeに移動(木庵の作業)
⑤ 出来上がったYou Tubeのアドレスをブログに掲載。
⓺ You Tubeのアドレスをクリックすると、誰でも対話の様子が見れる。

*顔を隠したい人、仮の名前でもよい(勿論木庵の顔はだす)。

*二人以上もできるが、40分でズームは切れる(延長する場合は、再開する必要あり)。

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木庵のZoomミーティングに実際に参加する場合:
下のURLをクリックする。

https://us04web.zoom.us/j/5582589118?pwd=b0xsUHBQM2NYb0NNVFdYK3JSY2daUT09

ミーティングID: 558 258 9118
パスコード: 2BaZGd

*URLをクリックするだけで、ミーティングルームに入れる(ミーティングID、 パスコードの入力は必要ないよう)。
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木庵の般若心経(3回目)
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第162回You Tube(神話)
日蓮

千葉といえば、日蓮さんが生まれたところである。千葉は日蓮さんのゆかりの地ということもあって、500以上の日蓮宗寺院がある。次いで多いのは、東京か山梨だそうだ。

鎌倉時代において、禅宗、浄土宗(浄土真宗)と並んで、日蓮宗は大きな役割を演じた。日蓮宗は木庵にとって門外漢であるが、歴史を勉強するのに、避けては通れない。

門外漢の木庵が日蓮宗とはどういう宗教かを書いてみる。よく知らないので、他人の書いたものを継ぎ足して、木庵の解釈のような書き方をする。

釈迦がなくなり、多くの弟子たちが、釈迦の教えを後世に残すため経典を編纂した。その中で何が最も大切かとなり、色々な宗派が生まれた。なかでも法華経が一番釈迦の教えを伝えているとう考え方が有力になった。

法華経は、美しい比喩や説話が多く、源氏物語や宮沢賢治などの文学や絵師・芸術家の世界にも影響をもたらしている。教えの中で一番大事なのは、「誰もが仏になれる」という考え方である。そして、「法華経に勝るお経は他にない」と説いている。

また動植物も大地も全ての生き物に「仏の心」があるとも説いている。その全ての仏さまに感謝し、手を合わせるのが「南無妙法蓮華経」である。
これは究極の真理・妙法についての教え、華とは泥水に生えながら泥に染まらない美しい花・白蓮華から名付けられた。

法華経は、紀元前にインドで広まり、その経典が中国に伝わり、僧侶・鳩摩羅什が「妙法蓮華経」と訳した。

日本には聖徳太子の頃に伝わったとされる。中国・日本では、困難な時代に人々を救うバイブル的な存在として古来から宗派に関わらず読まれ続けている。

法華経を国内で初めて研究したのは延暦寺の天台宗である。鎌倉時代には法華経は重要な役割を果たし、学僧だった日蓮・道元・親鸞・法然も影響を受け、室町時代には京都の7割以上の庶民が信仰するようになったという。

その中でも日蓮は法華経の教えを流布したことで有名である。日蓮は現在の千葉県鴨川市に漁師の子として生まれた。飢饉や伝染病・自然災害や紛争などで混迷する鎌倉時代に「立正安国論」を著し、幕府最高権威・北条時頼に献上した。
法華経の精神こそ真実があり、国を救うにはこれしかないと考え、多くの困難にぶつかりながらも強い信念で日本に広めた。

日蓮は、16歳で天台宗清澄寺に出家、そこで4年間修行している。32歳までの10数年の間は比叡山や薬師寺・高野山などで勉学に励んだ後、混迷した世の中には、お釈迦さまのお経こそ人々を救うと確信するに至る。
初めて「法華経を心の拠り所にする」という「南無妙法蓮華経」を唱え、この時から「日蓮」と名乗るようになった。

「今を生きる」ことの大切さを説き、法華経への信仰に生涯を捧げた。
身延山で多くの弟子・信者と共に、日夜法華経の講義や唱題修行に精進され、61歳で生涯を終えいる。

現在では法華宗は全国に5000の寺院を有し、世界中にも広がっている。

木庵にとって、一番日蓮宗に興味があるのは、日蓮宗の信者に石原莞爾や北一輝などの軍人や右翼思想家が多いことである。実際に南無阿弥陀仏と唱えるとの比較してみると、何妙法蓮華経と唱える方が力が出てくる。木庵が雲水の頃坐禅をしているとき、ただ無、無と心の中で言うのは退屈というか、眠気がでてくるので、何妙法蓮華経とよく唱えたものである。そうすると、なんだか心の内から力が出てきたことを思い出す。ところで、南無阿弥陀仏を唱える浄土宗や浄土真宗は他力で、日蓮宗は自力である。このあたりから、軍人や右翼思想家が日蓮宗に傾倒した理由が分かる気がする。


ウィキペディアの記事(国柱会)
国柱会(こくちゅうかい 旧字体:國柱󠄁會)は、元日蓮宗僧侶・田中智学によって創設された法華宗系在家仏教団体。純正日蓮主義を奉じる。戦前の右翼に大きな影響を与えた。

名称と標語
国柱会の名称は、日蓮の三大請願の一つ「我日本の柱とならん」から智学によって命名された。独立した宗派としての正式名称は「本化妙宗」。 また、智学の造語であり、戦前日本では国家主義のスローガンとして多用された「八紘一宇」を最初に標榜したのは国柱会であった。「日蓮主義」という表現も、国柱会によって初めて使われた。「主義」という概念が、明治以降に流入した西洋哲学に由来するものであり、後述のように日蓮主義という概念は、日蓮教学の近代的体系化の一端を表している。

思想・信仰
国柱会の根本の理念は、寺檀制度によって形骸化した伝統宗門の改革と近代化を在家主義の立場から目指すものである。

教学における国柱会の功績は、現在でも「師子王文庫」や「真世界社」などに引き継がれている。分派した各法華宗・日蓮宗宗派の統一、更には法華一乗のもと全宗派、全宗教の統一(一天四海皆帰妙法)のための宗教革命、ならびに皇祖皇宗の日本国体を法華経のもとに体系化することを究極の目標としている。

更には、智学の思想による「全国の神社に祀られる主神はすべて皇祖神に統一されるべき」という主張や、法要時の礼服、祭壇の祀り方、数珠を一切用いない、など神道的な要素を強く残しており、法華神道の団体としての色彩も強い。

なお、本化妙宗としての信仰は、釈尊を教祖、日蓮を宗祖と仰ぎ、本尊は日蓮大聖人の「佐渡始顕の妙法曼荼羅」としている。


歴史
智学が日蓮宗の宗義に疑問をいだき、還俗して最初に設立したのが「蓮華会」という組織である。1880年(明治13年)、横浜において結成され、国柱会のさきがけとなった。その後、東京進出にともない1884年(明治17年)に名称を「立正安国会」に改名。「宗教ヲ以テ経国ノ根本事業トスベシ」と宣言し、在家主義の立場から仏教の近代化を目指した。

1902年(明治35年)、日蓮仏教の教学を組織体系化した「本化妙宗式目」を発表し、1903年(明治36年)より大阪などで日蓮門下各教団の僧侶を集めて本化妙宗研究大会を開催。智学はその中でも神武天皇御陵前での講演「皇宗の建国と本化の大教」において、日蓮仏教の国教化を目指す王仏冥合思想を宣言した。


国柱会へ改称以降
1914年(大正3年)、名称を現在の「国柱会」に改称。1922年(大正11年)には芸術を通しての教化活動と銘打って外郭団体「国性文芸会」が組織され、日本国体に基づく独自の「国性芸術」を展開した。

1923年(大正12年)には議会政治に参画する目的で「立憲養正会」が結成され、国立戒壇建立を主張、天皇の法華経帰依による広宣流布、宗教革命を目指した。1929年(昭和4年)には智学の次男・田中澤二が総裁に就任。澤二は前年の第16回衆議院議員総選挙に立候補し落選、澤二の議席獲得はならなかった。しかし1936年(昭和11年)の第19回衆議院議員総選挙に同会公認で立候補し落選した田中耕が同年繰り上げ当選し、初めて帝国議会に議席を獲得した。田中耕は1937年(昭和12年)の第20回衆議院議員総選挙にも立候補し再選。地方議会や農会には最盛期で100人を超す議員が所属した。同会は新体制運動や大政翼賛会には批判的であったため、1942年3月17日結社不許可処分を受け、解散に追い込まれた。

1926年(大正15年)には明治節制定の請願運動を契機に外郭団体「明治会」が創設され、愛国主義運動を宣揚、1927年(昭和2年)に請願が実り明治節が制定された。

また、著名な会員であった帝国陸軍・石原莞爾中将の「東亜連盟」構想や「世界最終戦論」、更には石原が参謀であった満州国建国の思想的バックボーンとして、国柱会の思想は多大な影響を及ぼした。特に満州国には皇軍慰安隊を国柱会より派遣し、関東軍軍人を支援している。この時期が国柱会の歴史上もっとも活況だった時代であり、日蓮系諸教団の中でもエリート主義集団と目されるほど、有数な著名人が会員であったことで知られる。


ブログを始めた頃の記事
・ 「人格否定」発言

平成16年5月10日、皇太子殿下が記者会見で、雅子妃の「キャリアと人格を否定するような動きがあった」と挑発的ともとれるようなご発言をなされた。
雅子妃の「キャリアと人格を否定する動き」への皇太子殿下の強い抗議は、ヨーロッパの王族の自由度の広い生活を比較の視野に入れてのことであったろ


保守分裂の要因#1
<知人より、「保守はなぜ分裂するのか」について少し話してくれという要望があった。ここでその理由について、木庵なりの考察をおこなってみる。私は2年前ブログを立ち上げたあと、保守とは何か、それに私は保守としてどのような位置にあるのかを確かめる作業を行ってきた。まず、最初に私が保守の定義について嘗て書いたものを紹介する。木庵>

保守は反動ではない。反動とは現体制を盲目的に維持しようとするもので、保守の本流の考えではない。保守とは先祖が残してくれた、国土、文化、伝統、歴史を尊重し、それらが時代に即応して発展することを願う考えである。先祖が素晴しい文化遺産を残してくれたように、現代に生きる我々が後世に誇れるものを作り上げる。つまり、「保守は歴史の継続性を肯定し、未来を築くための努力を惜しまないエネルギーを内臓している」。
∧歇蕕漏很燭箜弯靴箸蝋佑┐魄曚砲垢襦F辰乏很燭箸牢袷瓦紡亢砲飽銘屬垢襦なぜなら、革命とは歴史を否定する考えだからだ。革新が過去の英知を参考にしながら改革していくという要素があれば、保守の未来志向型の考え方と袂を同じくする。しかし、一般的な革新とは、歴史の縦の糸を切ろうとするので、保守と革新とは違う。
J歇蕕茲蝓革新、革命が歴史を動かすエネルギーが強かったように思える。例えば、1918年に人類史上初めて誕生した革命思想・共産主義は、世界に強烈な地震波を送りこんだ。また、それを阻止しようとした、反共勢力・ナチスや日本の国粋的軍国主義も、歴史の継続性を否定した革命思想であった。
こ弯靴旅佑┐藁鮖砲鯣歡蠅靴茲Δ垢襦その意味で革新は革命と度合いの違いはあるが、同じ方向性をもっている。
ナ歇蕕髪ν磴楼磴Αただ、このことを議論すると、複雑になるので、これ以上述べない。
Νで述べたように、保守は歴史上、革命、革新に比べ、影が薄かった。その理由は、歴史の縦の糸を裁断する革命や革新の方が、自由で未来へ飛躍するエネルギーが大であるからだ。 保守が現状を変えようとしても、過去の因習やしがらみに縛られ、未来を大胆に開拓できないという要素がある。
Г箸海蹐、近頃、「自分は保守である」と、堂々と言える時代になった。それは、ソビエトの崩壊以降、共産主義という革命思想への幻想が取り除かれたからだ。

<戦後、保守と自認する人の間で対立、分裂がある。八百万の神文化の多様性から説明できそうだが、そのような抽象論ではなく、具体的な保守の論点の対立点を浮き彫りにして、何が保守本流かを論じる。

先ず保守というと、大東亜戦争に対する論点に大きな違いがある。林房雄に代表される大東亜戦争肯定論から、戦争反省論、戦争忌避論、戦争反対論がある。中国、韓国、アメリカに阿(おもね)る自虐史観は論外であるが、戦争に負けたということは戦勝国の歴史観を植えつけられたことをまず考慮に入れなければならない。いくら日本を基点にした保守論を展開しようとしても、戦後のGHQの行った巧妙な言論統制、言論弾圧によって、戦後の保守の大東亜戦争観は大きく揺らいだ。本来戦争に突入して行ったのは自衛のためのものであり、侵略性はなかった。そのことをマッカーサーの米国議会証言でも明らかとなった。大きな歴史の流れのなかで説明するなら、西洋諸国の植民地争奪戦がアジアで行われ、それに果敢に挑んだのがアジアの中で日本だけであった。その日本をヨーロッパ諸国が中国をも巻き込んで阻止しようとしたのが大東亜戦争であった。勿論日本は日本の国益のために動いたが、その中に大東亜共栄という目標があった。日本の国益を達成するためにはアジア諸国との調和が必須であった。日本は西洋諸国とも共存の道も模索したが、日本がアジアにおける権益の増大に危険を感じた西洋諸国、特にアメリカが日本の封じ込みを図り、ABCDラインによって日本は近代国家として生存することさえできなくなり、戦争に踏み切った。これは厳然たる事実である。そうだとすると、保守本流は大東亜戦争を自衛の戦争と肯定することが論点になる。ただ、日本がドイツやイタリヤと組したことがまずかったという議論がある。この議論には保守本流の中でも微妙な色合いが違う。ドイツに組することが悪かったというのは結果論で、戦勝国の論理であろう。ドイツと組まず、アメリカやイギリスと組する国策はあったはずである。ところが、ドイツを選んだ方がよかったかアメリカやイギリスを選んだ方がよかったか、ただそれだけでどちらが保守本流であることを決定はできない。ただソ連を選ぶというのは間違いなく保守本流から外れている。保守本流と言っても政治的な流れの中での色々な選択があってよいのであり、歴史の結果からどちらが本流であると判断するのは愚かなことである。この議論の延長線上にあるのだが、日本が北進を選ばず、南進したことに対する判断を云々する議論である。北進を選び、ドイツとの間でソ連を挟み撃ちにすべきであったというのは、これも結果論であるが、やっていれば巧妙で効率的な作戦であったと思う。当時の保守の力量と当時の世界情勢をどう見るかによって考え方が違ってくる。現代の視点から見ればソ連を挟み撃ちにしておけば、この段階でソ連共産主義の脅威を阻止できたことになる。しかし、そう簡単なことではなかった。当時不可思議なことに、ソ連とアメリカ、イギリスが同盟を結ぶという構図があった。まだ自由主義と共産主義の対立という構図ができていなかったのである。当時はファシズムと反ファシズムという構図であり、ドイツ、イタリア、日本はファシズムと捉えられていたのである。だから北進をとろうが南進をとろうがどちらも保守本流を判断する材料ではなかったと思いたいところだが、木庵は南進を選んだ当時の保守は本物ではなかったと判断する。たとえ南進によって石油などの資源確保というメリットがあったとしても、南進を選ばせたのはソ連であり、そのためにゾルゲなどのスパイを日本に送り込み、ルーズベルトの側近にソ連スパイを忍び込ませた。それを見破られなかった保守を保守の本流と呼ぶことはできない。

次に天皇に対する捉え方の保守の色合いを考えよう。たとえ昭和憲法がGHQによって作られたとしても、天皇を象徴と捉えるのは正しい。明治憲法の細かいところは知らないが、「天皇は君臨すれど統治せず」であった。だとするとこれも象徴という解釈になる。例外はあるにせよ歴史上における天皇の性格は統治ではなく象徴であった。政治に参加するのではなく、日本国民を総括するシンボルの働きを演じてきたのが天皇である。天皇は国民の幸せを祈る存在であり、国民のある特定の政治的な、文化的な色合いに対して中立的な存在であった。だから伝統としての天皇は例外を除いて自分の意志を表明されなかった。戦後開かれた皇室ということで、国民の前によく姿を現されるが、そこに居ます天皇は政治的発言だけでなく、自分の好みさえ控えておられる。昭和天皇は相撲が好きであられたが、特定のひいきの力士の名前をあかされなかった。そのような無私の天皇であればこそ、国民全てが尊敬することができる。日本の天皇信仰には長い歴史がある。万世一系を天皇家が守ってきたことは日本の宝であり世界に誇れる。この厳然たる事実を真摯に受け止めることがまず保守として大事になる。しかし、近頃、天皇論に雑音が聞かれるようになった。一つは、女系天皇、男系天皇問題である。一時女系天皇でもよいのではないかという考え方が国民の中に広がった。雅子妃や紀子妃に男子がないことが大きな原因であったが、国民の皇室への無知が女系天皇説をよしとする論調になったと言える。紀子妃が男子誕生なされてから、世論も男系天皇に傾いていったようである。ここで女系天皇、男系天皇、女性天皇の違いを簡単に説明する。愛子様が誰かと結婚して、その子供が天皇になれば、その天皇は女系になり、万世一系の系図が途絶えることになる。愛子さんが天皇になるのは女性天皇ということで、中継ぎ的な存在として男系天皇の系図に違反していない。紀子様の男子親王が天皇になるのは、まさに男系である。紀子様が男子親王を生まれたので、男系の問題が一応解決したが、今後男系を維持し、また一夫一妻制を続けていくなら、戦前のように皇族の枠組みを広げる必要がある。保守本流としては男系天皇を継承していく観点に立たなければならない。それは長い歴史によって培われた日本の天皇信仰を継承させる智恵であるからだ。木庵>
つづく


写真:田中智学
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