訪日(第162回You Tube(神話) 、ブログを始めた頃の記事)(#13)
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You Tubeを立ち上げた
対談に参加したい人は、
⓵ 木庵のメールアドレスをクリックする。

メールアドレス:takaonaito03@gmail.com
⓶ どのようなトピックス、日時などを木庵と話し合う。
⓷ 実際にズーム上で対話をおこなう(自動的に録画できるようになっている)。
⓸ ズームで録画したものを、You Tubeに移動(木庵の作業)
⑤ 出来上がったYou Tubeのアドレスをブログに掲載。
⓺ You Tubeのアドレスをクリックすると、誰でも対話の様子が見れる。

*顔を隠したい人、仮の名前でもよい(勿論木庵の顔はだす)。

*二人以上もできるが、40分でズームは切れる(延長する場合は、再開する必要あり)。

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木庵のZoomミーティングに実際に参加する場合:
下のURLをクリックする。

https://us04web.zoom.us/j/5582589118?pwd=b0xsUHBQM2NYb0NNVFdYK3JSY2daUT09

ミーティングID: 558 258 9118
パスコード: 2BaZGd

*URLをクリックするだけで、ミーティングルームに入れる(ミーティングID、 パスコードの入力は必要ないよう)。
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木庵の般若心経(3回目)
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夏目さんのコメント
私が、筑波山の梅田開拓筵で神道の勉強をしてゐたころ、こんな歌を習ひました。

みそらにはあまつひ
みくにはにすめらみこと
おほかみおほかみ
御稜威(みいつ)かがやき貴し(たふとし)や

かって、お目出度い祝日に、父と、同世代のチェリストが、その日は良い天気であることを話してゐましたが、
「むかしなら、陛下の『大御稜威』で、といったものですな」などと話してゐたのを、思ひだします。

「すめらみこと」の語源は、中近東にあった「シュメール」なのだといふ一種の都市伝説も、最近では良く聞かれます。



マークさんからのメール
木庵さん、久しぶりです。お元気ですか。

最近日本へ行きましたね。 木庵さんの訪日記を面白く読んでいますよ。第7(悪人の木庵)まで読みましたが必ず最後まで読もうと思います。

ここまで特に興味深いところはセブンスデー・アドベンチストの家族の話、そして若者との出会いの話です。しかし訪日記はどこも面白いです。

ところで、僕の家族も最近日本へ行きましたよ。六人で(僕、ワイフ、長女と婿、次女と婿)東京と(少し)京都で旅行しました。東京では昔住んでいたところも見られて、昔友達になった人々も会えました。京都での忘れられない思い出は天龍寺で精進料理がおいしく食べられたということです。

それで、サイレントマジョリティ―の話を読んだら、内藤さんは4月1日に東京駅にいましたね。なんと我々もいたんです!午後一時頃駅のホームで成田への電車を待っていのです。逢えたらよかたのにね。

それでは、残りの訪日記を楽しみにしています。
マーク


木庵の反応
<マークさんとは、私が長年日本語を教えているアメリカ人の弁護士である。最近彼の都合でレッスンは休みになっているが、彼が私と同じ時期に日本にいたとは驚きである。日本に行く前に連絡していれば、どこかで会えたのに。4月1日午後1時、マークさんが東京駅ホームで待っていた頃は、杉本先生と東京駅の横にある大丸12階の京料理店で食事を終え、皇居の近くにあるスターバックに行くところか、着いた頃だと思う。奇遇である。東京駅で会おうと思えば会えたのに、残念であった。木庵>
 

第162回You Tube(神話) 
千葉県の飛鳥から平安時代まで(千葉県のホームページより)
平将門
岩屋古墳の北北西約1kmの場所には龍角寺跡がある。この寺院は、東日本最古(創建は640年代から7世紀の第3四半期頃と推定)の寺院として知られる。調査によると山田寺式の瓦が葺かれ、三重塔と金堂が東西に並んだ法起寺式の伽藍配置だったことがわかっており、同地の有力者がヤマト王権の豪族と結び仏教を広めようとしたのではないかと考えられている。また、寺院の北西には、龍角寺の瓦を生産した窯跡があり、「加刀利」などの文字が書かれた瓦が出土している。その文字瓦には「朝布」「赤加賀」「玉作」などの文字や絵模様が描かれた1800点程の種類がある。このことは、7世紀代の文字資料が少ないこともあり、旧来の「遅れた東国」というイメージが強かったが、関東での文字の使用が奈良時代以前に遡ることを証明する貴重な資料の一つと言われている。

大化の改新後、捄国は畿内に近い方が上総国、遠い方が下総国となり、さらに養老2年(718年)に上総国から安房国が分離して三国となった。なお、一時、安房国は再び上総国に編入されたが、天平宝字元年(757年)に再び分割された。地理的には北から順に下総、上総、安房となっているが、これは当時、東海道の正式なルートが相模国(現在の神奈川県)から安房国へ渡る舟を経由するのが主流であり、上総の方が畿内に近いとされていたためで、『日本書紀』には日本武尊の武勇伝でも上総国に上陸する場面が見られる。日本国内にあった68の各国は、国力等の政治・経済上の基準で大国(たいごく)から下国(げこく)の4等級に区分されていたが、上総国、下総国とも大国、安房国は中国と『延喜式』には記されている。また、上総国は大国の中でも親王が国司を務める3つの親王任国の一つとなっており、平高望、平良兼や菅原孝標がそうであったように、国府の実質的長官は上総介が握っていた。

安房・上総・下総の各国には、駅(駅家)が設置され、駅馬と伝馬が配備されていた。この三国が属した東海道は中路とされた。安房国には駅馬が白浜・川上各5頭が配備、上総国には駅馬が大前・藤潴(ふじぬま)・島穴・天羽の各郡に5頭、伝馬は海上・望陀・周淮・天羽の各郡に5頭、下総国には駅馬が井上10頭、浮嶋・河輪各5頭、茜津・於賦(おう)各10頭、伝馬が葛飾郡10頭、千葉・相馬の各郡5頭が配備されていた(『延喜式』)。

大宝元年(701年)には、国には国司をが政務をとる国庁と国府が設置された。上総国の国府は市原市、下総の国府は市川市国府台の地に、安房国府は安房郡三芳村府中に置かれた。安房国府の遺構は見つかっていない。郡には郡家が設置された。上総国海上郡家が市原市西野遺跡、下総国埴生郡家が栄町大原遺跡など発見されているが、その他の郡家跡は明確でない。また、田祖・正税を納める倉庫である郡家の正倉は、我孫子市日秀西遺跡が下総国相馬郡のものと想定されている。他方、国分寺(金光明四天王寺護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)については、上総は市原市、下総は市川市国分に所在し、安房はまだ不明である。

東国の武士の勇猛さは知れ渡っており、九州筑紫の防衛をする防人に東国出身の兵士が、充てられた。その上総・下総国出身の防人の歌が『万葉集』巻20に出ている。防人は難波津に集結し、海路で筑紫に向かった。難波までは食料自弁であった。筑紫では空き地が与えられ稲や雑穀を栽培して食料とした。

平安時代中期、平安京では、藤原氏が隆盛に向かう頃、県域では、中央から派遣された国司などの(任期期間が過ぎた)役人が土着し、在地領主や富豪農民などの新興勢力が誕生し始める。特に高望王の子孫である桓武平氏系の氏族が勢いを振るったが、平安時代の平将門、次いで平忠常が反乱を起こし、房総三国は一時「亡国」と言われるほど荒廃した。この時、朱雀天皇によって、平将門の乱平定のため、僧寛朝が派遣され、祈祷を行なったことが、後の成田山新勝寺の起源となる)。


鎌倉から戦国時代まで
源頼朝


千葉常胤
上総広常

この荒廃の中で台頭してきたのが、忠常の嫡流の子孫の千葉氏(上総氏も含む)である。千葉氏は下総国千葉荘を本拠とした豪族で、坂東八平氏・関東八屋形の一つに数えられる名門氏族として総州で栄えたといわれている。千葉氏系の氏族としては、相馬氏 、武石氏、大須賀氏、国分氏 、東氏、葛西氏、椎名氏、臼井氏、原氏、遠藤氏、円城寺氏、高城氏などの諸流がよく知られている。このうち、相馬氏と遠藤氏、高城氏は明治維新まで存続する。

しかし、千葉氏も平安時代までは、俗に言う私営田領主(地方領主)で、国司が交代する度に荘園の認定を得なければならなかった。そのため、平氏政権の影響が地方にも及ぶ頃には、下総国司だった藤原親通によって官物未進(租税滞納)を理由に相馬御厨や立花荘(東荘)が没収されるなど、困難な状況に追い込まれていた。千葉氏は、これらの荘園の回復のため、長期間奔走するが、懸命の努力にもかかわらず、源義朝を経て、藤原親盛(親通の子)から譲り受けたと主張し、介入してきた常陸の佐竹義宗に奪われるなど、平家方の親通が土着する過程で、被害を受ける在地領主の一人にしか過ぎなかった。そのような困難な状況を打開する転機となったのが、治承・寿永の乱を経ての鎌倉幕府創設への貢献だった。

治承4年(1180年)、石橋山の戦いに破れ、安房国へと落ち延びた源頼朝を、千葉氏を始めとする総州の諸侯(安西氏、和田氏、葛西氏など)が支援したことによって、わずか1か月で関東武士の恭順と結束を固め、鎌倉幕府を築くための原動力となったことは著名である。この功績によって千葉氏当主だった千葉常胤は、鎌倉幕府の重臣となり、鎌倉時代から室町時代にかけて、総州の支配者としての確固たる地位を築くと共に、奥羽(後の奥州千葉氏)・九州(後の九州千葉氏)にも所領が与えられ、一族の一部が移住、勢力が拡大する。

一方の上総氏は、頼朝の政権獲得の過程で、当主広常が謀殺され、領地も没収されてしまったため、以後の歴史書や系図で不当に扱われてきたという経緯がある。

鎌倉時代前期には、千葉氏(上総の千葉常秀を除き)は、畠山氏や三浦氏のように北条氏とは争わず、千葉常胤の嫡男太郎胤正が千葉宗家(千葉介家)、次郎師常が下総国相馬郡、三男胤盛が武石郷、四郎胤信が大須賀保、五郎胤通が国分郷、六郎胤頼が東庄を本拠とし、世に千葉六党と称され最盛期を迎える。鎌倉時代中期の蒙古来襲の際には、千葉氏も九州に所領を持っていたことから、当主の頼胤、宗胤がそれぞれ、文永の役、弘安の役に参加している。

しかし、同時期から千葉介の継承を巡り、千葉胤貞と千葉貞胤の間で、内紛が起こるようになり、元弘3年/正慶2年(1333年)に鎌倉幕府を打倒すると、対立は表面化、それぞれ、足利尊氏と新田義貞双方に属し、延元元年:南朝/建武3年:北朝(1336年)に胤貞が没するまで争いが繰り広げられた。また、正平20年:南朝/貞治4年:北朝(1365年)の氏胤没前後からは、貞治・応安の総論の展開による下総での国内問題や千葉家の筆頭家老の座を巡る原氏と円城寺氏の争いなど、千葉宗家・千葉六党・家臣(同族)間の対立や内紛が後も絶えずに起こる。


ブログを始めた頃の記事
「皇太子さまに敢えて御忠言申し上げます」(「WILL」5月号記事の要約)
・ 次元を異にした存在
良い学校を出てキャリアになるのを競争するのは近代社会における一般人の生き方の常道である。日本では明治以来、封建制度を毀して近代制度に取り替えていくのに学校教育、学歴という手段に大きく依存した。日本は革命を経験していない国だ。代わりに、良い学校を出ればどんな階級の子もエリートになれるという能力主義の公平感が明治以後この国を革命的に変えていった。然し皇室は平等の理念にも、競争の原理にも無関係で、次元を異にした存在であり続けた。当然である。皇室は自由や民主主義の尺度の外にある。

そのことは長い間ほとんど自明の話であり、誰一人疑問とする者はいなかった。ところがいつの間にか局面が変わっていた。天皇家の婚姻が学歴主義とクロスした。悲劇はここに胚胎している。雅子妃はハーバードと東大に関わっていて、学歴エリートを絵に描いたような優秀な人材であると言われ続けてきた。知らぬ間に戦前からの能力主義が皇室をめぐる垣根を埋めてしまっていた。深く考えないで、何でも「平等」が正しい、「個」が正しいでやってきた、日本国民の無思慮の結果である。一般社会のこの影響は天皇家に作用し続けたらしい。
平成5年6月9日、雅子様は天皇家に嫁いだ。私はたまたま受けていたインタビューの中で、ご成婚について次のような感想を述べた。


・ 能力主義が皇室にまで
「人と人の間に色んな複合的違いを際立たせる尺度があって、それが宿命として意識されている方が個人は幸せだし、社会は安定する。能力主義の行き着く先は不毛なんです。だけどついに能力主義は皇室にまで入ってしまったんですよ、こんど。これはまさに幸か不幸か、一つの大きな象徴的な出来事です。『効率と平等』の社会の最終帰結がついにきたんじゃないかと思うな(笑い)。効率主義が皇室にまで入ったという文明論的な意味づけと言うのを、われわれは今考える必要があると思いますね。皇室の幸せとは別個にして、そのことは国民的には僕はやっぱり不幸なことだと思いますよ。貴族階級のいない王制というのは世界史の過去に果たしてあったでしょうか。(「別冊宝島183『日本の教育改造案』」)

一つの尺度で社会が画一化されるのは社会にとって不幸だと言うのが私の考えの基本にあった。努力や意図ではどうしても動かせないし、そこに入れない別の秩序、目に見える形で厳として実在している非合理の壁、それが皇室である。私は一般社会の尺度を拒んでいる、理不尽さをさえ絶えず意識させるエリアの存在は、一般社会の画一化を防ぐためにも貴重なまでに有効であると考える。


・ 「人格否定」発言
平成16年5月10日、皇太子殿下が記者会見で、雅子妃の「キャリアと人格を否定するような動きがあった」と挑発的ともとれるようなご発言をなされた。例にないことだった。ご成婚から11年経っていた。ご成婚後10年余にして軋みが始まったのだということは誰の目にも分かった。原理を異にする二つの世界、近代を超越した理不尽なまでの伝統の世界と、個人の努力や意図が生きる近代の能力主義の世界とがぶつかったのだとみていい。

 私はこの時も関連の評論を書いている。ヨーロッパの王室とのとかくの比較に関わる誤解を先ず正そうとした。日本という一国をイギリス、オランダ、スエーデンといったヨーロッパの各国と一対一の対応として考えるのは当を得ていない。時に日本をヨーロッパ全体と対応させるという視点が必要であると常々考えている。
他方、ヨーロッパの王室は開かれているとよく言われる。王家同士が交流し、婚姻を結ぶ慣行はずっと昔からあった。王族には民族主義も愛国心もなく、独自の自由があるかに見えた。現在でも婚姻の歴史は国境を越えて交差しているし、自由度の幅も広い。

 雅子妃の「キャリアと人格を否定する動き」への皇太子殿下の強い抗議は、ヨーロッパの王族の自由度の広い生活を比較の視野に入れてのことであったろう。しかし、困ったことに、ここには錯覚がある。妃殿下が日本の皇室をヨーロッパの王家と同じようなものだと想像して天皇家に嫁がれたとしても・・・多分そうなのだろう・・・希望表明されている「皇室外交」は願望に止まり、日本では考えられない。ヨーロッパだって、王家に格別の外交を期待している国はない。「王室外交」なんてシリアスな意味では存在しない。ただいかにも賑やかな「社交」があり、それが日本から見て自由度たっぷりした、抑圧のない、開かれた、明るい世界に見えるだけであろう。
つづく


写真:平将門
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