訪日(第162回You Tube(神話) 、ブログを始めた頃の記事)(#12)
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You Tubeを立ち上げた
対談に参加したい人は、
⓵ 木庵のメールアドレスをクリックする。

メールアドレス:takaonaito03@gmail.com
⓶ どのようなトピックス、日時などを木庵と話し合う。
⓷ 実際にズーム上で対話をおこなう(自動的に録画できるようになっている)。
⓸ ズームで録画したものを、You Tubeに移動(木庵の作業)
⑤ 出来上がったYou Tubeのアドレスをブログに掲載。
⓺ You Tubeのアドレスをクリックすると、誰でも対話の様子が見れる。

*顔を隠したい人、仮の名前でもよい(勿論木庵の顔はだす)。

*二人以上もできるが、40分でズームは切れる(延長する場合は、再開する必要あり)。

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木庵のZoomミーティングに実際に参加する場合:
下のURLをクリックする。

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*URLをクリックするだけで、ミーティングルームに入れる(ミーティングID、 パスコードの入力は必要ないよう)。
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木庵の般若心経(3回目)
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夏目さんのコメント
木更津の語源は、ヤマトタケルの命が、愛妻のオトタチバナヒメを入水で無くして、その岸に来て、そして哀しみの余りそこから去らなかったので、き+さらず=木更津であると追ってもゐました。また東(アヅマ)は吾妻(吾が妻)が語源だと、これは大分前に知りました。これらのことは、日本人が忘れてしまふ前に、歴史として再興する必要がありますね。


第162回You Tube (神話)
<千葉県ホームページには書いていない。恐らく東北大名誉教授田中英道氏の研究がまだ歴史学会では評価されていないからであろう。後10年もすれば千葉県ホームページに、田中氏の研究成果が発表されるであろう。木庵>

芝山古墳の秘密
写真の「人物埴輪」は千葉県の芝山古墳から多く出土している。6世紀から7世紀にかけて造営されたと言われる古墳から出土したものである。当初日本の歴史家の多くは「武士ではないか」と思っていた。ところが、田中氏はそれを見てユダヤ人であると直ぐに分かった。田中氏はフランス、イタリア美術史の研究家で、日本史の専門家ではなかったのだが、この発見から、氏は日本の古代史に興味をもつようになったようだ。
今我々が見ても、間違いなくユダヤ人だと分かる。山高帽子(?)に、首まで伸びたあごひげ、それに、クルクル巻きの長いもみあげ。まさにユダヤ人だ。   
意外なことに、人物埴輪は関西より関東に多いのだそうだ。しかも今の千葉県に多いという。
千葉県はその当時、武射国造(むさのくにのみやつこ)という大和朝廷に服属した地方豪族が治めており、古墳が造られるようになったのは6世紀ごろだと言われている。
かつてこの一帯は「日高見国」という国家があり、武射国造はその後継ともいえる国であった。『古事記』には武射国造の氏姓として「牟邪臣(むさのおみ)」と記載されており、東国では唯一の「カバネ」を有した国造だったという。
古代日本に渡来した外国人の中に「秦氏」がいた。渡来人の3分の1がユダヤ人であったという説がある。ユダヤ人は日本に鋳造や機織りの技術をもたらした。
『日本書紀』によると、秦氏の出自は現カザフスタンとウイグルの間にある「弓月国」であるという。弓月国はネトリウス派キリスト教(景教=キリスト教で中国に最初に伝来した宗派)を信教とする国だったそうだ。
シルクロードは古代イスラエルから端を発している。ユダヤ人は機織り技術に優れており、紀元前に古代ローマ国からイスラエルが滅ぼされた後「十氏族」が離散し、大陸の東へ東へと流れたとされる。田中氏によれば、古代ユダヤ人のなかに、東には理想的な国があると信じていた人たちがいた。現に東の最果てになる日本は、縄文文化を継承し、豊かで平和であった。これも田中氏の説であるが、多くのユダヤ人は自分達の宗教、ユダヤ教を日本民族に教える必要がないと感じた。むしろユダヤ教を捨てたという。捨てたというより、日本文化をより豊潤なものにするための縁の下の力持ちに徹したのではないかと思われる。「巨大な古墳や平安京の造成、寺社建築、仏像制作にユダヤ人は貢献した」と田中氏は述べている。また、「古都・京都の原型をつくったのは秦氏だった」とまで述べている。
我々日本人にとって、能は日本文化の中心だと誇りに思っている。ところで、能の創立者は秦河勝であったという。世阿弥の『風姿花伝』に「能の元祖は秦河勝であり、自分はその末裔である」とはっきりと書かれている。
ところで、秦河勝が祀られている神社が兵庫県の赤穂にある。名前は新羅神社である。検索で得た記事を転載させてもらう。


神社の由緒
神社の祭神は天照皇大神・大避大明神(秦河勝公)・春日大神の三神である。中でも最も中心神であろうと考えられるのは秦氏の有力族長であった秦河勝であろう。神社発行の「大避神社」に記載の「ご由緒」には「御祭神秦河勝公は中国より渡来した秦氏の子孫で、氏の長として数朝に仕え、特に聖徳太子に寵任された。河勝公は会計制度を起こし、外国使臣来朝の際の接待役等多くの功績を残されている。太子より仏像を賜わり太秦に広隆寺を建立された事は有名である。また神楽を創作制定され、今日では猿楽の祖、あるいは能楽の祖として崇められている。河勝公は皇極三年(六四四)に、太子亡き後の蘇我入鹿の迫害をさけ、海路をたよって此々坂越浦にお着きになられ、千種川流域の開拓を推め、大化三年(六四七)に八十余才で薨ぜられた。河勝公の御霊は神仙化とし、村人が朝廷に願い出、祠を築き祀ったのが大避神社の創建と伝えられている。以来朝野の崇敬をあつめ・・赤穂藩主はもとより熊本藩主細川侯も代々江戸参勤の途中熊々坂越浦に船を停め神社に参詣されたといわれている。一方近在の村々三十余ケ村に、ご分社を祀り開拓神として今日も信仰されている。坂越が海上交通の要として栄え、航海安全の信仰を集めたことが、現存する船絵馬、石灯籠筥等によってもあきらかである。更に、河勝公の後裔である秦・川勝・河勝家の人々の崇敬をいただき、近年では航海安全はもとより、災難ざけ守護神として交通安全、厄除の神社としても信仰されている。」と記載されている。説明の中で秦河勝公が中国より渡来と書かれているが、秦氏は新羅系の渡来人というのが常識的であろう(木庵注:この記述は田中氏は異論があるであろう)。更に、秦河勝が京都とその周辺に一族が広く居住していたにもかかわらず西に逃れ、なぜ坂越浦に逃げたのであろうか。恐らくこの辺りには備前地方を含めて秦氏一族が広く居住していたためであろう。「播磨鑑」には「聖徳太子の寵臣秦河勝は、皇極二年(六四三)九月十二日、蘇我入鹿の乱を避け、難波から船で坂越の生島に逃れてきたところ、坂越の浦人は彼を迎えて敬い、生島に葬り、神として祀った」とされる。神仏混淆時代には宝珠山妙見寺妙覚院となり、背後の山中に十数舎の僧坊が建てられた。「赤穂市史」によれば、兵庫県南西部の海岸は揖保川を境として、東の隆起性海岸と西の沈降性海岸に区分され、西には古来、天然の良港となる入り江や湾が多い。坂越湾もその一つで行基が定めたという摂播五泊の一つ室津や相生湾なども有名である。坂越湾は湾頭に生島があり、海浜の狭い平地に人家が密集している。周辺山地には「みかんのへた山古墳」(県指跡)(大避神社の東方一㎞の小島町の山中にある)をはじめ、高取山群集墳、高伏群集墳、小島群集墳などがある。また、生島や鍋島にも古墳がある。生島の古墳は古くは方墳とみられていたが、実測により円墳であることが確認されている。五世紀末より六世紀初めの木棺直葬墓か箱式石棺墓とみられる…更に古墳の被葬者は海とかかわりを持つ人で、この地域の生産・交易を支配した津長クラスの人物であろうとしている。この古墳の被葬者と秦氏のつながりは不明であるが、恐らく秦氏が勢力を持つ以前に、この地域を支配していた人々の墓であろうと推測している。祭神のうち、天照大神と春日大神(春日大社の神々)が祀られた経緯は不明である。この神社の旧の祭神は秦河勝と秦酒公であるが秦河勝を祀ったものであろう。因みに、山城国葛野郡にも秦氏ゆかりの大酒(大避)神社があり、祭神は秦始皇帝・弓月君・秦酒公である。

赤穂市と周辺の秦氏族と大避神社について
坂越の「大避神社・ご由緒」の記載に「近在の村三十余ケ村にご分社を祀り」とある通りに千種川の沿岸を中心として三十に余る「大避神社」が存在しているようである。これらの神社は殆どが分祀や勧請されたものであるので創祀の時期が不明であるものが多い。但し、赤穂市の周辺の地域に秦氏が存在した事は事実である。秦河勝との関係はともかく秦氏族との係わりのある神社であることは間違いない。「兵庫県の歴史散歩」(山川出版社)にも「大避(大酒)神社は千種川流域に多く、渡来人と考えられる秦氏は、坂越を拠点に千種川流域の開発を行ったものであろう」とある。確かに、千種川に沿って幾つかの大避神社が存在している。地図でみても①赤穂市木津山田(千種川の西)②中山の大避神社(千種川の西)③西有年(にしうね)にある大避神社(千種川の支流・長谷川の近く)④赤穂郡上郡町(かみごおりちょう)竹万字宮ケ丘(千種川の上流上郡町にある。JR山陽線の上郡駅の東にある。千種川と支流の安室川に挟まれた位置である。)⑤上郡町大枝新(おえだしん)にある大酒神社、⑥上郡町岩木にある大避神社(千種川の支流・岩木川の上流)などがすぐ見つかる。全部見たわけではないが、いずれの神社も石造の明神鳥居を持ち、拝殿は唐門付の向拝を持ち千鳥破風の入母屋造、本殿は坂越の大避神社の本殿と同じ造りであるようだ。境内地の大小はあるが皆同じような形態である。上郡町の北にある佐用郡上月(こうづき)町には大酒いう集落もある。明治十二年(一八七九)の「赤穂郡神社明細帳」には郡内の大避神社は二十一社記載がある。

ところで秦河勝が蘇我氏に追われて播磨に来たという証拠は残念ながら残っていない。しかし、伝承が何の根拠もなく作られることは考えにくい。河勝は川勝とも書かれる(「上宮聖徳法王帝説」など)が、秦河勝と播磨国との係わりを最初に記載しているのは、世阿弥の「花伝書」である(木庵注:そういえば、高校の同級生に「川勝」という姓の人間がいた)。それによれば、「欽明天皇(五三一~五七一)の時代、大和国の初瀬川に洪水が起った時に、川上から一つの壺が流れ着いた。なかには容姿がこの上なく美しいみどり子が入っており、三輪神社の鳥居の前でこれを発見した人々は、ただちに天皇に奏上した。その夜、天皇の夢枕にその子が現れ、自分は秦始皇帝の子孫だといい
(木庵注:田中氏によれば、秦始皇帝はユダヤ人であったと)、やがて朝廷につかえて秦の姓を賜り、秦河勝と名乗った。聖徳太子は河勝に神楽を習わせ、子孫に伝えさせたが、これが猿楽の起源だという。そして、河勝は難波の浦より、うつぼ船にのり、風にまかせて、西海にでた。播磨国、坂越の浦に着く。浦人舟をあけて見れば、形人とは似つかぬ姿にかわれり。諸人に憑(つ)き祟(たた)りて奇瑞(きずい)をなすので、神と崇めて祀り国が豊になった。おうき(大)にあるる(荒)と書きて大荒(おおさけ)明神と名づけた。上宮太子(聖徳太子)、…」。とある。世阿弥の「花伝書」は応永九年(一四〇二)に編纂されたといわれているが、この頃には既に、秦河勝が播磨国に来着したという伝承が存在していたことは考えられる。また、世阿弥が能楽の創始者としての秦河勝の子孫であるということを大避神社の祭神と結びつけてこのような創作をしたとも考えられる。世阿弥の娘婿で、同じく秦氏(はたし)を名乗った金春禅竹(こんぱるぜんちく)は「明宿集」を著したが、世阿弥の「花伝書」と同様な話を載せている。
つづく


ブログを始めた頃の記事
自らの身は顧みず 田母神俊雄論続編
2009年03月19日(木) 10時04分11秒
「3・1・09田母神俊雄講演会実況、DVDを本ブログより無料贈呈(15名限定)(詳細は「講演会、田母神俊雄、『わが思いの丈を語る』」#3参照)。現状報告、今のところ日本8名、米国4名。あと3名までとなりました。最後のチャンスです、申し込んでください。


新木庵の反応
<こんなことをしたのだ。思い出した。これのスポンサーは天野英世さんであった。台湾の方だ。英世という日本名をつけられたのは、彼は野口英世と同じロックフェラー医学研究所で研究をされていたことがあるからである。2年ほど前、お宅にお伺いしたが、高齢ではあるが矍鑠とされていた。新木庵>
 
<田母神氏の本の書評から、少しわき道に逸れる。田母神氏の説く、伝統文化を継承するという論点からすると、皇室問題は避けて通れない。ここで。#2で紹介したOGさんから送られてきた資料を基に木庵も考えていく。先ず、西尾幹二氏が「Will」で書いた要約をOG氏がしている。以下はそれである。相当長いが掲載する。木庵>

     
「皇太子さまに敢えて御忠言申し上げます」
 大きな話題を呼んでいる西尾先生の「WILL」5月号の記事の要約です。昨日発売された6月号には、「御忠言」の第2弾が掲載されています。

・ 謙虚な伝統の番人
天皇制度の意義ということから大上段に振りかぶって考えて見たい。私は平等とか人権といった近代の理念のまったく立ち入ることの出来ないエリア(界域)が社会に存在することの意義、ということに尽きると思っている。国民はここに自分たちと同じ尺度、同じ価値、同じ社会意識を持ち込むべきではない。
個人がどんなに努力しても及ばないエリアがこの世界には存在する。それをしかと知らしめるのが天皇制度である。人間は決して自由ではない。歴史は個人の自由を超えている。天皇にも自由意志はない。それを無言で教えているのが近代史の届かない処にある王朝の歴史である。歴史の短い民族は欲してもこれが得られない。日本民族には稀有な天与の宝が授けられているといっていい。

私たちの伝統とは私たちの意識し得ない何かである。天皇個人の努力や意図をも遥かに超えている。天皇は神ではない。神を祭る祭祀継承者であり、いわば神主の代表である。
天皇は伝統を所有しているのではなく、伝統に所有されている。天皇とその一族は国民の代表として伝統に対する謙虚な番人でなくてはならない。それ故に尊貴の存在なのである。
天皇制度と天皇(及びその家族)との関係は、比喩でいえば船と乗客との関係である。乗客はいまたまたま船に乗っているが、船主ではない。天皇家は一時的に船をお預かりしている立場である。今上天皇はそのことをよく弁えになっておられるように思える。歴史に対する敬虔さ、国民に対する仁愛、祭祀の尊重と遵守にそれは滲み出ている。
皇太子殿下と妃殿下にその自覚が果たしておありになるのか否か、それが今ここに問われている疑問であり、テーマである。


写真:ユダヤ人の形をした埴輪と、今の敬虔なるユダヤ教を信じているユダヤ人の姿
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