訪日(第162回You Tube (神話)、ブログを始めた頃の記事)(#11)
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You Tubeを立ち上げた
対談に参加したい人は、
⓵ 木庵のメールアドレスをクリックする。

メールアドレス:takaonaito03@gmail.com
⓶ どのようなトピックス、日時などを木庵と話し合う。
⓷ 実際にズーム上で対話をおこなう(自動的に録画できるようになっている)。
⓸ ズームで録画したものを、You Tubeに移動(木庵の作業)
⑤ 出来上がったYou Tubeのアドレスをブログに掲載。
⓺ You Tubeのアドレスをクリックすると、誰でも対話の様子が見れる。

*顔を隠したい人、仮の名前でもよい(勿論木庵の顔はだす)。

*二人以上もできるが、40分でズームは切れる(延長する場合は、再開する必要あり)。

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木庵のZoomミーティングに実際に参加する場合:
下のURLをクリックする。

https://us04web.zoom.us/j/5582589118?pwd=b0xsUHBQM2NYb0NNVFdYK3JSY2daUT09

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*URLをクリックするだけで、ミーティングルームに入れる(ミーティングID、 パスコードの入力は必要ないよう)。
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木庵の般若心経(3回目)
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第162回You Tube (神話)
日本に行っていたので、約1ヵ月ほどYou Tube を休んだ。
久しぶりにYou Tube を再会する。30分ほど一人語りをした。しかし、記録として残っていない。そこで、語ったことを思い出し、また語った以上のことを文章化する。しかも常体で書く。

久しぶりである。日本の感想はブログで書いたので、ここでは特に日本旅行の最後に千葉に行ったこと、そこで思ったこと、後で調べたことなどについて語る。
日本の印象はトイレが綺麗で、どこにでもあったということである。旅の最後の千葉でトイレに入ろうとすると、トイレを終った人が「ごめんなさい」と言った。彼の言葉に、日本文化を感じた。アメリカなら自分が使った後、次の人に「ごめんなさい」ということは絶対に言わない。トイレを使ったのは、己の行為で、次の人に謝る必要などない。それを日本の人が言ったということは、「私が使っている間、長い間待たせました。ごめんなさい」ということなのだろう。
トイレや道路でごみを見ることは全くと言ってよいほどなかった。ただ千葉のあるトイレの中に、「トイレットペーパーを盗まないでください」という貼り紙があった。日本の文化は「恥の文化」。他者が見ている時はマナーは良いのだが、誰も見ていなければトイレットペーパーを盗む人もいるということなのか。そういえば、都会ではなく田舎の田圃道を歩いていると、その道は舗装され自動車が通れるのだが、道端にペットボトルや空き缶が幾らか落ちているのを発見した。誰も見ていなければ、ポイ捨てする輩もいるようだ。本当の良き日本文化は、「おてんとうさんが見ているでしょう」である。アメリカ、ロスに帰って、ゴミが一杯あるのを見て、「これが自然なんだ。日本はあまりにも人工的すぎる」と、変に思ったぐらいである。
日本旅行の最後は千葉に立ち寄った。千葉の大喜多という所に、私の友人夫婦が住んでいる。彼、彼女はセブンスデー・アドベンティストの信者で、奥さんはセブンスデー・アドベンティストが経営する三育学院中等教育学校の寮の寮母をされている。教会が改修した民家に二人は住んでおられる。中等教育学校だけでなく、三育学院看護学部、三育学院カレッジ神学科の校舎も見せてもらった。看護の学生であったのか、神学科の学生であったのか、学生同士が語り合っている姿を少し見た。それだけで、彼たちが純粋な学生であることが分かった。私のような俗人には、それが分かるのである。私は色々なキリスト教の教会を訪れることがある。その中でもセブンスデー・アドベンティストの信者が一番人格的に優れていると思う。その理由が分かった。子供達を子供のときから宗教教育しているからなのだろう。しかも寮生活などをして、具体的なクリスチャンとしての生き方を学ぶのであろう。そのような生きた教育に寮母である千春さんは貢献しているのであろう。
二人は私をどう歓迎するか考えられたようで、その中で、上総国分尼寺の遺跡を訪ねることを勧められた。行った。博物館に立ち寄り、ビデオを見たり、当時の建物が復元されているのを見学した。復元は正確にされていた。復元に際して、法隆寺の復元が参考にされたとか。柱や板壁の赤い色は酸化鉄から抽出したとか、青色は銅を何々するとか、どこかに書いてあった。それより礎石は何々石で、表面がごつごつしているので、それに合わして、柱の下の部分を調節するような手法が使われたとか。瓦も見事再現されていた。当時国分寺尼寺は日本で60ほと建てられたのだが、そのなかでも、上総国分尼寺が規模において一番大きかったという。そのことが私にとって大きな疑問となって残った。
木庵の浅い知識では、このあたりは不毛の地であったと。豊臣秀吉が徳川家康と一緒に立ちしょうべんをしていて、秀吉は、家康に関東を譲るという話があった。所謂「関東のつれしょんべん」である。広い土地とはいえ、草が生い茂っているような不毛の土地であったと、木庵は思い込んでいた。ところか、千葉あたりに奈良時代に国分尼寺があり、しかも規模は日本一だという。
その意味がよく理解できなかった。ところが、この度、「NPO法人 元気の素カンパニー以和貴」主催の藤岡信勝先生の講座に参加して、その謎が解けた。
上総国分尼寺の近くにある木更津の名前の由来からこのあたりは、神話の時代から栄えていたことが分かったのである。
木更津の地名の起こりは、「古事記」(7世紀頃)に登場する「日本武尊伝説」に由来するという。日本武尊が、日本東征の途中、東京湾から上総へ渡ろうとした。そのとき、海が大荒れに荒れ船が転覆しそうになった。その時、武尊の后、弟橘媛(おとたちばなひめ)が海神の怒りを鎮めようと、わが身を海に沈めたために、日本武尊は無事上総に上陸することが出来た。上陸して敵を平定したのはいいが、愛する弟橘媛の死を悲しみ、しばらくこの地を去らなかったといいう。「君不去」=きみさらず。それが「きさらづ」と呼ぶようになったという。
このことを知ってから、千葉の歴史に興味をもつようになった。そして調べた。

ここから、千葉県ホームページの記事の一部を転載させてもらう。


県名の由来
現在の千葉県域は、古代から江戸時代までの令制国としては、北から下総国、上総国、安房国にあたる。
千葉県という県名は、廃藩置県後の1873年(明治6年)に木更津県と印旛県が合併して千葉県が設置された際に千葉郡千葉町(現在の千葉市)に県庁が置かれたことに由来する。県庁所在地名と郡名が同じため、そのいずれに由来するかは不明である。また、千葉という地名自体がいつの頃に発生したのかは定かではないが、律令制以前の国造名(千葉国造)や律令制以来の郡名(千葉郡)に見ることができる。その地名の由来については諸説あるが、一説によると「数多くの葉が繁茂する」の意で、

『日本書紀』『古事記』の両書(記紀)には、応神天皇が大和から近江に向かう途中、山城の宇治野の丘で遠く葛野一帯を望んでの国見歌で現れる「千葉の」は数多くの葉の意味で、葛の葉が良く繁栄したことから葛の枕詞として用いられたのだと、契沖以来考えられており、古代人が「千葉」という地名に託した願いを知る上での重要な資料の一つといわれている。

房総の最初の住人は、約3万数千年前の旧石器時代の人々で、四国の阿波から豊かな土地を求めて黒潮に乗ってきた人だと言われている。
縄文時代の遺跡としては、貝塚がよく知られている。
縄文時代の貝塚は日本各地に約2300か所を数え、関東地方には、約1000か所が集中している。特に東京湾周辺は、貝塚の宝庫と呼ばれ、約600か所が密集しており、千葉県の東京湾域、利根川流域の台地には644か所ほどの遺跡が見られる。千葉市にある加曽利貝塚が有名で、千葉市若葉区の台地には、加曽利貝塚博物館が建っており、発掘品のほか、野外施設で貝の堆積状態を観察することができる。また、縄文遺跡の落合遺跡(東京大学検見川総合運動場)から発掘されたハスの実は発芽に成功し、大賀ハス(古代ハス)と呼ばれ、世界中に株分けされた。
関東では、関西より100年遅れて2世紀から3世紀頃まで、弥生時代となる。房総の古代文化は、黒潮による南西日本との文化交流の影響が見られることから、俗に「黒潮文化」と呼ばれ、地域の文化や風習(例:漁法・建築様式等)などにその影響が見られる。

古墳時代の房総半島は、「捄国」(ふさのくに。古くは捄=麻がよく育ったことに由来、「総」は後世の当て字)と呼ばれた。『古語拾遺』によると、神代の時代に古代豪族の忌部氏の祖である天富命が阿波(徳島県)から黒潮に乗って渡来、麻を栽培して成功した肥沃な大地が捄国で、忌部(斎部)の一部の居住地には、阿波の名を取って安房としたのが起源だとされる。これら房総三国を一括する語が「吾妻」である。記紀神話では、日本武尊の説話が起源とされているが(「あづまはや」という嘆きの詞)、元々は当地の神話であった物を取り込んだ可能性がある。安房国造の任命に際しては、出雲国造、紀国造とともに特別の任官方式が取られ、忌部氏の氏神とされる安房大神(安房神社)は、8世紀前半までは、 東国では鹿島神に次ぐ扱いで、香取神を上回っていたとされる。

また、『常陸国風土記』によれば、阿波忌部氏に続き、多氏(神八井耳命の末裔の肥後国造の一族)や中臣氏が上総国に到来、開拓を行いながら常陸国(現在の茨城県)に勢力を伸ばし、中臣片岡連が氏神として鹿島神宮を建立したとされる。因みに平安時代から日本にかけて「神宮」の称号で呼ばれていたのは、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の三社のみである。
県内にある古墳時代初期の遺跡としては、市原市の神戸4号墳・5号墳を始め、各地で前方後円墳が出現する直前の首長墓が確認されている。また、市原市の稲荷台1号古墳から出土した「王賜銘」鉄剣からは房総におけるヤマト王権の影響力が見られる。『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、成務朝に阿波国造、長狭国造、須恵国造、馬来田国造、菊麻国造、伊甚国造、上海上国造、武社国造が、応神朝に下海上国造、千葉国造、印波国造が置かれたとされる。

県域は香取海周辺に集中する古墳郡の分布からも分かるように、古来より海上交通を通じて発達しており、東国の中でも政治的にヤマト王権との交流が深かったことから前方後円墳の数が全国的にも多い。1990年(平成2年)時点で8665基の古墳と横穴が4083基が県内で確認されており、古墳の数は全国第4位を占める。このうち100mを超えるものは14基を数え、最大のものは、富津市の内裏塚古墳で、墳丘の全長は、147m(周溝を含めると185m)、日本列島では74番目の規模といわれるが、5世紀の古墳としては、南関東で最大規模を誇る。
なお、遺跡の多くは山(標高20m - 30m程度の高台)側に多く分布している。これは、縄文海進の影響によって当時の水位は現在よりずっと高く、現在の千葉県の多くの低地が海中に沈み、県域は、北部の香取海、南部・東部の古太平洋と西部の古東京湾によって、本州と完全に仕切られた「島」となっていたためで、この影響は、平安時代から鎌倉時代まで続いたとされる。この影響は、日本武尊に関する説話など、各地の伝承や伝説などにも見受けられる。
6世紀後半になると、畿内では前方後円墳は姿を消し、古墳は小型化する。7世紀になると仏教寺院が建立されるようになるが、東国では7世紀初めまで前方後円墳が築造されていた。千葉県にある同時期の遺跡としては、栄町および成田市にある龍角寺古墳群(古墳総数は111 – 124基)がある。遺跡は、印旛沼の東岸(印波国造の影響域と推定されている)にあり、周辺は千葉県立房総のむら(体験博物館)として整備されている。龍角寺古墳群は6世紀に始まったとされ、7世紀末までの200年間、複数の古墳と寺院が築造されたもので、東国における墳墓(古墳から寺院へ)形態の変化を知る上でも重要な遺跡として全国的にも著名である。浅間山古墳(竜角寺111号墳)の副葬品は7世紀中葉までに及び、墳丘長が78mで、全国的に見ても最後の大型前方後円墳の一つといわれる。この直後に造られたのが岩屋古墳(竜角寺105号墳)で、1辺78m、高さ12.2mの方墳で、終末期の方墳としては、日本最大である。
つつく


ブログを始めた頃の記事
安倍首相辞任

2007年09月16日(日) 08時36分59秒
今まで、保守とは何かというような抽象論を述べてきたが、ぼつぼつ、具体的な政治の動きについて述べていく。アメリカに住み、日本の情報が多く入っていてくるわけではないが、基本の考え方がしっかりしていれば、少しの情報でも、全体の流れは把握できる。
 今回の安倍の総理辞任そのものは予測できなかったが、彼の政治生命は終わったと、私の友人に、総理辞任ニュースが流れる2日まえに話している。安倍は保守本流(?)で、ようやく日本にも日本の国益に沿った政治家が政権をとったと、喜んでいたが、彼が中国を訪問してから後、おかしくなった。どのような外交交渉をしたのか具体的にはわからないが、8月15日、終戦記念日に靖国に参拝しなかった時点で、彼の政治生命はなくなったと判断した。
 靖国は日本の国内問題で、日本の行政の長である首相が終戦記念日に参拝するのは当然のことである。外野席の雑音などに耳を貸す必要はない。国のために死んでいった兵士の墓、もしくは霊の祭られている神社に参ることを躊躇する国家元首が世界にいるだろうか?恐らくそれは日本だけだろう。これは絶対に譲れない、保守本流の筋である。もし、A級戦犯、某国への侵略云々と言い出せば、その瞬間その人は保守本流から外れたと判断してよい。
 両親の墓参りをするのを、隣の人が抗議などしないであろう。靖国は日本という家族の墓参り(靖国は墓ではないが)のようなものである。
 この基本が崩れれば、保守本流から脱退してもらい、そう辞退するのは懸命なことであった。きっと安倍さんは苦しいんだのだと思う。自分の信念が通せなかったしたたかさの欠如に、自分の限界を感じたのだろう。
 政治家になるには、高い志をもち、死しても譲らずという強い意志力と、実行力が必要である。祖父の岸信介はA級戦犯という状況、つまり死線から還った信念の人であった。安保新条約批准調印の際、野党や国民の半数近くを敵にまわし、一時死を覚悟するほどまで追い詰められながらも、日本の国益のためにはこれしかないと、決断、実行した。悪評など気になどしていない。それに対して、安倍さん、お坊ちゃんだったのだね。マイルドでダンディーな外見が世界に通用する政治家だなって、週刊誌的な発想で、政治の世界では通用しない。
 なにはともあれ、一人の優秀な保守本流と思っていた政治家が脱落したことは残念である。正、反、合の弁証法ではないが、次の総理は国賊的、某国へ媚びる人間が総理になるであろう。ひとまず、泳いでもらうしか仕方がない。今後、安倍批判のみに心を奪われ、保守本流の精神を失いたくないものである。
木庵


写真:日本武尊
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