訪日(訪日記、ブログを始めた頃の記事)(#10)
↓↓↓   ↓↓↓
https://ameblo.jp/naitotakaousa/
←(クリックはここ)アメーバーブログ
↑↑↑    ↑↑↑

You Tubeを立ち上げた
対談に参加したい人は、
⓵ 木庵のメールアドレスをクリックする。

メールアドレス:takaonaito03@gmail.com
⓶ どのようなトピックス、日時などを木庵と話し合う。
⓷ 実際にズーム上で対話をおこなう(自動的に録画できるようになっている)。
⓸ ズームで録画したものを、You Tubeに移動(木庵の作業)
⑤ 出来上がったYou Tubeのアドレスをブログに掲載。
⓺ You Tubeのアドレスをクリックすると、誰でも対話の様子が見れる。

*顔を隠したい人、仮の名前でもよい(勿論木庵の顔はだす)。

*二人以上もできるが、40分でズームは切れる(延長する場合は、再開する必要あり)。

・・・・

木庵のZoomミーティングに実際に参加する場合:
下のURLをクリックする。

https://us04web.zoom.us/j/5582589118?pwd=b0xsUHBQM2NYb0NNVFdYK3JSY2daUT09

ミーティングID: 558 258 9118
パスコード: 2BaZGd

*URLをクリックするだけで、ミーティングルームに入れる(ミーティングID、 パスコードの入力は必要ないよう)。
・・・・

木庵の般若心経(3回目)
↓↓↓   ↓↓↓
https://youtu.be/ZRq3bKOLgLQ
↑↑↑  ↑↑↑

・・・・


訪日記 (満蒙青少年義勇兵)
満蒙青少年義勇兵のことを知っている人はどれだけいるであろうか。木庵はふとしたこから満蒙青少年義勇兵の生き残りの人を知った。そして、彼等(通訳をいれて5人)と一緒に旧満州まで取材旅行をした。取材したのを基に本にするつもりであった。書いた原稿はあるが、まだ発刊されていない。ところで、これを含めて満州三作を書いている。

石原莞爾が1931年(昭和6)、満州事変を引き起こしたことは有名である。日本には天然資源が少なく、農地は限られ、次男、三男にまで分与されないという状態であった。そこで、1938年(昭和13)、政府は農山村の次・三男を満州に送り、所定年月の訓練を終えた人間には20町歩の土地を与えるという触れこみで、主に全国の高等小学校に通う生徒を募った。昭和6年から終戦の時までに、延べ6万人ほどを送り出している。初期あたりでは、訓練させてもらい、獣医や開拓農民になって本当に20町歩を受け取り豊かな生活ができるようになった人もいる。ところが木庵が取材した沢田中隊(沢井中隊だったかな)は、宮城県から150名ほどが、終戦の年の昭和20年5月に東京を発っている。その日の夜は東京空襲があり、列車の後ろの東京の空は真っ赤であった。名古屋や大阪あたりでは、線路の横に空襲の跡があった。博多では、空襲の延焼を防ぐためにビルディングが壊されていた。博多から朝鮮の釜山までの海はアメリカの潜水艦が日本の船を獲物として狙っていた。なんとか釜山港に着き、その後は一路満州であった。朝鮮では空襲に遭うことなく、朝鮮の田園風景を楽しむことができた。しかし、目的地のソ連国境付近にある訓練所に着いてからの生活は過酷なものであった。訓練といっても枕状の爆弾を抱えて敵の戦車の下にもぐる訓練などが主であった。開拓農民の予備とは言っても、国境地帯を守る屯田兵の役目があったのである。それより、食事が酷かった。米など食べられるというのではなく、現地満人の主食のこうりゃんのようなものであった。それが不味く、それよりスープも上に豚の油のようなものが浮いている程度であった。せっかく満州では腹一杯に食べられると期待していたのに、失望は大きかった。成長だかりの青少年にとって酷かった。ところが、それ以上に大変だったのは、日本の敗戦寸前の8月9日にソ連軍が日ソ平和条約を破って、満州、蒙古、それに樺太の国境線から怒涛のごとくやってきたことである。青少年義勇兵の訓練所あたりには、まだのぞかで、ソ連兵が馬に乗ってやってきたと、生き残りの人は語ってくれた。
そして日本は敗戦し、義勇兵、開拓団の人たちは、南へ南へと逃避行を始めた。一時義勇兵の若者は、ソ連領まで連れていかれたことがあった。しかし、歳が若すぎるというので追い返させられた。多くの邦人はその後、シベリアあたりに送られたのである。そのことから免れただけでも有難いと思うが、そうではない。夏の間はまだ良いのだが、満州は冬になると、マイナス30度、40度になる極寒の地である。このような過酷な環境で生き延びることは、言葉では言い表せないほどのことがあった。現に沢井中隊150名のうち、半数が飢えや疫病で亡くなっている。列車で移動中に亡くなる若者もいた。友達が亡くなったかどうかを判断するのに、ノミの移動があった。亡くなると血が美味しくなくなるから、ノミたちが自分の方に大量に移動するのである。このような話は、実際に経験したことのない人にしか分からないのである。最終的に奉天の避難所に収容された。ところが多くの隊員は避難所で亡くなっている。というのは、食料が不足しだけでなく、狭い部屋に多くの人が押し込まれるということは、赤痢などの病気にうつたされる可能性が大だというのである。木庵が取材した人たちは、収容所から脱出している。だから生き延びられたのである。細川さんは可愛かったので満人の中年の婦人に連れていかれた。佐藤さんと安倍さんは、ある日本人に雇われて行商をおこなった。林さんは独立独歩の道を選んだ。生き残るために泥棒もしたという。あるとき、知らずにロシア兵が住んでいる家を物色していて見つかり、もう少しで殺されるところであったという。生き延びた人々は、この世の地獄を見たのである。

終戦から2年経って、ようやく、アメリカ政府、中国国民党、共産党の合意の上で、葫蘆島(ころとう)から、4月から10月までの間に約100万人が脱出している。葫蘆島とは島のようであるが、半島である。この地も取材している。葫蘆島にやってくる列車は列車によって日本人の様子が違っていたという。会社などに所属していた人は、自警団のような組織をつくり、なんとか生き延びている。それに反して、開拓農民とか青少年義勇兵は大変な思いをしている。葫蘆島の駅に着いた時には、どんごろすのようなものしか体につけていないような人もいた。
先程書いた三部作の一つは、葫蘆島弁事処の所長であった人の娘さんをロスで取材して書いている。娘さんは当時10歳ぐらいで、父親は終戦まで奉天の日本領事館の副領事をしていた。だから、彼女は終戦、否終戦前の奉天の混乱をつぶさに見ている。そのことをここでは書かない。いつか書くかもしれない。終戦後、ある程度日本が安定してきた頃に、彼女と彼女の父親はロスにやってきた。木庵が取材したときの5年ほど前に父親は亡くなっていた。聞くところによると、彼女も3年ほど前に亡くなったという。本当に満州は遠くなりつつあるのである。
旧満州に木庵と同行してくれたのは、通訳をいれて5人であった。ところが今生きているのは、2人になってしまった。その一人の安倍さんと、この度青森にある青森屋で会ったのである。これで青森屋は3回目である。1回目は3人やってきてくれたが、今回は安倍さんだけになってしまった。安部さんは息子さんが自衛隊員で、三沢基地の側に住んでおられる。青森屋までにはタクシーで30分ぐらいのところにおられる。
今回会ったが、弱っておられた。あれだけ美味しいバッフェスタイルの食事もほんの少ししか食べられなかった。それに温泉にも入られずに、「疲れたから、寝らしてもらう」と言われたので、テレビをつけるのも悪いと思い、木庵も寝ることにした。そう簡単には寝れない。夜長をどう過ごすかである。有難いことに、温泉はいつでも入れる。露店風呂の外側は池があり、池の岸にはねぶたが飾ってある。それを見るだけでも満足。それでも、安倍さんは早朝に目を覚まされたので、テレビを見ながらなんとか交流ができた。この旅館の朝食がまた良い。鮭の焼いたのだけでなく、朝食にふさわしい食べ物が一杯あった。夕食は食べすぎたので、朝食にはご飯を抑え気味にした。後は、東京でさとみが待っているので、予定の時間通りに新幹線に乘り、東京に向かった。
高齢にかかわらず、私のために会ってくださった安倍さんに感謝する。今度お会いするときは元気になられることを願う。数年前一度弱わられたことがあったが、回復された。高齢であっても気持ち次第で元気になられることを信じる。せっかく満州で苦労をされたのであるから、誰よりも元気で長生きできるはずである。



ブログを始めた頃の記事
保守・再考察
2007年09月13日(木) 21時44分29秒
保守、再考察
 もくねんじんさんが提示してくださった、Wikepedia の 「保守」 をじっくり読んでみた。私の保守に対する解釈は大まかなところで当たっていた。そして、以前から考えていた保守に対する考えが再認識され、また深められた。そこで、保守について、再考察したものを、以下述べる。
(歇蕕枠親阿任呂覆ぁH親阿箸聾渋寮を盲目的に維持しようとするもので、保守の本流の考えではない。保守とは先祖が残してくれた、国土、文化、伝統、歴史を尊重し、それらが時代に即応して発展することを願う考えである。先祖が素晴しい文化遺産を残してくれたように、現代に生きる我々が後世に誇れるものを作り上げる。つまり、「保守は歴史の継続性を肯定し、未来を築くための努力を惜しまないエネルギーを内臓している」。
∧歇蕕漏很燭箜弯靴箸蝋佑┐魄曚砲垢襦F辰乏很燭箸牢袷瓦紡亢砲飽銘屬垢襦なぜなら、革命とは歴史を否定する考えだからだ。革新が過去の英知を参考にしながら改革していくという要素があれば、保守の未来志向型の考え方と袂を同じくする。しかし、一般的な革新とは、歴史の縦の糸を切ろうとするので、保守と革新とは違う。
J歇蕕茲蝓革新、革命が歴史を動かすエネルギーが強かったかったように思える。例えば、1918年に人類史上初めて誕生した革命思想・共産主義は、世界に強烈な地震波を送りこんだ。また、それを阻止しようとした、反共勢力・ナチスや日本の国粋的軍国主義も、歴史の継続性を否定した革命思想であった。
こ弯靴旅佑┐藁鮖砲鯣歡蠅靴茲Δ垢襦その意味で革新は革命と度合いの違いはあるが、同じ方向性をもっている。
ナ歇蕕髪ν磴楼磴Αただ、このことを議論すると、複雑になるので、これ以上述べない。
Νで述べたように、保守は歴史上、革命、革新に比べ、影が薄かった。その理由は、歴史の縦の糸を裁断する革命や革新の方が、自由で未来へ飛躍するエネルギーが大であるからだ。 保守が現状を変えようとしても、過去の因習やしがらみに縛られ、未来を大胆に開拓できないという要素がある。
Г箸海蹐、近頃、「自分は保守である」と、堂々と言える時代になった。それは、ソビエトの崩壊以降、共産主義という革命思想への幻想が取り除かれたからだ。
┌隠坑械闇代の日本の大学生の3分の1が共産主義者であり、後の3分の1はマルクスの「資本論」は読んでいる、容共主義者であった(のこりの3分の1はノンポリ)。戦前の共産主義者、容共主義者は、国粋的軍国主義者と対立し、結果として、表舞台から振り落とされ、潜伏しててその存在をかろうじて維持した。そして、戦後GHQの保護のもと、日本の言論界に躍り出た。GHQからすれば彼らの役割は。戦前の日本の指導者を追い出すための、猛犬にすぎなかった。ところが、この猛犬がGHQ体制そのものまで攻撃しだしたので、レッドパージで共産主義者を抹殺する工作に出た。QHQは一応自由主義を標榜しているので、共産主義者を戦前の軍国主義者がおこなったように、根絶までもっていけなかった。だから、戦後、共産主義を容認する社会構造を包含しているといえる。
石原慎太郎がゴルバチョフに対し、「世界の中で社会主義国家として成功したのは日本のみである」 と冗談めいたことを言ったが、実は的を得たコメントであった。
戦後体制を考える時、日本は自由主義と社会主義の中間に位置すると考えられる。官僚主導型国家、つまり国権を主軸にする国家は、社会主義国家に近いのである。
現在、保守の役割は重要である。近頃の日本の共産主義者、社会主義者は表立って、革命を唱える人は少なくなっているが、改革という名を借りた革命希求主義者である。表向き、柔らかく改革を主張しても、その裏に牙が潜んでいる。スターリンや毛沢東の大量殺人を生んだ共産主義が如何に人類に大きな悲劇をもたらしたかは、もう人類の常識になっている。
ここで、共産主義がなぜ、大量殺人、特に粛清という悪弊を生んだかということを考察する。つまり、共産主義者、革命主義者は、歴史に謙虚ではなかったためである。過去人類が生み出した英知を無視し、自由奔放に新しい国家、社会を構築しようとしたことが、悲劇を生んだのである。過激すぎるのである。その構築のプロセスで無理が生じ、いつしか人間の本性である弱肉強食が顔をだし、共産主義とは名ばかりの専制主義国家が誕生してしまったのである。
このような共産主義国家の失敗を人類が経験し、ようやく近頃、保守が脚光を浴びるようになってきた。
カール・ポパーは、共産主義華々しい時代に、共産主義の欺瞞、脅威を警告した。必然的歴史の発展法則、つまり、封建主義、資本主義、社会主義、共産主義への移行は、歴史的必然であるとする、共産主義的科学主義(弁証法的唯物史観)を、擬似科学主義と糾弾している。現在、ポパーの考えは正しかったと言えるが、所謂偉大なる思想家、哲学者と称されていた人の中に、共産主義の本質を見抜けなかった人が多くいた。ここで、実存主義者として、いまだに世界的人気を保持している、ジャンポール・サルトル、それに彼の愛人シモーヌ・ド・ボーボワァールについて少し述べる。
サルトルは「人間を未来に投機する存在」という実存主義を唱えた。彼の晩年は共産主義者に変身したかと思わせるところがあった。ベトナム戦争反対運動を推進しているが、共産主義への幻想からの政治運動だと揶揄されても仕方がないところがあった。「毛沢東の暴力は深い倫理観に基づいている」と、いうようなことを発言し、現在では嘲笑の的になるであろう。ボーボワァールも、「毛の行使している権力は、例えばルーズベルト以上に独裁的なものではない。新生中国の憲法は、一人の手に権力が集中することを不可能にしている」と、政治的認識を疑うような発言をしている。
哀汽襯肇襪筌椒椒錙璽襪里茲Δ憤梁隋福)な哲学者でも、歴史認識を間違うという、知識への懐疑の前提の上にたって、保守も間違う可能性があるという謙虚な態度が必要である。その謙虚さは自己反省、ときには自己否定を伴うものである。
姥什潦萍?靴討い觚析誠佑涼罎法⊃祐屬里發銚輊祇を認めようとせず、保守本流であるようなポーズを示す知識人の欺瞞性を今後追求するであろう。
木庵


新木庵の反応
<文字化が気になるところである。ヤフーブログからアメーバーブログに移籍するときに起きたのであろう。文字化があっても。大意は理解してもらえたと思う。共産主義やナチイムズ、日本の軍国主義がなぜ間違いかが理解してもられたと思う。
 

写真:青森屋バッフェスタイル風料理
↓↓↓   ↓↓↓
https://ameblo.jp/naitotakaousa/
←(クリックはここ)アメーバーブログ
↑↑↑    ↑↑↑