訪日(訪日記、ブログを始めた頃の記事)(#9)
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You Tubeを立ち上げた
対談に参加したい人は、
⓵ 木庵のメールアドレスをクリックする。

メールアドレス:takaonaito03@gmail.com
⓶ どのようなトピックス、日時などを木庵と話し合う。
⓷ 実際にズーム上で対話をおこなう(自動的に録画できるようになっている)。
⓸ ズームで録画したものを、You Tubeに移動(木庵の作業)
⑤ 出来上がったYou Tubeのアドレスをブログに掲載。
⓺ You Tubeのアドレスをクリックすると、誰でも対話の様子が見れる。

*顔を隠したい人、仮の名前でもよい(勿論木庵の顔はだす)。

*二人以上もできるが、40分でズームは切れる(延長する場合は、再開する必要あり)。

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木庵のZoomミーティングに実際に参加する場合:
下のURLをクリックする。

https://us04web.zoom.us/j/5582589118?pwd=b0xsUHBQM2NYb0NNVFdYK3JSY2daUT09

ミーティングID: 558 258 9118
パスコード: 2BaZGd

*URLをクリックするだけで、ミーティングルームに入れる(ミーティングID、 パスコードの入力は必要ないよう)。
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木庵の般若心経(3回目)
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https://youtu.be/ZRq3bKOLgLQ
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訪日記 (さとみ)
今回の訪日で忘れてはいけない人がいる。さとみである。彼女のことは、彼女が小学生の頃から知っている。彼女は子供の頃から、父親の仕事の関係でアメリカ、ロスに滞在していた。彼女が中学1年か2年であったと思うのだが、「日本の学校に体験入学したい」と言っているのを、彼女の母親から聞いた。木庵の弟は郷里の中学で教師をしていた。それに、弟の友人が教育委員会にいるということで、「一人の中学生が、体験入学できるようにしてくれないか」と弟に尋ねた。そうすると電光石火、すぐに受け入れてくれる学校を探してくれた。その学校は弟の三女絵里ちゃんが通っている学校である。しかも、絵里ちゃんとさとみは同級生だということで、同じクラス、しかも、制服は絵里ちゃんのものを借りることになった。アメリカの学校は、6月の終わり頃に夏休みが始まる。日本ではまだ夏休みまでに1ヵ月ある。そこで弟の家で寝泊りして、絵里ちゃんの学校に通学するようになった。体験入学をするようになったのである。それ以降、さとみと弟の家族は家族のようになり、とくに絵里ちゃんとは、姉妹のように付き合っていた。絵里の結婚式にも、さとみは出席していた。
さとみは、アメリカの大学を卒業した当時、両親が日本に帰るようになり、彼女も日本に帰国した。所謂帰国子女である。日本語より英語の方が得意であった。帰国子女の多くは、親の仕事で外国で生活し、特に先進国ではその国の言語を学ぶ。さとみは、月曜日から金曜日まで現地のアメリカの学校に通い、土曜日は日本人補習校に通っていた。ほとんど英語漬けで、補習校と、家庭では日本語を話していた。アメリカ在住の帰国子女の多くは、日本の子供のように日本語が出来る子は少ない。ところが、さとみのご両親の指導が良かったのだろう、彼女の日本語力は、日本で生活している日本の子にそれほど負けていなかったようである。
日本に帰ってから、英語学校の教師をするようになった。それでも、日本語不足を補うために、毎日、新聞をしっかり読んでいたようである。
彼女の結婚相手となると、大変だと思った。というのは、アメリカで長く生活すると、女性の扱い方をよく知っているアメリカ人の男性と付き合うことになる。アメリカでは高校時代になると、絶えずパーティなどがあり、アメリカの男性は自然に女性の扱い方が上手になる。私は知っている。横浜市でクインに選出されたような美人が、普通のアメリアの男性に軽くもて遊ばれたことを。日本の女性は男性から優しく接してもらうことがないので、アメリアの男性の優しい言葉、ふるまいにいちころになってしまうのである。このクイーンの女性だけでなく、3名ほどの日本人女性がアメリカ人にもて遊ばれたことを木庵は知っている。本気で愛してくれていると思い込むのである。アメリカ人はただ遊んでいるだけなのに。
そのような環境で育ったさとみは、アメリカ人を警戒すると同時に、日本の男性が弱すぎると感じたようでもある。むしろ韓国の男性の方が良いのである。韓国の男性は兵役があり軍隊で鍛えられているので、日本の若者のような軟弱さはない。そのようなさとみに、理想的な男性が現れた。その男性はさとみとは違って、イギリスで長い間生活した帰国子女である。同じような境遇が意気投合させたのだろう。結婚した。主人と会ったことがあるが、さとみに相応しい素晴らしい男性であった。
私が日本を旅行するときは、いつもさとみと会っている。前回は木庵がパスポート、グリーンカードを上野でなくし、どれだけ彼女のサポートがあったことか。「どうすれば、パスパートの再発行が可能か」などの情報を一杯教えてくれた。最終的にパスポートの再発行、それに、グリーンカードの写しをアレハンドラから送ってもらい、本来日本を発つ日より1ヵ月遅れて、関空を飛び発つことができた。そのときの航空チケットの手配までしてもらった。
今回は、東京駅の「銀の鈴」で会った。開口一番、「パスポート、グリンカドを再びなくさないようにね」と釘をさされてしまった。木庵が青森から博多までの移動の間、博多までは遠すぎるというので、岡山か広島の東横インで泊まることにした。その中継点で、さとみと東京で会うことにしたのである。午後1時から午後5時頃まで、十分な時間がある。さとみは、その日は仕事を休んでくれ、私とつきあってくれ。本来なら皇居の回りを歩く予定であったが、私がもっていったキャリアバッグを預ける有料ロッカーが空いているところがなかった。その日は祝日だったのか。キャリアバッグをゴロゴロさせながら皇居の回りは酷だというので、銀座で食事をすることになった。途中、ユニクロでシャツを買った。ユニクロのことは知っていたが、実際に入ったのはこの時が初めてである。半袖のシャツを買いたかったのである。早春ということで、どこの店も売っていなかった。さすがユニクロ、あった。木庵はアレルギーの関係で、冬でも半袖のシャツを着るようになっている。今回の旅行には一着だけもっていって、適当に洗濯して毎日着続けていた。そういうことで、やっともう一着ユニクロで買えたのである。銀座にはさとみの思い出のレストランがあった。定食屋で、彼女はチーズ入りのすき焼きを食べた。すき焼きにチーズとは面白い組み合わせだと思った。木庵は魚の姿煮であった。なんの魚か忘れたが、美味しかった。久しぶりの魚の煮つけであった。
東京駅に戻り、東京から岡山までの新幹線が見つかり、それに乘った。彼女とは、以前にパスポート事件で世話になっているので、木庵は少々気をつかった。ただ彼女の言ったことに、衝撃が走った。「私、外国人が嫌いなの。外国人を見ると、引いてしまうのです」。なるほど、彼女は現在英語学校の管理職をしている。英語学校というと、英語圏から来た人が教師をやっている。彼たちは、平気で遅れるし、連絡もなくクラスをキャンセルするようなことはよくあるという。そのくせ、己の権利の主張は凄い。そういえば、上野駅の校内のカフェテリアから数名の外国人が、「ストライキ」という看板をもってでてきた。尋ねると、「学校(さとみの学校ではない)には、社会保障制度がない」と言っていた。アメリカで長い間生活してアメリカナイズしているはずのさとみが、外国人が嫌いだとは、意外でもあり、納得した。
彼女の両親は金沢に住んでいて、木庵は新しくできた金沢新幹線を利用して金沢に行った。ご両親と一緒に夕食をして、楽しい会話が弾んだ。
さとみ、ご両親は、木庵にとって大事な人である。今後も付き合いが続くでであろう。このような人間関係があることは、木庵にとって嬉しいことである。両親はごく普通の人であるが、木庵にとって本当の日本人だと思えるのである。嘘がないことはいうまでもないが、ことさら、特別なことを言うわけではなく、ごく普通の会話が成立するのである。ところで、さとみのお母さんは料理が上手である。木庵にはもう一人金沢出身の友人がいる。彼女も料理が上手である。木庵の推測では、金沢の人の多くは料理が上手であると。その理由は、前田藩の影響であろう。「前田様にはなれそもないが、せめてなりたや将軍様」という言葉を、子供の時に誰かに教わったことがある。金沢というと前田侯のお膝元。江戸以上に文化が開けていたこともあり、庶民の間でも料理の上手な人が多いのだろう。加賀藩の藩校は、優れた人が多く輩出したと聞く。明治になってもその伝統があり、西田幾多郎や鈴木大拙を輩出したことでも有名である。
ところで、能登地震の影響が金沢にあり、ホテルに行く道すがら、一か所のアスファルトに少しの亀裂があるのを教えてもらった。本当なら能登あたりの民宿に泊まろうかと思ったが、結局金沢駅の側の東横インに匹敵するようなホテルに泊まったのである。
何か取り止めのない、まとまらない文章になった。明日、日本記を終ることになるだろう。


ブログを始めた頃の記事
保守とは何か
リンカーンではないが、人民のため、人民による、人民主権の考えであるかどうか。
ぁ\抄仁汗垢任呂覆い、無私を基調にできる人格を具えているか。
ァ…垢で月によって培われた日本風土のよさを理解し、歴史の英知から導き出される創造力があるか。

新木庵の反応
<どういう訳か文字化けしているところがある。しかし、あえてそのままにしている。

木庵>


もくねんじんさんへの回答
2007年09月03日(月) 00時08分12秒
テーマ:保守とは
 もくねんじんさん、早速のコメントありがとうございました。まず保守にたいする多角的な定義づけの資料ありがとうございました。とても参考になりました。まだ、ざーと見ただけで、細かいところまで読んでおりませんが、後にじっくり読んで、研究させていただきます。
 私の保守がどのようなものであるかという質問に対して、前回にも書きましたように、模索中ということができるでしょう。ただ、私の精神としての保守は、私の個人的なバックグランドからきているようです。一つは私の血からきているようです。特に母親の血筋から。母親の里は、奈良か平安初頭の皇后の御陵を守る家柄です。ですから、母方には皇室を尊敬するものが文句無く具わっていました。母親の部屋には、昭和天皇、皇后の御真影が飾られていました。そのような母親を見て育つと、イデオロギーとしての天皇陛下バンダイというのではなく、天皇家こそ、日本の家族の一番よいサンプルとして思えてくるのです。
 それに、若かりし頃禅に傾倒したことも、保守的精神性を具えていると自己判断できそうです。禅そのものを保守とみるのは危険なのですが、達磨の人格を代々継承してきたという観点にたてば禅は保守であり、『釈迦に会えば、釈迦を殺し、達磨に会えば達磨を殺す』という観点にたてば革新になる、というような禅問答は、これぐらいにして、自分を保守とみるのか革新とみるのか本当のところそれぞれの定義の仕方によって変わってくるのですが、まあ常識的に保守だとして、理解してもらいたいと思います。
 私の政治的な保守は、日本から届くビデオを見て、所謂保守と言われる人と考えの上で波長が合うというところから来ています。また、保守と自称、他称されている人でも、これはまやかしの保守だと、私の心の中では見破っているところもあります。
 私はアメリカ市民権をもっていないので、日本人であるといえます。新しい選挙法が改正され、海外にいながら日本の国政選挙に参加できています。しかし、このような直接に選挙に参加する意義は重要であると思っていますが、それより、世論の動向に興味をもっております。できれば、私の意見が世論を動かせればと思っています。対岸から日本を見るという態度だけはしないように心がけます。ですから、できるだけ言論活動に能動的に参加していこうと思っております。
 大体これぐらいの回答でよろしいでしょうか?また、質問がありましたら、遠慮なく出してください。
木庵より。


写真:東京駅の銀の鈴
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