面授(第124回You Tube(カーター先生が考える死)、死(生物学的な見地と心理学的な見地))(#90)
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You Tubeを立ち上げた
対談に参加したい人は、
⓵ 木庵のメールアドレスをクリックする。

メールアドレス:takaonaito03@gmail.com
⓶ どのようなトピックス、日時などを木庵と話し合う。
⓷ 実際にズーム上で対話をおこなう(自動的に録画できるようになっている)。
⓸ ズームで録画したものを、You Tubeに移動(木庵の作業)
⑤ 出来上がったYou Tubeのアドレスをブログに掲載。
⓺ You Tubeのアドレスをクリックすると、誰でも対話の様子が見れる。

*顔を隠したい人、仮の名前でもよい(勿論木庵の顔はだす)。

*二人以上もできるが、40分でズームは切れる(延長する場合は、再開する必要あり)。

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木庵のZoomミーティングに実際に参加する場合:
下のURLをクリックする。

https://us04web.zoom.us/j/5582589118?pwd=b0xsUHBQM2NYb0NNVFdYK3JSY2daUT09

ミーティングID: 558 258 9118
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*URLをクリックするだけで、ミーティングルームに入れる(ミーティングID、 パスコードの入力は必要ないよう)。
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木庵の般若心経(3回目)
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https://youtu.be/ZRq3bKOLgLQ
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第124回You Tube(カーター先生が考える死)
https://youtu.be/YGPRSC9Mg8U

夏目さんのコメント
シカゴで私がホームステイした時、その家に来てゐた黒人のメイドさんの死について、若干の訂正があります。私はメイドさんの家に行ったのではなく、メイドさん(Ruthy)がたまたま私がホームステイしてゐた家に遊びに来たゐたとき、偶然私も其家に遊びに行ったので、再会しました。それからまた何年も経ってから、私はホスト・ファミリーからRuthyが亡くなったとの悲報を聴いたのです。今思ふと、Ruthyも黒人として何となく引け目を感じてゐただらうし、私も敗戦国民なのに日本からやって来たので、何となくおなじやうな境遇として親近感があったのかもしれず、だから彼女が週に2日ほど家の掃除や雑用で来て、私と目が合ふと、深い慈しみの笑顔を向けてくれるのでした。あの笑顔は、私もホームシックだったこともあって、凄く印象に残りました。Ruthyも私のその心を感じたのかもしれません。私が世話になったユダヤ系の家庭は、大変人に対してcompassionateなところがあり、Ruthyもさういふ意味ではラッキーだったと思ひます。


木庵の反応
<私は、今、『The Waramth of Other Suns』という本を読んでいる。作者はIsabel Wilkersonという黒人女性で、彼女は黒人最初のピューリツア賞をとっている。南部に住んでいる黒人が東部や西部に移動したことを、ノンフィクション風に書いている。移動する理由は、南部で受ける差別や希望のない生活からの脱出するためであった。黒人が南部を離れると、たとえ、黒人解放されているとはいえ、南部の白人農園主にとって大事な労働力不足に見舞われる。だから、嫌がらせや、時には迫害を受けることがあった。この本から受ける感触は、奴隷解放されてからの方が、黒人は苦しめられたということである。黒人男性が白人女性をレイプすれば、当然というようにリンチの上殺された。それより、白人に礼儀を尽くさなかっただけで、リンチの対象であったという。新天地に渡った黒人は、そこでも差別と戦うことになる。この本を読んで、アメリカでの黒人の歴史がある程度分かったように思う。
差別による黒人の傷は、我々にはなかなか理解できない。そういう中で、夏目さんと黒人女性との間に、共通の感情があったという。夏目さんは、この女性の表情を「深い慈しみの笑顔」と表現されている。苦しみ抜いた人間にだけ分かる感情があるのだろう。木庵>

木庵:実は、カーター先生の死生観と夏目さんの死生観は、まったく違うのです。カーター先生は死を夏目さんほど荘厳に捉えておられないのです。人間にとって、死はとても恐ろしいことです。一般的に人間の死は怖いのです。それをカーター先生に言わせると、死の怖さを逃れるのに宗教があり、哲学があるというのです。このあたりのことを、夏目さんが信じておられることを含めて、先生は述べておられるのです。死の恐怖から逃れるために、神話とか哲学的形而上学というものを持ち出すのです。先生の本の中で興味のあるところは、先生は死を生物学的に捉えておられるのです。人間の死を生物学的に見ると、当然死はやってきます。そのことは、むしろ歓迎すべきことなのです。生きるということは、結局のところ種の保存なのです。生物の生きる目的は種の保存であって、個体の死というのはそれほど意味のあることではないのです。人間にとって子供をつくることが大事で、長生きすることはそれほど重要ではないのです。年寄りは子孫をもう作ることができなくなっていて、用がなくなっているのです。年寄りが多くいることは、種としての新陳代謝を妨げることになるのです。年寄りではなく、若くて健康な人間が新陳代謝を向上させるのです。このあたり、夏目さんは抵抗があると思いますが、まあ聞いてください。ただ死を恐れるのは人間だけで、普通の動物は死を恐れません。先生はナメクジのことを書いておられます。牛や犬は死を恐れるという人がいますが、人間だけが死を恐れると考えてよいでしょう。先生は死を恐れるのを、心理学的に捉えています。死の恐怖から逃れるために、特に宗教があるのです。このことを先生はマジック、魔法だと呼んでおられます。
つづく


カーター先生の死生観
<今回の座談会において、誰も出席しないとみて、カーター先生の著書、Encyclopedia of Philosophyで、先生がどのように死について書いているかを紹介するつもりであった。ご承知のように、夏目さんが出席され、このトピックスが対談という形に変わった。一応木庵は本の意訳したものをメモしていた。それを紹介する。先生は死について4つのエッセイを書いておられる。そのうちの2つはもう紹介した。今回は3つ目である。それを木庵の解説、脚色を交えながら紹介する。木庵>

死(生物学的な見地と心理学的な見地)
死はお化けのようなものである。しかもいつ現れるか分からない。ベッドの下で潜んでいるかもしれないし、自動車を運転しているときに、突然現れるかもしれない。
私は若い時に死について考えたことがある。それは次のようなことである。「キャリアとして最高の地位に就く。例えば大統領になるとか、大学の学長や、大会社の社長になる。所謂この世の最高位について、人間として最高の気分を味わってから、突然ハートアタックでこの世を閉じるのである。なんと荘厳で、愉快な人生ではないか…。いくらこの世の栄華を築いても、長患いをして、美味し御馳走も食べられずに最期を迎えるほど、惨めなことはない。ハートアタックといわず、突然の死は最高に良い」。
これは独身時代の己のことだけを考えた結果の妄想であった。ところが、現在のように家族をもつと、死への考えが大分変ってきた。つまり、私の死は、私だけのものではないことに気づくのである。そうなんだ。私の死は私だけのものではないのだ。私の死は家族を悲しませることになる。想像するのに、私がハートアタックで死んで、私は幸せな気分であの世に行っても、家族、ワイフ、子供は突然の私の死に対して、心のバランスを崩して、悲嘆にくれることだろう。しかし、よくよく考えれば、2週間もすれば、彼たちは普通の生活に戻り、彼たちの人生に集中するであろう。私への記憶はあるが、私への死の悲しさはどんどん薄れていく。特にワイフは私の死が良きものに変わっていくのかもしれない。ワイフは私との結婚をわりと良きものとして考えてくれていた。しかし、完全に良きものと考えてくれていただろうか。そういえば、一時「離婚してくれ」と頼んできたことがあった。芸術家で、絵を描くのが好きな彼女は、私との結婚によって、彼女の芸術性を伸ばすことができなくなったのではないか。現に私が大学院で勉強した時、彼女は私のために学費を稼いでくれた。当時の私への貢献度は凄かった。当時私への愛が強かったので、私への献身を彼女は嬉しく思っていたのだろう。しかし、子供ができて、子育ても終り、二人の中年夫婦の関係になったとき、私の存在がむしろ鬱陶しく感じるようになったのではないか。ヘビースモーカーの私が口や鼻から出す煙が部屋の中に充満することを嫌がっていた。なるべく外で吸うようにしていたとはいえ、タバコの吸い殻が色んなところにあり、またそれが部屋の美観をなくしているとなると、彼女にとって私の存在そのものまでもが、鬱陶しいものに映ったことだろう。きっと、彼女は彼女の独身時代の自由を取り戻したいと感じていたに違いない。そうだとすると、私の死は彼女にとって、解放であり、喜ばしいことになるのではないか。娘や息子にとっても、色々なことでガミガミ言う父親がいなくなって、これも解放されたことになる。それより、遺産という有難いものがいただけるとなると、私の死は子供達にとっても、それほど悪いことではないのである。
しかし、一般的に言って、死は大災害のようなものであり、誰だって忌み嫌う。それに人間は死を恐れる。恐らく死を恐れるのは、人間だけであろう。牛が屠殺される前に涙を出すということを言う人がいる。犬も自分の死期を悟って、悲しむという。果たしてそうであろうか。それは、人間が死を恐れる感情があり、それがそれらの動物に投影されて、動物も死を悲しむという妄想を作り出したに違いない。
つづく


写真:Isabel Wilkerson
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