面授(第122回You Tube(カーター先生の死)、西部邁の自死)(#76)
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 You Tubeを立ち上げた
対談に参加したい人は、
⓵ 木庵のメールアドレスをクリックする。

メールアドレス:takaonaito03@gmail.com
⓶ どのようなトピックス、日時などを木庵と話し合う。
⓷ 実際にズーム上で対話をおこなう(自動的に録画できるようになっている)。
⓸ ズームで録画したものを、You Tubeに移動(木庵の作業)
⑤ 出来上がったYou Tubeのアドレスをブログに掲載。
⓺ You Tubeのアドレスをクリックすると、誰でも対話の様子が見れる。

*顔を隠したい人、仮の名前でもよい(勿論木庵の顔はだす)。

*二人以上もできるが、40分でズームは切れる(延長する場合は、再開する必要あり)。

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木庵のZoomミーティングに実際に参加する場合:
下のURLをクリックする。

https://us04web.zoom.us/j/5582589118?pwd=b0xsUHBQM2NYb0NNVFdYK3JSY2daUT09

ミーティングID: 558 258 9118
パスコード: 2BaZGd

*URLをクリックするだけで、ミーティングルームに入れる(ミーティングID、 パスコードの入力は必要ないよう)。
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木庵の般若心経(3回目)
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https://youtu.be/ZRq3bKOLgLQ
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第122回You Tube(カーター先生の死)
https://youtu.be/RiXG0XSRi94

木庵:・・
この摩訶不思議なことを、どのように解釈するかということです。そのためには、原因から述べていかなければなりません。私の先祖を辿っていかなければなりません。辿っていくと、最初の先祖の誕生にまで到着します。この最初の先祖は、キリスト教的な解釈によると神様によって造られたとなるのでしょう。また、混沌とした訳の分からないような状態の中から、偶然に現れたのかもしれません。これも不思議なことです。
私の大学の時代に流行した実存哲学というものがあります。実存哲学は、「実存が本質に先立つ」という考え方です。本質とは神の存在のようなことです。しかし、神の存在、本質なんて分からないのです。ところが、今私が存在していること、実存は確にある。ということから、「実存は本質に先立つ」ということができるのです。この実存主義は、禅のアプローチと似たところがあります。
実存している私は、お腹が減ると食べ物を食べたくなる、ひねると痛い。そういう存在が非常に不思議なのです。本質的なことをいくら追及しても分からないのです。歴史的にヨーロッパ哲学は、「本質を追求していた」と言っても過言ではないのです。「本質は実存に先立つ」というのが、ヨーロッパの哲学の伝統であると言えるのです。この歴史を尊重すべきですが、最近フランスで、サルトルによる実存主義が発達してきました。サルトルの実存主義は、神様を信じない所謂「無神論的実存主義」ということになります。それに対して、キルケゴールを代表とする神を信じる「有神論的実存主義」もあります。このあたりのことは、大いに勉強、研究する必要があります。
ここで、私の恩師であるベンソン先生の論理実証主義について述べます。先生の師匠は、論理実証主義の創立者の一人である、ルドルフ・カルナップです。ベンソン先生はカルナップに尋ねられました。「先生、神は存在するのでしょうか?」。そうすると、カルナップは次のように答えています。「神が存在していることを証明するには、もっとエビデンスが必要だ」と。
神という本質的なことが存在するのを証明するには、もっともっとエビデンス、裏付けされた客観的な事実が必要であるというのです。私はベンソン先生から論理実証主義の論理の正確さを学んだように思います。カーター先生がベンソン先生の論理実証主義へのアプローチに対して、興味のあることを述べておれれます。論理実証主義と対比することができるのか、形而上学があります。形而上学を英語で言うと、metaphysicsになります。metaは超える、physicsとは物理で、「物理を超える論及」ということです。カーター先生は、形而上学をキャンパスに描かられた美しい自然に例えられています。山があり谷があり、山には美しい木が生い茂っている。ところがベンソン先生は一応キャンパスに絵を描こうとされるのですが、ちょっと描いては、「これは、違う」と、ひっこめられてしまうのです。絵の完成などできないのです。哲学にはファンデーション、土台というものが大事です。土台がしっかりしていれば、そこから、てこの原理で、地球のような大きなものも動かすことができるのです。ベンソン先生のアプローチはどこまでも間違いのない論理、土台の追求でした。少し進んで、「これは、違う」と元に戻ってしまうのです。ですから、いくらしてもキャンパスに絵など描けなかったのです、
つづく

 

西部邁の世界(#2)
2019年07月23日(火) 06時47分28秒
西部 邁論(木庵の独断と偏見による)

東大辞職後
東大辞職後は評論活動を続けるとともに鈴鹿国際大学客員教授、2009年(平成21年)3月まで秀明大学教授・学頭を歴任。テレビ朝日系列の討論番組、「朝まで生テレビ」に出演し、保守派論客として知られた。1994年(平成6年)から2005年(平成17年)3月まで、真正保守思想を標榜する言論月刊誌『発言者』を刊行していたが、財政上の理由で廃刊。後継の隔月刊誌『表現者』の顧問を務めた。
<当時の「朝まで生テレビ」を観たが、西部はまだ若い。小田実に押されている感じ。西部が光ってくるのは、死を決意したあたりからである。木庵>

新しい歴史教科書をつくる会に参加し理事の任を引き受けたものの、当初から会の運動とは一定の距離を置いており理事会などへは出席しなかった。
<西部は他人と協調するところなどない。己の世界に閉じこもり、そこから客観的な真実を模索する思想家であると思う。そこが面白いのである。木庵>

2001年(平成13年)8月、船橋市立西図書館のある司書が同館所蔵の西部らの多数の著書を廃棄基準に該当しないにもかかわらず除籍・廃棄した(船橋市西図書館蔵書破棄事件)。

2002年(平成14年)、小林よしのりとともに「つくる会」を脱退。同年、西部は東京西麻布の裏通りにある土地の所有者となり、イタリアンレストラン「ゼフィーロ」という店名で息子をオーナー兼支配人として経営させた。同店は2007年(平成19年)4月に営業終了。
<小林と一緒に脱退したのが面白くない。脱退の理由はそれぞれ違うのだろう。生活のためにレストランを経営することは悪くない。ただ、武士の商法で成功するはずがない。木庵>

雑誌『WiLL』の2011年(平成23年)4月号では大相撲の八百長を擁護した。
<このあたりが西部の魅力あるところである。西部自身、賭博に一時嵌ったことがある。また麻薬も。木庵>

2013年(平成25年)3月1日、佐伯啓思・西田昌司・富岡幸一郎との座談会で「自分の咽頭部に癌ができていると最近知った」と述べた。同年4月22日、首相公邸で内閣総理大臣の安倍晋三、参議院議員の西田昌司、評論家の西村幸祐と会食をした。

2014年(平成26年)3月17日、妻が死去。のちに西部の息子は「父の文章の大部分は母あってのものだと思います。母親の意見とかフィードバックが父の文章にかなりの程度反映されていました」と述べた。
<西部の自死の半分の理由は奥さんにあったのではないか。奥さんがいない人生なんて面白くなかったのだろう。それほどの愛妻家と言うより、敬妻家であったと推測する。木庵>
2017年(平成29年)11月、『表現者』の顧問を退き、執筆活動から引退。西部の執筆活動の実務を担当していた西部の娘も引退した。『表現者』は2018年1月号(2017年12月発売)をもって「第一期」を終了。2018年3月号(2018年2月発売)より「第二期」『表現者』として『表現者クライテリオン』に改題・新創刊するとともに編集体制を変更。藤井聡内閣官房参与・京都大学大学院教授が新編集長に就任した。
<藤井聡は西部から大きな影響を受けている。だから、木庵は藤井にも興味がある。木庵>


自殺の準備
西部は50代の時から自分の生き方の結末を考えていた。55歳の頃には自死への構えがおおよそ定まっていた。2014年に妻と死別して以降はさらにその決意を固めていった。そのころ以降は息子にも自殺を口にするようになり、電話で息子に「お父さんは自殺をすることに決めた」と告げた。健康面では西部は背中に持病を抱えていて激しい痛みに襲われることもあり、皮膚炎や神経痛に悩まされており、重度の頚椎症性脊髄症のため細かな作業や重量のある物を持つことができず、執筆活動が困難になっていた。自殺するまでの数年、親しい人には「死にたい」と漏らしていた。周囲に「ウソじゃないぞ。俺は本当に死ぬつもりなんだぞ」とも語っていた。また娘や息子に迷惑がかからないように人生を終えるといつも言っていた。自殺するまでの数年、木村三浩(一水会代表)に対しては「自分の意思もわからない状態で看取られるのは耐えられない」、「もうそろそろ限界だ」と言っていた。著書などでは「自然死といわれるものの実態は『病院死』にすぎない」、「生の最期を他人に命令されたりいじり回されたくない」、「死に方は生き方の総仕上げだ」と記し、自ら命を絶つ「自裁死」の意思があることを述べていた。2017年夏ごろ、西部は自分が司会を務めるTV番組『西部邁ゼミナール』(TOKYO MX)の編集担当プロデューサーだったMXエンターテインメント株式会社社員Kに自殺についての具体的な計画を知らせ、協力を求めた。Kは東京MXテレビから子会社のMXエンターテインメントに出向し、同番組のディレクターも務めていた。Kは自分にとって大切な人物からの頼みを断るのは人道に反すると考えてその依頼を了承した。同年9月ごろからKはのちに西部が自殺するときに使うロープ、重り、重り用ベルト、懐中電灯などを購入し始めた。同年10月、西部は自分が主催していた私塾「表現者塾」の塾頭を務めたAにも「体がどうにも言うことをきかない。多摩川で自殺するつもりだ。手伝ってくれるか」と依頼した。依頼を受けた2人は、ともに西部の熱心な信奉者として知られていた。元塾頭Aは西部を師と仰ぎ深く尊敬していた。同年11月、西部、A、Kの3人は都内のホテルで西部が自殺をする日時、場所、方法などについて具体的な打合せを行った。自殺現場には東京の西の端、東急東横線多摩川駅近傍である大田区田園調布5丁目の多摩川左岸の河川敷が選ばれた。同月4日、西部はAに「1月20日に決行する」と告げた。西部から依頼を受けた2人は西部の自殺のための道具の購入や現場の下見などの準備をした。Aは西部がのちに自殺する際に使う工事現場用のハーネスを購入して準備した。Aはそのハーネスを勤務先から持ち出し、西部は自殺するときにそのハーネスを着用した。またAは遺書を作成するのに使う中古パソコンも購入した。Kは手の不自由な西部のためにパソコンで遺書を代筆した。酒井孝太郎(産経新聞社会部次長)はのちに「『助太刀』の依頼は、手が不自由となっていたため避けがたかったに違いない」と述べた。木村三浩によると、2人は「西部先生と非常に近く、思想的にも共鳴していた」。富岡幸一郎(文芸評論家)はのちに「2人は西部先生の死生観に共鳴していた、それだけは間違いありません」と述べた。2人について西部の娘はのちに「(父と)Aさんは20年以上、Kくんは10年以上の付き合いでした」、「生前本当によくして下さった方々」、「2人とも真面目で、父が頼まなければ犯罪とは関係の無い人たちでした」と述べた。警視庁捜査1課によると、西部は自殺する前、2人に「ガスで自殺したい」などと話していた。同年12月上旬ごろ、AとKの2人は自殺現場である多摩川の河川敷までの道を下見した。同月、2人は自殺現場付近の下見もした。西部の息子によると、多摩川の河川敷は西部と西部の妻が気にいっていた場所だった。のちに息子は「愛する妻との思い出が残る川辺で死にたかったのだろう」と話した。同月、西部は雑誌『AERA』(2017年12月18日号)で村本大輔(芸人)と対談をした。その際西部は村本と意気投合し、予定時間を延長し3時間に及ぶ政治談義に花を咲かせた。同月の暮れに木村三浩が西部の自宅で話していたとき、西部は「本当は俺はいないんだよ。実は10月22日にやろうと思ったんだ。ところが選挙になっちゃったもんだから、世の中が騒いでいてできなかった。でも来年になったら、間もなくいなくなると思うよ」と述べた。木村が「先生、そんなこと言わないでくださいよ」と言うと西部は「俺は覚悟を決めてるんだから、君が覚悟を決めろよ。受け入れなきゃだめだよ」と述べた。同月末、遺作『保守の遺言』(平凡社新書、2018年2月末刊)の最後となった打ち合わせの席で、西部は担当編集者の金澤智之(平凡社新書編集部)に「1月下旬にはそう(自殺)するつもりだ。この本は死後の出版になる」と述べた。さらに同月末、西部は知人の一人に「私がいなくなったあとは家族をよろしく」と言った。

2018年(平成30年)1月10日、元塾頭AはTV番組『西部邁ゼミナール』の収録で西部と対談をし、同番組最後の対談相手を務めた。その対談の際、西部は「(人間にとって)本当に幸いなのは死ねること。お願いですから死なせてください」と述べた。さらに西部はその対談で、番組のスタッフやゲストと酒を酌み交わし議論することの大切さを説いた。同月15日、西部と木村三浩は駐日ロシア大使館を表敬訪問し、日本とロシアの友好についてロシア代理大使と意見交換をした。その後、西部と木村はテレビ局のスタッフも交えて新宿で24時半ごろまで酒を飲んだ。そのとき西部は「僕はもういなくなるから、会うのは今日でおしまいになるかもしれない」と述べた。翌16日、木村が西部に「昨日はご馳走さまでした」と電話をすると西部は「昨日は会えて楽しかったよ。でも、もう会えないからね」、「君と知り合えて楽しかったよ」と述べた。同月20日夜、Aは西部とKを現場に連れて行くためにレンタカー店でトヨタのヴェルファイアを借りてKと合流した。同日夜、西部は新宿の行きつけの文壇バーに娘とともに来店し、酒を飲んだ。そのバーを出たあと、同日午後11時50分ごろ、西部は新宿御苑付近で「これから会う人がいるから先に帰りなさい」と言って娘を帰宅させた。


写真:西部が自殺した場所
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