空白を満たしなさい

ぜーはーぜーはー言ってます。
ちょっと酸欠です。

同世代の小説家である平野啓一郎さんと言う人は、ずっと気になる存在ではあったんですが、今回初めてこの作品を手にしました。というか、最初は本屋さんで「どんな文章を書く人なのかな?」と試しに1ページくらい読んでみようと思ったんですが、旦那さんが戻ってこない私を呼びにくるまで5ページくらい読んでしまっていました。それくらい導入部分から、引き込まれて・・・これは読まなきゃいけない!と、すぐさま購入。

途中、海外ロケが入ったりして、落ち着いて読める状況じゃなかったので、最近までしばらく読み進むのを中断していたのですが、やはり再開したら、文体、展開の読めないストーリー、それぞれの人物像、その根底を貫いている「分人」という概念、あらゆるものに惹き付けられるように読みました。

実は、この、平野さんが提唱されている「分人」という考え方を私は知りませんでしたが、読みながら、これは私自身もずっとぼんやり抱えていた考えの名前なのでは、と思うようになりました。上手く説明できるか分かりませんが、人はコミニュケーションする相手によって人格みたいなものを変えているというもの。親と接する時の私、夫と接する時の私、ブログで住人のみんなに語りかける時の私、友人A、友人B、友人C、それぞれの友人に会う時の私、どれも微妙に違う。例えば、ある人の前ではかしこまりっぱなしだったり、ある人の前ではなぜかご機嫌で過ごせたり。そう言う違いを「分人」と言ってらっしゃる様です(ってことでいいかな?詳しい方。補足やご指摘お願いします)

で、私自身の話になりますが、人は1つの人格から成り立っている、という前提で、自分を演技しなくてはならなかったり、その自分と言う枠の中にいることをすごく窮屈に感じていた学生時代。多面性といってみたところで、それはなんだか自分の心の未成熟ゆえの凸凹の言い訳のように響いていました。だから、自分の感覚に確固たる自信を持てなかった若かりし日の私は、例えば「きちんとした社会人」というのは、1つの人格の中に自分をきっちりと調和させることが出来る人のことなのかもしれないと思っていたと思います。

ただ、年を重ねると、自然と色んな自分を許容したり受け止められたりするようになりましたし、そう言う自分を思った以上に周囲も受け止めたり受け流したり(笑)してくれていると感じられて、段々、バカボンのパパみたいに「これでいいのだ~!」と、気にならなくなってはいましたが、この本を読んでいて段々思い出してきました。

人は1つの人格からなりたってるのだという刷り込みだか先入観だかは、中学生から芸能活動を始め、一方で普通の学生生活もしていた私にとっては、見えない何かからの脅迫のようにも感じられることもありました。自分が複数いちゃ駄目なのだ、と。それが出来ないのは、私が駄目だからなんだ、と。

そんな、あの頃の私にこの本を読ませたいと思いましたし、あの頃の私のような想いになっている誰かにも、この本を是非おススメしたいです。

って、「分人」についてとか、私の身の上話ばっかり書いちゃったけど、そんなこと抜きにしても、読み物として純粋に面白いです。情景描写や心理描写も巧み。久しぶりに、文章を読む快感を感じました。そして主題、メッセージ。すごかった。故に酸欠です。
平野啓一郎さんの作品、もっと読みたくなっちゃいました。

あ、オススメあります??