ひゅん、と。
瞬間移動するUFOのような早さで、一週間が過ぎていきます。
またたくま。

さて、そんな今週の真ん中、水曜日には、諸岡、人生初、狂言を見て参りました。
お能にしても狂言にしても、ふとテレビを付けた時にやっていると、なんとなーく見てしまう、という程度の経験しかなく、まったくもって何の予備知識もなく見に行ってしまいました。
しかも、睡眠不足気味で会場に向かったために、上演中に眠ってしまい、演者さんや周りの方に失礼なことになりはしないかと心配だったのですが、そんなことまったくもっての杞憂でした。
もう楽しくて楽しくて、ケラケラ笑いながら見させて頂きました。

面白いんですねー、狂言って!

本当にそれが一番に出てくる、素直な感想です。
私が見てきたのは、今、世田谷パブリックシアターで上演中の『狂言劇場 その六』。
野村万作、野村萬斎さん親子が出演されていらっしゃるので、私の狂言鑑賞デビューには贅沢すぎるくらいの公演だったのだと思います。
最近は、日本の映画や歌舞伎を見たりして、アイラブニッポン度合いを深めている私ですが、狂言はまたツッと私の心に入ってきました。

シンプルな舞台。
華美すぎない衣装。
ゆっくりと良く聞こえる声。
比較的分かりやすい日本語。

あとは、なにより登場人物が生き生きとしていること!

これは演じる方の力によるところが非常に大きいと思うのですが、きっと昔の日本人ってこうだったんだよねー、今もきっとどっかにこういう人いるよねーと思ってしまう感じ。

狂言にはよく太郎冠者(たろうかじゃ)という人物が登場するらしいのですが、私はこの太郎冠者が、なーんか、とっても好き。
一緒にちょっと一杯飲みに行きたい(笑。

太郎冠者と言うのは、人の名前ではなく「うちで働く若いもん」、その筆頭格といった人物をあらわすらしいのですが、仕事柄、動き回るために袴をちょっと短めにはいていたりして、その佇まいからしてもう、何だか既に可笑しく見えちゃう人物。
主従関係を出し抜いて、仕事をさぼったり、主人の奥さんを色黒だのお尻が大きいだのと陰口を叩いてみたり、主人の子供を見えないところでいじめてみたり、それはもうありとあらゆる悪さをするんですが、なぜかそれが可笑しくて愛嬌たっぷりに見えてしまうと言う、愛すべきキャラクターなんです。

現代で言えば虐待だ!セクハラだ!と散々に言われてしまうようなことが、狂言の中にはどうやら沢山出てくるらしいんですが、それがかえっていきいきとした生命力のように感じられるし、なにより笑いになっているんです。
人間関係も重苦しくなくて、軽やか。ストレスフリー。
でもそれって実は、どこか精神的に成熟しているからこそなせる技だったりして、とにかく、人として妙に魅力的なんです。

私が見た『縄綯(なわない)』という演目なんて、太郎冠者は、主人が博打で作った借金のカタに売られてしまうという、実は凄まじく悲しい人生なんですが、売られた先でも飄々と生きてしまっているし、あーだこーだといって仕事をさぼったりもするんですが、その先は恨みつらみを並べ立てるよりも、むしろ今目の前に「なーんか面白ーいことなーいかなー♪」という風。

悲劇を喜劇に、辛苦を笑いに転換すると言うのは、素晴らしくエネルギーに満ちた、クリエイティブな生き方。
だから、これを見た後はこちらまでちょっとエネルギー頂いちゃうし、クリエイティブになれちゃう感じがしました。

というか、笑うって快感ですよね。
気持ちがいい。

その辺りが、初心者の私にとっての狂言の魅力です。

あ、もうひとつあった!
何にもない舞台に、衣装を身につけた演者さんが登場してくると、後はもう演技と言葉の力でどんどん空間を作り上げていくんです。見えない柱がさっと目の前に立って、玄関になったり、野に出たり、仕事場になったりと、場面転換をしていく鮮やかさは、とっても味わい深いなぁと感じました。
そこにある情報が少ないからこそ、集中できるし深く入り込んでいける。

人がつくるもの、やっぱり、面白いなー。
伝統に裏打ちされているものはまた、きちんとそれなりだし。
こういったものに出会えると、本当に豊かだなーと思ってしまいます。
感謝。