炭坑がだめになってから、目に見える所では、すぐに潰れてしまう遊園地を作って借金を重ね、自分の首をぐいぐい絞めていくような大牟田市の在り方を、私は当時とても嫌悪していました。
一攫千金。
そんな気持ちだったんじゃないだろうか。
ゴールドラッシュみたいに、黒ダイヤラッシュの恩恵を浴びるように受けてきた偉い人たちは、バブル経済にも背中を押されて、ほんのちょっとやり方を変えれば、再びザクザクお金が湧いて出てくると思っていたんじゃないだろうか。
なんとなく、私の育った環境の中にはそう言う雰囲気がありました。まず、三井から仕事を受けていた会社の三代目である私の父親・・・って、そんなことを書き始めると、物凄く脱線してしまいそうだから、このくらいにしておきますが、何しろ、失敗を恐れないと言うよりは、失敗を想定したくないような空気があったように思います。
また、私は子供の頃、自宅近くの自然が織りなす風景には違和感を感じませんでしたが、大牟田市街や工場を含む町並みを、到底美しいとは思えませんでした。ぬらりと淀んだ川、狭い道を偉そうに走っていくダンプカーの排気、情緒のないコンクリートの建物、昼間は全部見えてしまう看板のネオン管、道端に落ちている絶対土に帰らないゴミ、いつか怖い顔で私を取り囲んだ女の先輩達の脱色され傷みきった髪。都会に憧れながら都会的なセンスが微塵も感じられない、その佇まい。
テレビや雑誌の中にある東京や西洋の風景と違いすぎていて、私ははやくもっと本物の、洗練された景色の中へ行きたいと思っていました。でも、今思うとそんな私も、結局はいかにも資本主義的、社会ダーウィニズム的(←覚えたての言葉ですが)な幻想を抱いていたんだと思います。
そして、東京に出てからしばらくの間も、確かに子供のころの良い思い出やそこからくる郷土愛はあるのに、出身地を聞かれると、石炭産業斜陽化の時代、また三池炭坑閉山後の大牟田市をどう形容していいのか困り、へらへらとお茶を濁すか、高齢化の最先端をゆく借金だらけの街、なんて皮肉な笑いを浮かべたりしていました。きっと石炭なんて言っても、同級生や東京の人たちには、何の面白みもないものだろうと思っていましたから。
今思えば、そんな私もどこか、知らない内に大牟田の歴史を「負の遺産」と捉える側の人間になっていたのかもしれないです。
だからでしょう。
昨日、熊谷監督にお会いして、色々なことをうまく説明できない自分自身に、内心、唖然としていました。大牟田市の歴史を私以上に知っているこの方に、何を隠すことがあるだろうかと思うものの、私は何かを繕いたい衝動にかられていたのかもしれません。多分、幼い頃から色々な年代ごとに感じてきた、私の中の整理しきれない大牟田市への想い。話し出すと嫌なことも良いこともごちゃ混ぜになり、意味不明になってしまいそうで、上手く初対面でも伝えられそうな言葉を探すものの、緊張もあってか、そんなものは私の中には簡単に見付け出せませんでした。
私は、たった30年程度抱いてきた感情さえうまく話せないのに、映画『三池 終わらない炭鉱の物語』の中の皆さんは、かつて自分の身に起こった出来事を、まるで昨日のことのように淀みなく話していらっしゃいます。何十年も黙し、押し殺し、こらえ続けた感情だろうに。
絡まるなんて程度のものじゃない、もっと重く苦しく悲しく固い感情。
だけど、その上には、苦難に立ち向かって地道に積み重ねられた一日一日があり、極限状態に追いやられても人として誇りを失わない尊い強さが、それぞれの立場から語り出され、映し出されています。
私の中途半端な想いは言葉にならないけど、本物は偽りようがなく、どんな角度から映してもリアルな重みを持つ言葉として発せられていました。
囚人労働、
強制連行、
差別、
三池争議、
落盤事故、
一酸化炭素中毒・・・
それらはすべて、負の遺産という大きな風呂敷で一緒くたにされ、目立たない場所に置かれていました。あわよくば葬り去らんとばかりに。今でも苦しみや病と闘っている人がいるのに。その証言をできる人が1人、また1人と亡くなっていっていると言うのに。
でも、ある部分では過去に葬ってしまいたい思いもわかる気がします。事故により一酸化炭素中毒の患者を持ったご家族が、ただでさえ辛く悲しいのに、親族の変わり果てた姿を晒しものにしたくない、とにかくそっとしていて欲しいと言うのは、私でも感じることなんじゃないかと思いますし、また、たくさんの囚人が拷問を受けたような場所に、距離をおいてしまいたくなる気持ちは私にもあります。
まして、多くの企業や若い力を地域に呼び込みたい行政が、自ら「負の遺産」と呼ばれているものをさらけ出すというのは、とても危険な賭けとも言えるでしょう。それよりは、全て忘れてまったく新しい社会を築き上げたいというのも、1つの考慮すべき市の方向性かもしれません。
ですが、この映画『三池 終わらない炭鉱の物語』の制作のきっかけを作ったのは、なんと行政の方でした。当然、財政難に喘いでいた大牟田市ですから、制作にかかる予算が簡単に下りるはずもありません。それでも、3年がかりで企画書を通し、今しか記録できないものを残そうと努められた方々がいらっしゃいました。それこそが、あの日のエントリーにコメントを残して下さった吉田さん(!)をはじめとする方々だったそうです。
こんなことを書いていいのか分かりませんが、私はこんな映画が作られていたと言うことを知っただけでも驚き感動していたのに、どこか頼りないと思っていた行政側の方々が、こんな文化的な事業に力を注がれていたと知り、本当に驚き感動しました。
制作が始まってからも、行政や市民や撮影部隊が一丸となり、時間をかけて丁寧に取材・撮影は敢行され、かつてマスコミに追い立てられて心に深い傷を負った方々も、この制作チームの熱心さ、誠実さに、段々と心を開かれたのだそうです。
私には、そんな風にこの映画が作られたことは、大牟田市の余りに重要な一歩、前進だったと思えて仕方がありません。
自分勝手な見方なのかもしれませんが、一時はあれほどまでに栄えていた大牟田市にどうして美術館も大学もないのか(今は短期大学があります)、どうして財政的に余裕のある時に次の世代への文化的な投資をしなかったのか、私は昔の人々のことをとても疑問に思っていました。そして、どうして石炭に用がなくなったら、空き缶かなにかのようにポイッと町ごと使い捨てにされてしまうのかと、何か見えない大きなものに対して強い反感を抱いていました。
だけど、そう言った個人的な想いが、『三池 終わらない炭鉱の物語』をみて、少し救われたような気がしました。大牟田市は自らの誇るべき、また到底誇れない歴史もあわせて記録したことで、ようやくここから文化的な財産を次の世代に残していけるのかもしれないと思えたからです。
また、近代化遺産とひと言で言うと、何気ない歴史の1ページのようですが、それは、日本古来の文化と、戦後の西洋的な文化との境目にある、激動の瞬間に産み落とされた一種異様なものです。
お城や神社仏閣のような洗練された美しさはありませんが、立坑櫓は現在、雑草の生い茂る中にのっそりと立ち、近くの工場群のあちこちに張り巡らされたパイプは、まるで悲哀に充ちた巨大な生命体の血管のようです。またレンガ作りの建物や旧三井港倶楽部のような場所は、そこだけ外国の領土のようにも見えます。それはそのまま、その時の日本の不格好さ、まじめさ、悲しさを映し出しているのだと思います。そう感じられれば、子供の頃には到底美しいと思えなかった景色も、途端に心を魅きつける力を持ったものとして生まれ変わって私たちの前に現れてきます。
私は今では、大牟田の夏の強い陽射しに照らされ、陽炎の中で朽ち果てそうにさえ見える景色が、たまらなく好きになってしまいました。本物の歴史を持つ景色。シャッター通りや港を歩けば、50年前、100年前の人たちの姿が、時々その景色の中に見えるような気がします。
近代化、戦後復興に大きく寄与した石炭産業。そんな事実さえ、戦争に負けたと言う負の記憶とともに、負の遺産として忘れ去られてしまいかねませんが、戦争に負けても誇りを持って生き、ひたむきに働き、国を立て直してきたその記憶も、『三池 終わらない炭鉱の物語』のなかには感じ取ることができます。そこには、忘れてはならないたくさんの教えが、目をこらし耳を傾ける度に見つけ出すことができます。
私個人のルーツである大牟田。
そして、現代に繋がる日本の歴史を語る上でも欠かせない石炭産業。
それをここまで記録して下さった熊谷監督に、心から感謝したいと思います。
そして、そんな熊谷監督の心を動かした大牟田の行政の方々にも、心から感謝したいです。
また、まだまだたくさんの人に見て貰わなくてはと動き回っておられるスタッフの方々を、私も出来る限り応援できればと思います。
って、はー、はー、ぜー、はー。
長くなりましたが、『三池 終わらない炭鉱の物語』を見ての感想、そして、監督にお会いして再認識したことなどを書きました。やっぱり簡単に書けるもんじゃなかったわ(汗。ぜー、ぜー、はー、はー。
気合い入れた書いたものの、まだ紡ぎたてほやほやなので、今後読み返した時にちょっと手直しを入れるかもしれません。が、その辺り、ご了承くださいませ。
それにしても、熊谷監督は、全くと言っていいほど飾りっ気がなく、ディレクターとしてのシャープなまなざしとともに、お嬢さんがそばにいるとほんのり丸い心をのぞかせる、とても素敵な女性でした。初めてお会いした私にも、本や資料をじゃんじゃん出して下さるような、惜しみなく与える方。そんな印象です。
ちなみに、次回はお酒をご一緒する予定です(笑。
にひひ。
一攫千金。
そんな気持ちだったんじゃないだろうか。
ゴールドラッシュみたいに、黒ダイヤラッシュの恩恵を浴びるように受けてきた偉い人たちは、バブル経済にも背中を押されて、ほんのちょっとやり方を変えれば、再びザクザクお金が湧いて出てくると思っていたんじゃないだろうか。
なんとなく、私の育った環境の中にはそう言う雰囲気がありました。まず、三井から仕事を受けていた会社の三代目である私の父親・・・って、そんなことを書き始めると、物凄く脱線してしまいそうだから、このくらいにしておきますが、何しろ、失敗を恐れないと言うよりは、失敗を想定したくないような空気があったように思います。
また、私は子供の頃、自宅近くの自然が織りなす風景には違和感を感じませんでしたが、大牟田市街や工場を含む町並みを、到底美しいとは思えませんでした。ぬらりと淀んだ川、狭い道を偉そうに走っていくダンプカーの排気、情緒のないコンクリートの建物、昼間は全部見えてしまう看板のネオン管、道端に落ちている絶対土に帰らないゴミ、いつか怖い顔で私を取り囲んだ女の先輩達の脱色され傷みきった髪。都会に憧れながら都会的なセンスが微塵も感じられない、その佇まい。
テレビや雑誌の中にある東京や西洋の風景と違いすぎていて、私ははやくもっと本物の、洗練された景色の中へ行きたいと思っていました。でも、今思うとそんな私も、結局はいかにも資本主義的、社会ダーウィニズム的(←覚えたての言葉ですが)な幻想を抱いていたんだと思います。
そして、東京に出てからしばらくの間も、確かに子供のころの良い思い出やそこからくる郷土愛はあるのに、出身地を聞かれると、石炭産業斜陽化の時代、また三池炭坑閉山後の大牟田市をどう形容していいのか困り、へらへらとお茶を濁すか、高齢化の最先端をゆく借金だらけの街、なんて皮肉な笑いを浮かべたりしていました。きっと石炭なんて言っても、同級生や東京の人たちには、何の面白みもないものだろうと思っていましたから。
今思えば、そんな私もどこか、知らない内に大牟田の歴史を「負の遺産」と捉える側の人間になっていたのかもしれないです。
だからでしょう。
昨日、熊谷監督にお会いして、色々なことをうまく説明できない自分自身に、内心、唖然としていました。大牟田市の歴史を私以上に知っているこの方に、何を隠すことがあるだろうかと思うものの、私は何かを繕いたい衝動にかられていたのかもしれません。多分、幼い頃から色々な年代ごとに感じてきた、私の中の整理しきれない大牟田市への想い。話し出すと嫌なことも良いこともごちゃ混ぜになり、意味不明になってしまいそうで、上手く初対面でも伝えられそうな言葉を探すものの、緊張もあってか、そんなものは私の中には簡単に見付け出せませんでした。
私は、たった30年程度抱いてきた感情さえうまく話せないのに、映画『三池 終わらない炭鉱の物語』の中の皆さんは、かつて自分の身に起こった出来事を、まるで昨日のことのように淀みなく話していらっしゃいます。何十年も黙し、押し殺し、こらえ続けた感情だろうに。
絡まるなんて程度のものじゃない、もっと重く苦しく悲しく固い感情。
だけど、その上には、苦難に立ち向かって地道に積み重ねられた一日一日があり、極限状態に追いやられても人として誇りを失わない尊い強さが、それぞれの立場から語り出され、映し出されています。
私の中途半端な想いは言葉にならないけど、本物は偽りようがなく、どんな角度から映してもリアルな重みを持つ言葉として発せられていました。
囚人労働、
強制連行、
差別、
三池争議、
落盤事故、
一酸化炭素中毒・・・
それらはすべて、負の遺産という大きな風呂敷で一緒くたにされ、目立たない場所に置かれていました。あわよくば葬り去らんとばかりに。今でも苦しみや病と闘っている人がいるのに。その証言をできる人が1人、また1人と亡くなっていっていると言うのに。
でも、ある部分では過去に葬ってしまいたい思いもわかる気がします。事故により一酸化炭素中毒の患者を持ったご家族が、ただでさえ辛く悲しいのに、親族の変わり果てた姿を晒しものにしたくない、とにかくそっとしていて欲しいと言うのは、私でも感じることなんじゃないかと思いますし、また、たくさんの囚人が拷問を受けたような場所に、距離をおいてしまいたくなる気持ちは私にもあります。
まして、多くの企業や若い力を地域に呼び込みたい行政が、自ら「負の遺産」と呼ばれているものをさらけ出すというのは、とても危険な賭けとも言えるでしょう。それよりは、全て忘れてまったく新しい社会を築き上げたいというのも、1つの考慮すべき市の方向性かもしれません。
ですが、この映画『三池 終わらない炭鉱の物語』の制作のきっかけを作ったのは、なんと行政の方でした。当然、財政難に喘いでいた大牟田市ですから、制作にかかる予算が簡単に下りるはずもありません。それでも、3年がかりで企画書を通し、今しか記録できないものを残そうと努められた方々がいらっしゃいました。それこそが、あの日のエントリーにコメントを残して下さった吉田さん(!)をはじめとする方々だったそうです。
こんなことを書いていいのか分かりませんが、私はこんな映画が作られていたと言うことを知っただけでも驚き感動していたのに、どこか頼りないと思っていた行政側の方々が、こんな文化的な事業に力を注がれていたと知り、本当に驚き感動しました。
制作が始まってからも、行政や市民や撮影部隊が一丸となり、時間をかけて丁寧に取材・撮影は敢行され、かつてマスコミに追い立てられて心に深い傷を負った方々も、この制作チームの熱心さ、誠実さに、段々と心を開かれたのだそうです。
私には、そんな風にこの映画が作られたことは、大牟田市の余りに重要な一歩、前進だったと思えて仕方がありません。
自分勝手な見方なのかもしれませんが、一時はあれほどまでに栄えていた大牟田市にどうして美術館も大学もないのか(今は短期大学があります)、どうして財政的に余裕のある時に次の世代への文化的な投資をしなかったのか、私は昔の人々のことをとても疑問に思っていました。そして、どうして石炭に用がなくなったら、空き缶かなにかのようにポイッと町ごと使い捨てにされてしまうのかと、何か見えない大きなものに対して強い反感を抱いていました。
だけど、そう言った個人的な想いが、『三池 終わらない炭鉱の物語』をみて、少し救われたような気がしました。大牟田市は自らの誇るべき、また到底誇れない歴史もあわせて記録したことで、ようやくここから文化的な財産を次の世代に残していけるのかもしれないと思えたからです。
また、近代化遺産とひと言で言うと、何気ない歴史の1ページのようですが、それは、日本古来の文化と、戦後の西洋的な文化との境目にある、激動の瞬間に産み落とされた一種異様なものです。
お城や神社仏閣のような洗練された美しさはありませんが、立坑櫓は現在、雑草の生い茂る中にのっそりと立ち、近くの工場群のあちこちに張り巡らされたパイプは、まるで悲哀に充ちた巨大な生命体の血管のようです。またレンガ作りの建物や旧三井港倶楽部のような場所は、そこだけ外国の領土のようにも見えます。それはそのまま、その時の日本の不格好さ、まじめさ、悲しさを映し出しているのだと思います。そう感じられれば、子供の頃には到底美しいと思えなかった景色も、途端に心を魅きつける力を持ったものとして生まれ変わって私たちの前に現れてきます。
私は今では、大牟田の夏の強い陽射しに照らされ、陽炎の中で朽ち果てそうにさえ見える景色が、たまらなく好きになってしまいました。本物の歴史を持つ景色。シャッター通りや港を歩けば、50年前、100年前の人たちの姿が、時々その景色の中に見えるような気がします。
近代化、戦後復興に大きく寄与した石炭産業。そんな事実さえ、戦争に負けたと言う負の記憶とともに、負の遺産として忘れ去られてしまいかねませんが、戦争に負けても誇りを持って生き、ひたむきに働き、国を立て直してきたその記憶も、『三池 終わらない炭鉱の物語』のなかには感じ取ることができます。そこには、忘れてはならないたくさんの教えが、目をこらし耳を傾ける度に見つけ出すことができます。
私個人のルーツである大牟田。
そして、現代に繋がる日本の歴史を語る上でも欠かせない石炭産業。
それをここまで記録して下さった熊谷監督に、心から感謝したいと思います。
そして、そんな熊谷監督の心を動かした大牟田の行政の方々にも、心から感謝したいです。
また、まだまだたくさんの人に見て貰わなくてはと動き回っておられるスタッフの方々を、私も出来る限り応援できればと思います。
って、はー、はー、ぜー、はー。
長くなりましたが、『三池 終わらない炭鉱の物語』を見ての感想、そして、監督にお会いして再認識したことなどを書きました。やっぱり簡単に書けるもんじゃなかったわ(汗。ぜー、ぜー、はー、はー。
気合い入れた書いたものの、まだ紡ぎたてほやほやなので、今後読み返した時にちょっと手直しを入れるかもしれません。が、その辺り、ご了承くださいませ。
それにしても、熊谷監督は、全くと言っていいほど飾りっ気がなく、ディレクターとしてのシャープなまなざしとともに、お嬢さんがそばにいるとほんのり丸い心をのぞかせる、とても素敵な女性でした。初めてお会いした私にも、本や資料をじゃんじゃん出して下さるような、惜しみなく与える方。そんな印象です。
ちなみに、次回はお酒をご一緒する予定です(笑。
にひひ。