雨の音がしとしとと聞こえる東京から、イメージの中でもう一度バリへトリップ。

雨期から乾期へと移り変わるバリ島。激しい雨が肉厚の植物の葉の上にザブザブと注ぐと、その力で葉の方はごくごく短い幅の振動を繰り返して、自然界の出来事とは思えないような痙攣をする・・・かどうかは分からないのですが、でも、バリで見たレゴンダンスの女性達の動きは、まさにそんな、自然界らしからほど、超自然的なうごめきを、体で表現している様に見えました。

緩急の激しさ。
指先までピンと伸ばしきっているが故に反り返る手。
曲線的と言うよりも直線と直線の合わさったフォルム。
どれも、そう簡単に真似できないし、そう簡単に忘れられない。そして、簡単に目をそらすことも出来ないような凄まじさ。

何より、あの眼球の動き。
眼までがガムランのリズムとともに踊りの中に取り入れられているんです。

考えてみて下さい。
どこかで踊る自分を。
心地よく目を閉じたり、足元が気になってみたり、気になる誰かを盗み見たり、誰かと目が合いそうになったらそらしてみたり、ついついどこか一点を見つめてしまったり。

目は口ほどにものを言うと言いますが、目は、いつもなんて自由に動き回っていることでしょう。正に、心なみに自由に動き回っているかもしれません。それに比べると、口なんて、簡単には動けません。何かを言おうったって、言葉が上手く出てこなかったり、言葉を発してはならないときだってたくさんあります。でも、目は、誰かに見られていない限り、また、目の近くの筋肉に誰かが触れていない限り、その動きを人に悟られることがありません。動くことで、音も匂いも光も発さない目は、私たちの身体の中でも相当自由に動き回ります。
だからこそ、私たちは簡単に目をコントロールすることができないような気がします。心や脳からの信号に対して、反応が早い。ついつい見たいものを見てしまいます。

でも、バリ舞踊は違います。

自分の指先を目で追うと言うこともしないし、まして、観客の反応をこそっと伺い見るようなこともしません。秩序ある四肢の動きとともに、目も踊るのです。
右を見て、左を見て、右を見て、真下を見る。そんな動きをなんども繰り返したり、目からビームをだして辺りを照らす様に中空を往来したり。

超自然。

ほんと、この言葉がぴったり。

数人の女性達が同じ衣装を身につけて同じ動きをするのですが、それが揃えば揃うほど、体型の違いが分かって来たり、そうすると、まるで色々な植物が混在している森のように見えて来たり、また、その背景には目には見えないガムランの音が秩序を作り出していたり、そんな空間全体がまるで超自然、神のエネルギーに満たされている様に感じられてきます。

あのレゴンダンスを舞台の袖で見ている時、私は本当にドッキドキしました。こんなものがあるのか!と。

確か、学生のときの小論文に、ガムランは、それぞれの楽器がまったくちがう時間を刻んでいて、それがときどき奇跡的に一致する瞬間がある、と言うようなこと何かの文献から引用しました。

異質なもの同士が1つの音楽の中にいる。
とてもアジア的で素敵な感覚です。まさしくバリには、雑多なものをそのままに受け入れる、包容力と言うよりももっと大きな受容する力があるように思います。

そこには、大学の別の授業で学んだ、バリのヒンドゥーの宗教観も大いにインスピレーションを与えていると思います。といっても、こちらもうろ覚え(汗)だけど、確かブタという道端にたくさんいる神様や、バリアンと呼ばれる人たちが使うブラックマジックやホワイトマジックの飛び交う空というイメージ。山のある方が清らかな方角で、海が穢れた方。だけど、だからって海やブラックマジックを否定するのではなく、悪は悪としてそのまま存在を受け入れる。
清濁あわせ飲む。
私の中のバリはそう言うイメージで彩られていたので、とくに色々なものにそのフィルターがかかってしまっていると思いますが、でも、やっぱり、私を裏切ることのなかったあのバリの神々しい音楽とダンス。

一瞬でしたけれど、とても喜びに溢れたひとときでした。

今も、東京は雨の音が、しとしと、ひたひた。
こんな湿った空気は、私をバリに連れ戻します。

(って言っても、たった3日間の滞在だったのだけど。それも居心地のいいリゾートホテルの中で・・・笑)