神の如きおカミさんは、翌朝7時半に朝食とおにぎり弁当を用意し、私の水筒にあたたかい番茶を入れて、継桜王子まで車で送って下さいました。
「この先、小広王子まではこういうアスファルトの道が続きますけど、その先は完全に山道ですからね。頑張って下さい!」
「本当にありがとうございました!助かりました!!」
「なんだか、忘れられないたびになりそうですね、うふふ。」
と、温かく軽やかに見送って下さいました。車をUターンさせた後にも手を振り合うその場面に活力を得て、いざ、熊野古道を歩かん!



この通り、霜の降りた山間の道は、歩いていると外に出ている顔面や耳がキンと冷たくなる寒さですが、神保町でのお買い物ですっかり防寒できていたので、ニンマリ軽快なステップで歩きはじめました。あー、爽快。

歩きはじめて45分ほどで小広王子前を通過し、キレイに整備されていた公衆トイレ前で山に入る準備、といっても、ちょっとお菓子をつまんで温かいお茶を飲んでこの先しばらくトイレに行きたくならないように用を足し、心の準備をして森の中へ。

いや、びっくりしました。
森の中は、入った途端に本当に深い森の中。
というか、峠!!山場!!
目の前には土の中に木の板と杭を打ち込むことで作られた階段がずらーっと上に向かって並んでいます。

現代に生きる私たちは、峠と聞くと山の上を越えていく道、車でブーンとカーブを曲がっていく道を想像しますよね。しません?
でも、峠って、本当はこれなんだ!!と。
峠って、峠を越えるって、こういうことなんだ、と思い知りながら、その峠を登りました。
当然、いきなり激しい息切れ。
私って、ヤワな身体になっちゃってる。



でも、その峠の道は、なんとなく優しい。
古くから、人がその上を歩くことで踏み固められて来た、小さな小さな道。その上には、たくさんの枯れ葉が積もって、それが腐ったり、踏まれて粉々になったりして、トレッキングブーツを履いた厚いソールの裏からもふわりとした柔らかさが伝わってきます。ただ、急な坂道でのそれは、少々怖く、体重の掛け方によってすごく安定したストッパーになったり、また、漫画に出てくるバナナの皮のようにツルリと滑る危険なものになったり。私は自分の身体のどこかにインプットされている、山道の歩き方を探り出しながら、そおっとその上を歩きます。次第に、普段使いきれていない足の筋肉や神経、お腹の力が、自然の中を歩くためのものに変わっていきます。

ま、でも、「ぜーはーぜーはー」息切れは止まりませんが、妙な集中力と根性みたいなもので、峠をひとつ、ふたつ、ぜーはーぜーはー、よいしょっ、こらしょっ、はい、みっつぅぅぅぅ!!!と越えていきます。

峠一つ越えると、それをまた下る訳で、下るとそこには大体、小さな川が流れています。そこにはこんなキレイな景色もありました。




朝日の照らす方へ伸びている川。
鬱蒼とした暗い森の道を歩いていたかと思うと、辺り一帯が柔らかい日だまりになっている場所に出たり。
この川沿いを歩いている時には、新しい鹿の落とし物(笑)も発見。きっと水を飲みに来ているんだろうなぁと思って、辺りを見回しましたが、森の動物たちを見つけることは出来ませんでした。でも、確かにいるんだなぁと、その落とし物をまじまじと眺めて、嬉しくなったり。



これは、コケと思われるもののドアップ。
赤木分岐点にて。
なんだか生命力を感じます。普段東京で生きている私とは全く何の関係もないところで、繁殖して輝いているのだな。うーん。



これは、将来の、桜の花。小さな目がたくさん出ていました。熊野の桜。これは、私の一つの憧れ。私の尊敬する白洲正子さんもこの道を歩いたというし、その著書の中で西行の桜に関するこんな歌を紹介されています。

 待ちきつる八上の桜さきにけり
 荒くおろすな三栖の山風

八上というのは、もっと田辺に近い方の地名みたいですが。






この2枚は、同じ場所で撮影したものですが、1枚目は、念願の熊野の峰々を眼下に見下ろした時の感動。2枚目は、その峰々が繊細な色彩で折り重なっている様子。ため息。ひとつひとつの稜線の上に、仏様を思います。なんてったって、この旅の最中に読んでいた『照葉樹林文化とは何か』の本の中に、山上他界という言葉を読んだばかりだったから。
山上他界とは、誰しも亡くなったらふるさとの山の上に昇って、里を見下ろしているという考え方。その意味で、この山の尾根を歩いていた時の私は、一瞬、仏様のひとりとなって死んだ状態。山伏の修行も、野山を駆け巡って一度死に、この世に生まれ直すという意味があるそうです。これは、私が大学生の時に得たわずかな知識の中からの解説です。てへ。



でも、そう言う山の中には、生命力溢れるものがいっぱい。
子供の頃から、シダが好き。
人の歴史よりもずっと古い原始の時代を思わせます。



そうして、森の木々をかき分けるようにして、最後の峠を下り、



たどり着いたのは、湯の峯。
硫黄の匂い漂う小さな、そしてとても古い温泉街。
人里におりてくると、はい、新生・諸岡なほ子、誕生。
生まれ直し!

人によっては、赤木分岐点を赤木越えのルートを通らず、そのまま熊野本宮大社に歩いていくのですが、私はこの湯の峯温泉で湯垢離(ゆごり)といって、身体に着いた不浄なものを洗い清めて本宮さんを目指すことにしました。なぜって、折角の旅ですもの。温泉、温泉♪

という訳で、前もって予約していた宿へ、慣れない激しい運動に笑う膝で、まるで生まれたての子馬のように頼りない足取りで向かいました。

つづく