三十三 鳴子―赤倉温泉駅  6月28日 12km | 杏下庵

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鳴子御殿駅を十時に歩き出す。遠くになると歩き始めが遅くなる。橋を渡り、旧道を歩くが、尿前の関付近に先江合川が渡る橋がないので、再度鳴子温泉駅の手前で右岸(川は、河口に向いて左右とする)に戻る。観光案内所で、「おくのほそ道散策マップ」を入手した。封人の家までの詳しい地図で助かる。尿前の関近くで旧道に戻る。尿前坂、薬師坂と急登が続く。ようやく平坦なところに出ると一息つける。しかしそのまま小深沢へ下り、また上りとなる。ふるさとの森の平坦地を通過すると再び大深沢への下りとなり、沢を渡ると登りを繰り返す。中山平に到着するとホッとする。中山峠はどこだったのだろか。峠と国境と分水嶺がそれぞれ異なっている。
以前訪れたことのある中山平温泉駅近くのシントロのレストランで昼飯を取る。このような山道を歩く場合、開いている飯屋で食べしまうに限る。事前に店を確認できたとしても、店を閉じていたり休業だったりすることがよくある。本日も、一件のラーメン屋が閉まっていた。
中山平温泉駅近くにある本日の宿泊旅館に荷物を預けてまた出発する。宿は駅の出入り口と反対にあり、踏切まで回らなければならない。近道はないかと宿の主人に尋ねたら、最近巡視が厳しくなっているので回ってくれとのことだ。かつての宿場である中山宿で国道から別れ山道に入る。この中山宿は一六二五年に設けられたとのことである。芭蕉が尿前の関から険しい山道をいくつも越えて封人の家にようやくたどり着いているが、どうしてこの中山宿に泊まることにならなかったのだろうか。この先の山道は前に比べてだいぶ歩きやすい。森の中に甘酒地蔵のお堂がある。義経一行の逃避行中、日が暮れてしまったところ山猿が甘酒で接待してくれた。そのお礼に弁慶が御堂を立てたものだという伝承が説明してある。山猿というのはどうも比喩ではないかと思う。平安時代には、旅人もほとんどいない山道であるので、おそらくマタギのような人に出会ったのではないだろうか。この出羽街道は芭蕉が西へ旅したのに対し、義経は東へ向かって逃げている。義経好きの芭蕉も、義経に関する様々な伝承を伝える石仏や石碑に感慨をもって歩いていたことだろう。
国道にでたところが、宮城、山形県境である。すぐに封人の家に到着する。以前に見学しているのでこのまま通り過ぎようかと思っていたが、時間に余裕があり休息のつもりで見学する。見学者は誰もいなかった。三時頃に外国人のグループが来るそうだ。外国人がグループで奥の細道を歩き、明日はまた山刀伐峠を歩くという。芭蕉のおくのほそ道も国際的、どころか国際的オタクまで出始めている。山刀伐峠のガイドマップを入手した。この先、旧街道は国道と付かず離れずしているようだが、旧道の分岐点がよくわからないため、そのまま赤倉温泉駅に向かった。山刀伐峠越えを考えると。本日の宿は赤倉温泉の方が便利がいいのだが、梅雨時で天気が分からないので、いざという時に列車で新庄に抜ける選択肢を持つために中山平温泉駅の近くの宿にした。