萱野稔人.2023.『国家とはなにか』.筑摩書房 | 杏下庵

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特定の目的をもって国家を特徴づけることもできない。目的ではなく手段によってである、とウェーバーはいう。あらゆる国家にみいだされる暴力行為という手段によって国家を定義すべきである、と。(17)国家が他の暴力を取り締まるからといって、それを正義の実現だとかんがえてしまう素朴な発想はやめなくてはならない。暴力の合法性が確立されるのは、その暴力がみずからを合法的だと主張することによってでしかない、というトートロジーである。(37)アーレントの危倶は、手段としてもちいられる暴力が目的を圧倒して、独り歩きをはじめてしまう可能性に向けられている。手段としての暴力に頼りすぎることは、「政治体全体に暴力の実践がもちこまれる」ことを帰結し、「世界がより暴力的になる」事態をもたらすのだ。そこでは、手段という枠のなかで暴力が行使されるのではなく、暴力を行使することそのものが目的となってしまうような事態が生じるのである。(91-92)富の獲得が問題になっているときにこそ、暴力は自律的な手段となる。 (107)富の我有化があればいたるところに敵は発生しうる。国家の基礎は、富の我有化と暴力の蓄積との循環的な運動のなかにこそ見いださる。 (109)税の徴収がなりたつためには、税を徴収する側にすでに暴力の優位性がなくてはならない。暴力の格差が税の徴収に先だつのである。 (113)所有とは、国家による我有化がいったんは介在しなくてはならない。富を徴収する暴力を背景にしてはじめて、特定のモノが特定の個人に帰属するという事態が確立される。(133)主権国家体制とは、近代における国家のあり方を特徴づけるもっとも基本的な枠組みにほかならない。主権システムの成立は、国家が社会のなかで暴力への権利をもった唯一の審級となることと切りはなせない。 (176-177)国民国家が形成されてきたプロセスとは、国家の暴力が住民のもとへと「民主化」されてきた過程にはかならない。ここでいう「暴力の民主化」とは、国家の暴力の主体が、特定の武力集団から住民全体へと移行するということを意味している。個別具体的な人間関係や生活環境をこえて暴力の組織化がおこなわれるためには、そのメンバーがおなじ言葉をはなし、共通の文化資本をもつことが不可欠だ。公教育の実践をつうじて、住民たちはひとつの文化的共同体に属するものとして承認しあうようになっていく。住民は、国家の暴力を担うようになるにつれて、しだいに国家の決定に参与しうるような資格をあたえられていく。国民国家はその形成をつうして、住民たちを文化的に統合していくとともに、身分的な垣根をとりはらうことで形式的にせよ平等主義を実現してきた。それは住民たちに、国家の暴力の実践へと身を投じるよう強要することと引きかえに、政治的なものへの平等なアクセス権を保証したのである。 (216-218)
場所確定と秩序形成とのつながりを断ちきるところに、脱領土的な国家形態の特徴があるのだ。グローバルな経済的領野を整備し、保守し、ルールを定め、そしてそのルールを受け入れないものを駆除することが、それら国家の役割となる。国家による暴力の実践はこのとき、たがいに連合しながら世界警察的な性格を帯びていく。(291-292)資本主義は国家を廃絶しない。資本主義は、国家のローカル性を超えるような脱領土的な世界性をはじめからもっていた。資本の流れが既存の国家のキャパシティを凌駕するたびに、国家はみずからの形態をその流れに適応させていく。そこでは、国民国家の枠をこえた国家形態の出現すら、理論的にはありうるだろう。 (295)