司馬遷の史記にある伯夷列伝の「伯夷叔斉(はくいしゅくせい)」が一昨日の稽古のお題目だった。
伯夷叔斉は、中国の殷・周の交代期のころ伯夷と叔斉の兄弟が周の武王が父文王の死後すぐに殷の紂王を討ったことを、不義、不仁として周の作物を食することを拒み、首陽山に隠れワラビだけで食い凌いだが、ついに餓死したという伝説を表現したものである。。
その行いが儒家によって孔子以来の「仁」と高く評価されたという。それで司馬遷が伯夷列伝を「史記」の最初に置いた、と言われている。
その話は、後世によく登場する。このお軸(写真)は、昭和18年に、ガダルカナル島から日本軍撤退の知らせをいち早く聞いた、如意山人というお坊さんが、戦争の激変を「伯夷叔斉」をモチーフに一茶菴で描いたものである。
そんな講義をうけながら、「たなごころ(掌)」の渋み、苦みを味わった。
武王已平殷亂、天下宗周。
而伯夷・叔齊恥之、義不食周粟。
隠於首陽山、采薇而食。
及餓且死作歌。
其辞曰、
登彼西山兮、采其薇矣。
以暴易暴兮、不知其非矣。
神農・虞・夏、忽焉沒兮。
吾安適歸矣。
于嗟徂兮 命之衰矣。
遂餓死於首陽山。
由此観之、怨邪非邪。