「今年の3月10日って、土曜日なんだな…。」

3月10日、73年前の今日、江東、墨田、台東を中心とした下町が、火の海と化しました。

東京大空襲です。

小学生の時に、早乙女勝元さんの「猫は生きている」という本を読みました。

主人公の少年一家と猫たちが空襲に遭い、火の中を逃げ回り、最後は誰一人として助からず、でも、猫たちは逃げのびる。

人間のはじめた戦争で、人間の作った焼夷弾が、猫たちの上にも降り注ぎ、主人公までもが命を奪われる…

「戦争とは、そういうものだ」
子供だった私には衝撃でした。

私の母は、横浜大空襲を経験しています。

おびただしい数の爆撃機B29が頭上を覆い、一瞬辺りが暗くなったように感じたそうです。
大学病院の地下に逃げ込み、母は助かりましたが、外に出た母の目に映る光景は、まさに地獄。
「水をください。」と言われても、水は一滴もありませんでした。

そのような話を、繰り返し聞いてきた私は、誰もが戦争体験を人に話すものだと、思ってきたのです。

でも、それは違いました。

あまりにも苦しすぎる記憶ゆえ、心の奥に封印され、ひと言も語ることなく亡くなられた方も多いということを、私は、恥ずかしながら大人になってから知りました。




ここで、「今年の3月10日って、土曜日なんだな。」に戻ります。

都内のいたるところで空襲はあり、私の暮らす世田谷区にも何度もあったのです。
でも、3月10日は、また意味の違うものとして私の中にはあったので、この土曜日の休みを利用して、江東、墨田地域の慰霊碑を巡り、先程の早乙女勝元さんが館長を務める「東京大空襲・戦災資料センター」に行ってきました。

体験者である、西尾静子さん(このお名前で検索してみてください。体験を知ることができます。)からお話を伺うことができました。
「2時間で10万人が亡くなったって、ひとことで言ってもピンとこないかも知れませんね。その時、私は6歳で幼稚園には23人のお友達がいましたが、生き残ったのは私ひとり。家の両隣はどちらも5人家族でしたが、全員亡くなりました。そういう事です。」と、おっしゃいました。

この西尾さんも、体験を初めて語ったのは60歳になってからだったのだそうです。

では、現在の西尾さんや母は、その話をしても、もう平気なのか。
決してそうではないと思います。


私は、こうした貴重な体験談を聞いたからには、聞いたままを、脚色も誇張もせず、感情的にはならず、でも自分の言葉で継承しなければならないと思っています。


わたしたちは戦争をしらない。


「知らないくせに語るな。」
そういう批判はあるでしょう。


私は、訪問介護の仕事をしていますが、あるご利用者が、
「空襲の中、妹を背負って川に飛び込んで助かった。でも、妹は小さかっから、ちっとも覚えていないの。それどころか、またその話って言って煙たがるのよ。私が死んだら誰が伝えてくれるのかしら。」
と、おっしゃっていました。

私たちが戦争の記憶を継承できる時間は、もう残り少ないかも知れません。


去年だったかな。
朝刊の終戦の日の4コマ漫画。
ワンコとカワウソ(?)の会話。
「本当に戦争は終わったの?本当の本当に?」
「もうしないよね。人間さん。」




ほんとかかどうか、みはってないとな。



そうこうしているうちに、日付が変わりました。
3月11日。
震災の日です。
この土日は祈りの休日です。