里心 | 凪の時間 (滑膜肉腫と共に)

凪の時間 (滑膜肉腫と共に)

高校1年生の時に滑膜肉腫を発症した息子の記録です。
約6年の闘病生活。転移、所術は数知れず。
亡くなる瞬間まで生きることに全力を傾けた息子の生の姿です。
2023.11.19以降は、母の想いを綴る独り言日記に変わりそうです。
母の側弯症手術後経過も少々。

入院した病院には脊椎専門の診療科があった。

 

みんな似たり寄ったりの手術をするわけだから、当然術後は動きが儘ならない。

 

何をするにも看護師さんの手を借りることになる。

 

年配の患者さんが多いのもあるけど、みんな看護師さんの下手に出て、何をやってもらうのもお願いモード。

 

それはそれでいいんだけど、そのことでちょっと勘違いしている看護師さんがいるのも事実。

 

「あなたが偉いからお願いしている訳じゃない」

 

と、心の狭い私は思ってしまう。

 

私も、リハビリでは歩行器を使って歩けるようにはなっても、ベッドの上では寝返りが精一杯。

 

自分の荷物なんて退院の時まで触れなかった。

 

しゃがんだら立てないし。

 

だから他の同病者のブログを読んで、「術後○○日目」って書いてあると、よっぽど記憶力がいいのかと思ってた。

 

だって、バッグに入れて持って行ったノートも出せないし、椅子には3分座ってるだけで疲れちゃうし、うつ伏せ禁止だから寝ながら字を書くわけにもいかない。

 

食事はお肉食べると気持ち悪くなるから「肉禁」にしたら、嫌がらせかと思うようなものしか出て来ないし、「術後せん妄」なんか出たばっかりに、後々まで後を引くし。。。

 

「術後せん妄」なんてなりたくてなる訳じゃ無いのに泣

 

力が必要な病棟だからか、男性看護師さんの割合も多かった。

 

体も私の2倍くらいあって声も大きいというのに、不機嫌な態度だと委縮する。

 

お風呂だろうがトイレだろうが、男性・女性関係無い。

 

段々と、人間としての尊厳とか患者の権利とか、無関係な世界にいるんだと心を「無」にしている時間が増えた。

 

そうでもしなきゃやってらんない。

 

心の支えは、実態の無い息子の存在だけだった。

 

息子のいる家に帰りたい !

 

息子をお誕生日にひとりにしたくない !

 

リハビリも歩行器や杖を必要としなくなった頃、ダメ元で主治医に相談した。

 

「息子が亡くなってから初めてのお誕生日、一緒に家で迎えることはできませんか?」

 

主治医は、「レントゲンもCTも血液の結果も悪いところは無いけど、あとはリハビリの進み具合かな。なにしろ通常より1週間早くなるわけだから」と、答えの明言を避けた。

 

私はこれを都合よく解釈し、リハビリさえ順調ならば退院できると信じた。

 

病室からリハビリ室に行くにはとても長ーい廊下があって、途中の何ヵ所かに休憩用のベンチが置かれているのだけど、主治医への連絡票に「途中休憩あり」と書かれるかもしれないと思って、必死で休まず歩いた。

 

5階の病室から3階のリハビリ室までも階段で降りて行って、帰りもまた階段で登った。

 

筋肉が全く無い太腿とお尻は悲鳴をあげていたピリピリ

 

それでも弱音を吐かずやり切って、とうとう息子のお誕生日前日に、主治医から無理はしないとの約束で退院の許可が出た。

 

ギリギリのタイミングでオーダーしていたコルセットも出来上がってきた。

 

やっと息子も元に帰れるラブラブ

 

やっと解放される飛び出すハート

 

お留守の間に生まれたチビちゃん。

巣箱からヨチヨチ出て来ていました🤭