【再読】 S・キング『ミスト』短編傑作選 矢野浩三郎ほか訳 文春文庫
本日、私の住んでいる地域は朝からじめっと蒸し暑いです。
湿度が高いせいか、どんよりとした話を読みたくなり、こちらの作品を再読しました。
キングの『ミスト』です。映画版も好きで、何度も鑑賞しています。豪胆なミセス・レプラーが大好きです。
表題作でもある『霧』を含めて全部で五つの作品が収録されています。
それでは、内容について書いていきたいと思います。
以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。
『ほら、虎がいる』松村三生訳
主人公のチャールズは初等中学校の生徒です。少し内気な、よく居る普通の男の子。
授業中、尿意を我慢できなくなったチャールズは、先生の許可を得てトイレに行きます。
男子トイレはL字型をしているのですが、その角を曲がった一番奥には虎が横たわっていました。
なんで?と思うかもしれませんが、とにかく虎です。縞の毛皮に緑色の目をした、あの虎。
チャールズは虎が怖くて用を足すことができません。
なかなか戻って来ない彼の様子を見に来た友達のケニーは、角を曲がって虎に食われてしまいました。ケニーに続いてやって来た先生も、チャールズの虎がいるという言葉を信じてくれません。
手洗い器で用を足したチャールズは、角を曲がっていく先生の姿を横目に、静かに教室に戻り、席について教科書を読み始めました。
以上、大変短いです。
清潔で塩素臭いトイレの奥で、静かに横たわっている虎、あまりにも異様な光景です。
ケニーが食われる場面が不気味です。話しながら角を曲がったケニーの声が突然ぷっつりと途切れ、その後には恐ろしい沈黙が続きます。悲鳴一つ聞こえません。恐る恐る角から覗いたチャールズが目にした、裂けたシャツの破片と微かな血の匂いだけが、ケニーが食われてしまったことを証明しています。
この虎、本当に何だったのでしょう。先生もやっぱり食われたのでしょうか。気になります。
『ジョウント』峯村利哉訳
SFチックなお話です。火星行きの「ジョウント・サービス」の待ち時間で、父親が子供たち二人と妻に「ジョウント」について説明してあげます。
ジョウントとは入口から入った物質を出口に転送するテレポーテーション技術のことで、人間に対しても使用可能なので、こうして地球から火星間の移動のためにも使われています。転送にかかる時間は2マイル(約3.2キロ)の距離で〇・〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇六七秒、まさに瞬間移動です。
大切なのは、ジョウント中、つまり入ってから出てくるまでのそのごく短い間、人間は眠っている必要があるということです。起きたままでジョウントすることはできません。肉体を粒子変換して移動させるジョウント技術ですが、精神は粒子変換させることが出来ないため、起きたままだと生物はワープによる精神的負荷に耐えきれずに狂って死んでしまうのです。
偶然の成功から生まれた、時間と空間を捻じ曲げるテレポーテーション技術。ジョウント中の一瞬に、入口と出口の間で何が起こっているのか、粒子変換され精神だけになった人間がどこを彷徨っているのか、それは誰にも分かりません。過去、実験のために起きたままジョウントを体験した男は、再出現の際には別人のように老い、自我を失い、「あそこには永遠がある」とだけ言い残して絶命しました。科学者たちは、ジョウント中の意識は歪んだ時空の中を浮遊しており、一瞬にも満たないジョウントの間に精神の方は何万年、何億年もの永遠に近い時間を体験していたのだと結論づけます。虚無の中でたった一人で何億年もの時間を過ごし、突然現実に呼び戻されたら、生物が発狂死するのも当然と言えるでしょう。このため、ジョウント前の人間は麻酔で眠らせる決まりとなっているのです。
父親の話が終わり、実際に火星へとジョウントした一家。
しかし転送先で父親が見たのは、変わり果てた息子の姿でした。好奇心旺盛なこの十二歳の少年は、起きたままジョウントを体験したいと思い、麻酔を吸うふりをしたのです。
信じられないくらい老い、濁った黄色い目をして、甲高い声で叫びながら跳ね回る息子。
「父さんが思ってるより長いんだ!父さんが思ってるより長いんだ!僕は見たよ!僕は見たよ!長いジョウントを!父さんが思ってるより―」と金切り声で叫びながら、永遠を見てしまった自分の両目を、爪でえぐり出します。
係員によって運び出されていく、喚き、のたうち回る息子だった存在を見ながら、父親が絶望の叫びをあげるシーンで物語は幕を閉じます。
何度読んでもぞっとしますね。
実際には、父親が家族に聞かせた「カルーン博士によるジョウント実験の過程」が物語の大部分を占めているのですが、最初の、ネズミを使った実験の場面が個人的には一番好きです。下半身だけワープさせても異変はないのに、上半身をワープさせると途端に異状死する、これはワープ中にネズミの意識が何らかの、死に至る出来事を体験したからに違いない、と考えたカルーン博士。しかしその原因が分からず、積み重なるネズミの死体。そこから、研究者チーム(カルーンは含まれず)による死刑囚を使った人体実験が行われる一連の流れは非常に読み応えがありました。必要な事とはいえ、なかなかの非道っぷりです。
作中でも触れられたジョウントの元ネタ、ベスターの『虎よ、虎よ!』はまだ読んだことがありませんが、折を見てそちらも読んでみたいと思っています。
『ノーナ』田村源二訳
行くあてのない若い男が、ノーナという女と出会い、破滅していくお話です。
主人公は優秀な大学生でしたが、恋愛に破れてからは飲んだくれて売春宿で遊ぶろくでなしに成り下がります。大学を飛び出して、ヒッチハイクで西に向かおうとしていたところ、美しいノーナと出会いました。
黒い瞳に黒い髪のノーナ。残酷で、無邪気で、食虫植物のような不気味な女。
ノーナと出会ってから、主人公は突然暴力的になっていきます。人間に対しての激しい苛立ちと憎悪を抑えることができず、会う人間を次々と殺していきます。それを見て興奮するノーナ。
彼女に導かれ、行き先も分からないまま車を運転する主人公。邪魔になる人間を機械的に殺しながら、ぼんやりと昔のことを思い返しています。過去の恋愛のこと、養母の野菜貯蔵室のこと、大学のダンスパーティのこと。
ノーナと共に辿り着いた先の墓地で彼が目にしたのは、乾涸らびた女の死体とその中で蠢く溝鼠たちでした。
どこからどこまでが現実なのか、警察に捕まった主人公は、ずっとお前一人でノーナなんて誰も見ていないと告げられます。墓地に着くまでの殺人は全てお前一人による犯行だと。
主人公はいつから狂っていたのか。そしてノーナとは一体何だったのか。
鼠、鼠、鼠。幻覚と幻聴、絶えず聞こえる、壁の中を走り回る鼠たちの足音。居もしない女の存在や、他人には聞こえない鼠の足音がする、と主張する彼は、傍から見ればただの異常な殺人鬼です。
ラヴクラフトの『壁のなかの鼠』を思い出して少しニヤッとしてしまいます。明らかなオマージュ作品ですね。キングのラヴクラフトへの愛が垣間見える作品です。
『カインの末裔』松村三生訳
こちらは非常に短いお話です。
主人公のギャリッシュが、大学の寮の自室から銃を乱射し始める話です。
乱射というよりは狙撃と言った方が良いかもしれません。
彼は友人たちと何気ない会話を交わした後、部屋に籠もり、窓の外の人間を片っ端から撃ち殺していきます。ブロンドの少女が、その母親が、学友が、次々と脳髄を撒き散らして吹っ飛んでいきます。一撃必殺、正確無比な狙撃です。
どうしてそんなことをしたのかは分かりません。ただ、彼の様子から、世界や人間に対して美しさを見出すことのできないタイプの人間なのではないか、と思います。一つ前の『ノーナ』の主人公もこのタイプに見えます。理由は不明ですが、人間というものに対して強い嫌悪感を抱いている、悪人というよりはただひたすらに異常な人物です。
「世界を食うか、食われるか」という発言も、聖書のカインとアベルの引用も理解不能です。狂人の思考を理解しろ、という方が無理な話なのかもしれませんが。
私は幽霊や怪物よりも、こういう生きた人間でトチ狂った人物の方が余程怖いです。
『霧』矢野浩三郎訳
本書のメインとなる収録作品です。他4編を合わせたよりもページ数が多いです。
謎の霧に包まれたスーパーマーケットで、閉じ込められた町の住人たちが次々と災厄に襲われるお話です。主人公のデイヴィッドもその一人。幼い息子のビリーも一緒です。気味の悪い多種多様な怪物たちが登場します。
政府の実験「アローヘッド計画」のミスで異次元に空いてしまった穴の奥から、霧と共にやって来る、謎の触手やおぞましい姿の蟲ども、途方もなく巨大な、クトゥルフ神話の邪神を思わせるような怪物。まさに悪夢そのものです。
スーパーマーケットの外、一寸先も見えないような濃霧の奥には死が広がっています。止める声を振り切って外に出た人々は、絶叫だけ残してそれきり戻って来ず、彼らが腰に結んだはずのロープだけが、真っ赤に染まり、無残に断ち切られた状態で戻って来ます。
スーパーの中も安全とは言えません。突然、異様な物音や震動が建物を揺らしたり、夜には翼竜のような怪物が窓を破って襲来したり。いつ霧が晴れるかもわからないまま、人々は正体不明の恐怖に怯えるしかないのです。
不気味な怪物たちも勿論魅力的なのですが、この作品の見所は何と言っても、スーパーという閉鎖された空間の中で徐々に狂っていく町人たちの様子です。
町の鼻つまみ者だった狂信者のミセス・カーモディがだんだんと発言権を強めていき、神の裁きだ、贖罪だ、生贄だと喚く彼女に賛同する者が次々と増えていく様子は、読む度にぞっとする場面です。死と恐怖を前に、正常な思考力を失い、過激な煽動者に縋ろうとする人々の姿は余りに生々しい。傍から見れば愚か極まりないのですが、自分が同じ立場に立たされた時、果たして彼らのようにならないのかと聞かれると、そうはならないと言い切れないところが一番恐ろしいです。このミセス・カーモディの恐ろしさは、映画版ではより強調されていました。女優さんの熱演がお見事でした。
最終的に、デイヴィッドはスーパーを出て、息子のビリー、アマンダ、ミセス・レプラーを連れて車で出発します。ミセス・カーモディを撃ち殺したオリーが、車に乗る前に怪物によって真っ二つにされてしまったのは残念でした。なかなか良いキャラクターだったのですが。
どこまでも続く霧の中を、慎重に進んでいく車。町は死に絶えたように人の気配がなく、もはや無事な場所が残っているのかさえ定かではありません。ラジオも受信できないため、霧による被害の規模も不明です。もしかすると、世界中がこの霧に侵されている可能性もあります。車の外には怪物たち、更にこの先ガソリンが補充できるかどうかも分からないという絶望的な状況です。それでも、唯一の希望をハートフォードという地に託して、デイヴィッドは車を進めるのです。
アメリカ軍が怪物に完全勝利した映画版の方が、まだスッキリとした終わり方だと思います。あちらでは主人公以外のビリー、アマンダ、ミセス・レプラーは全員死亡していますが。
こちらではデイヴィッド一行にしろスーパーに残った人々にしろ、その後どうなるかが一切分からないため若干もやもやが残ります。想像の余地がある分、より文学的ですね。私はどちらの結末も好きです。
デイヴィッドたちを待ち受けるのは希望か、それとも更なる絶望なのか、できれば前者であって欲しいものです。スーパーに残った人々も、デイヴィッド目線で見ると嫌な奴らに見えますが、彼らも必死だっただけなので、あまり酷い目には遭わなければ良いなと思います。
余談ですが、もし自分がこのスーパーにいた場合を想像すると、恐らく最後までスーパーの中に留まっていると思います。ミセス・カーモディの信者になっているかどうかは分かりませんが。あくまで一人で来ていた場合です。周りに家族がいれば、また違った行動を取っているかもしれません。
映画版ならおそらく、最初の夜辺りで蟲に刺されて死んでいますね。映画版の夜は原作に比べてかなりハードモードなので。
以上、全五編でした。
私は、主人公(読み手)が突然理不尽に襲われる『ほら、虎がいる』と『霧』が特に好きです。『ノーナ』と『カインの末裔』はどちらかというと主人公が「理不尽な災厄」側ですね。
初めて読んだときに一番怖かったのは『ジョウント』です。永遠を見てしまい発狂する、という状況が想像し辛いせいか、より気味悪く、恐ろしく感じました。
後味の悪い作品が好きな方には、ぜひ読んで頂きたい一冊です。
それでは今日はこの辺で。