【再読】 三浦しをん『舟を編む』 光文社文庫
本日はこちらの作品を再読しました。2012年の本屋大賞受賞作品です。初めて読んだのは単行本でしたが、文庫版の表紙デザインも好きです。
映画・アニメ版も視聴済みです。
映画はキャストが良いんですよね。宮﨑あおいさんが演じたヒロイン・香具矢は本当に綺麗でした。
それでは、内容について書いていきたいと思います。
以下、内容についての記載あり。未読の方はご注意ください。
「辞書は、言葉の海を渡る舟だ」
という作中人物のせりふがあります。
この作品は辞書作りという、海を渡るのにふさわしい舟を編んでいく、その様子を描いた物語です。
企画段階から出版まで、莫大な時間と労力、費用をかけながら、会社の横槍も入る中で必死に一冊の辞書を完成させようと奮闘する辞書編集部。これは彼らが辞書「大渡海」を完成させるまでの、長く険しい道のりを描いた作品です。
前半部分は、辞書編集部に引き抜かれた主人公・馬締の話がメインです。「大渡海」編纂についてはまだ企画・初動の段階。本格的に辞書作りについて描かれるのは、物語の後半部分です。
主人公の馬締(まじめ)は、その名の通り、非常に真面目な人物です。あまりにも律儀で生真面目なので、一周回って阿呆にすら見えます。受け答えがいちいちトンチンカンですが、本人はいたって真面目です。
物語開始時点で二十七歳。背が高くひょろっとしていて、もしゃもしゃ頭に眼鏡が特徴的な、少し野暮ったい見た目をしています。服装にもあまり頓着がなく、白いワイシャツに黒い袖カバーをつけたまま平気で歩き回ります。一言で表すと「ダサい」男です。こんな人でも超美人の香具矢と結婚できるのですから、世の中顔じゃありませんね。
とんでもない辞書狂いで、一つの言葉の意味や使い方を考え始めると、周りが見えなくなるほど自分の世界に没頭してしまいます。紙面イメージや辞書に使う紙へのこだわりも凄まじく、特に主任となった後半ではその辞書狂いっぷりが強調されています。
編集部にいるのは馬締を含めて五名ですが、正社員なのは馬締と、同い年の男性社員・西岡の二人だけです。西岡が異動になった後、新しく岸辺みどりが入るまでは実質馬締一人きりでした。
この西岡ですが、個人的に、登場人物の中で一番好きな人物です。異動前の彼視点のパートは作中でも特に印象深い部分でした。
西岡は馬締とは反対に軽薄で、器用に何でもそこそこにこなす、世渡り上手な人物です。
彼は他メンバーと違って辞書にそこまで思い入れがなく、だからこそ広い視野で辞書作りというプロセス全体を見渡すことができる、編集部になくてはならない存在でした。
辞書狂いの馬締に呆れつつも、自分にはないその一途さに密かに嫉妬し、羨望している姿が印象的でした。異常な程何かに熱中する人間を、鬱陶しい、馬鹿らしいと思いながらも、本当は彼らのことが眩しくて仕方がない西岡。彼の気持ちは私にもよく分かります。馬締のような人を見ていると、自分が中途半端でつまらない人間のように思えてきてしまうんですよね。
そんな西岡は、後から来た馬締に席を奪われる形で他部署へと異動になります。何でもない風を装いつつも、内心では悔しさを噛み締めていました。
西岡が馬締を妬んでいるように、馬締の方もまた、西岡の柔軟さや自由で鋭い感性を高く評価しているのですが、西岡本人はそのことには気づいていません。
嫉妬していても憎むことはできず、何かあるたびにああもう仕方ねえなあと世話を焼いてあげるあたり、何だかんだ西岡は良い同僚です。
作中では、だんだんと馬締たちの熱意に感化されていき、最終的には、どの部署に異動になったとしても「大渡海」編纂のために陰ながら力を尽くそう、例え自分の名前が編集者として残らなくても、と決意します。
彼も大概熱い男です。
西岡のように、情熱に情熱で応えてくれる、そんな人たちがいたからこそ、「大渡海」は十五年という年月を経て、出版まで漕ぎ着けることができたのだと思います。
初期のメンバーはもちろんのこと、後輩の岸辺や製紙担当、執筆者、デザイナー、校正をしてくれた人文系専門の学生アルバイトたちなど、多くの人々が妥協することなく一生懸命働いた結果が、「大渡海」の完成に繋がりました。
馬締たち辞書編集部の情熱と真剣さが、周囲にも伝染したのでしょう。学生アルバイトまでもが何日も編集室に泊まり込んで作業に没頭し、「本館のシャワー室をいつも辞書編集部の人が使っている」と他部署から苦情が来たりもしました。
西岡も陰ながらサポートを続けてくれました。馬締は完成した辞書のあとがきに、当然のように彼の名前も書きます。西岡が辞書編集部にいたこと、「大渡海」に関わったということを目に見える形で残した馬締。そしてそれを知って感動する西岡。ここは良いシーンでした。
この作品の、出版、それも辞書出版というテーマは、興味のない人にとっては少々とっつきにくいかもしれません。ですが文章がライトで読みやすいので、専門知識のない人であってもサクサクと読み進めることができると思います。
私は家族が出版関係の仕事をしているので、外部への原稿依頼や校正ミスで躓く場面では、そうそう、こういうことよくある、と思いながら読んでいました。雑誌程度ならともかく、辞書や教育関係の書籍では出版に際してほんの些細なミスもあってはなりません。そういったもののファクトチェックに追われて毎日死にそうになっている人が身近にいるからか、校正五回、というのが意外と少なく感じたほどです。
また、作中では「辞書」編集部ならではの様子も描かれており、そちらも興味深かったです。
辞書の改訂作業では、新しい言葉を追加するよりも記載されている言葉を削る方が神経を要する、ということや、作り手は男性比率が高いことからどうしても男性視点になりやすく、ファッションや家事にまつわる用語が手薄になってしまいがち、ということなど、なるほどなあと思いました。
最後に。
作品の中で、後輩の浜辺がこう独白するシーンがありました。
【たくさんの言葉を、可能なかぎり正確に集めることは、歪みの少ない鏡を手に入れることだ。歪みが少なければ少ないほど、そこに心を映して相手に差しだしたとき、気持ちや考えが深くはっきりと伝わる。】
これを読むと、自分が普段何気なく使っている「言葉」をもっと見つめ直してみよう、という気になります。多くの言葉を知ること、誤用を避け、その時に一番適した言葉で自身を表現すること、それこそがより良いコミュニケーションや自己表現に繋がるのでしょう。
この『舟を編む』は、物語として面白いだけでなく、そういった「言葉」の持つ力についても考えさせられる作品です。
文庫版特典として巻末に載っている、馬締から香具矢への恋文は何度読んでも笑えます。漢詩や和歌を引用した意味不明なラブレターを渡されて、香具矢もさぞ困惑したことでしょう。
三浦さんの文章はちょこちょこ笑わせに来るんですよね。格安インスタントラーメン「ヌッポロ一番 しょうゆ味」とか。そういうところが大好きです。『神去なあなあ日常』のようなもっとコメディ色の強い作品も好きです。
久しぶりに読み返しましたが、面白かったです。
本日も良い読書時間を過ごすことができました。
それでは、今日はこの辺で。