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不登校をつなぐ冊子「ゆきどけ」ブログ

熱いハートであなたの魂に寄り添うパワフルセラピスト 凪 湖遊のブログです。
不登校をつなぐ手づくり冊子「ゆきどけ」発行とお話会主宰。
「すべてがセラピー」な居場所創りが目標。



これで、とりあえず、暫定最後。

長いこと、ありがとうございました。
いろいろなことを、いろいろな発信を、ここでやってきました。

ありがとう。
終わろうとすると、名残惜しかったりためらったりもあるけど、信じて、新しいステージへ進もうと思います。


ここからは、新しいブログへのご案内リンクは貼らないことにしました。
読者登録で繋がらせていただいていた方様へも、ご挨拶は致しません。
関係を断つとかじゃあなくって、もっと広くもっとのびのびと進むために。
ご縁があったら、またあっさりと繋がったり、出くわしたり、すると思うし、しなくても、ブログ以外でも繋がっていますしね。

たくさんありがとうございました。

あ、そもそもなんでブログを終わらせて新しくするかって話なんですがね、

本を出していく上で名前を変えていくことと、不登校の世の中全体の捉え方を変えたいことと、自分自身のスタンスの軸を新たにしたいこと、そのために、新しいステージから発信したいのです。


自分が言いたいこと、やりたいことを、のびやかに具現化できるように。


「ゆきどけ」へのお問い合わせやバックナンバー含むご購読、講演ご依頼は今後も常時受付中です。

お問い合わせはこちらからメールか、お電話でのお問い合わせ(発信できます)にていつでもどうぞ。





本の形態での発信を、今年はしていきたいと思っています。
本とはいってもいきなり、出版なんて話はもちろんないので、同人誌をつくるような感じで。
装丁もいろいろ自分好みにできて、楽しいのです。

今のところ、最初に出せる感じになっているのが、「ばあちゃん語録」というもの。
わたしの母方の祖母が使っていた、面白い方言やキャラクター性の強いエピソードをまとめた1冊になる予定です。
北海道の方言資料としても、読んで楽しいエッセイとしても、気軽にお手に取っていただければうれしいですね。

あとは、不登校の決定版、集大成、総ざらえという感じの本を。
不登校に関して、ずいぶんいろいろ言いましたが、わたしが思う不登校のすべてを網羅した1冊にしたいと思っています。

そのあとに、新しいステージからの不登校考というべき、いままでと違うスタンスで不登校を見る、そういう本もかたちにしたいと計画中です。

ばあちゃん絡みでもう1冊…、約4年介護をしたのですが、その間の思い、感じたことを、正直に書いた本もつくりたいなと思っています。

今年はまず、こんな辺りですね。
本の取り組み、応援していただけたらうれしいです。

また、「ゆきどけ」に替わるものとしては、わたしが2009年から続けている参加型冊子「きらきら」もあります。
こちらは春に第18号が刊行予定。
日々の楽しいことや想いごとを、ゆったりと綴っていただける冊子です。

ご参加・ご購読を希望のかたはおきがるにお問い合わせを。
バックナンバーも好評です。


(転載終了)



それは、むろん、「放っといていい」というニュアンスではなくて、ごく普通の、あたり前の人間関係の距離感で、つきあうということ。

「不登校」に対する世間のイメージは、まだまだ暗いとか、将来どうすんだとか、落ちこぼれとか、底辺とか、あるけど。

けど、みんな、同じじゃないかと思う。
いい大学出ていい会社に入っても、リストラされたり。
公務員になっても、痴漢でつかまったり。
教授になっても、不倫がばれたり。

むしろそういう人の方が、いざどうすんだって状況になったら弱い気がする。お金で解決することしか知らなかったりね。

不登校すると、子どもの頃から悩んだり、自分を見つめたり、あるいは逃げたり、世間の目にも耐性ができるので、芯は強くなる。
みんな、同じ。

たまに不登校と知ると、「苦労したのねえ~」というふうに一見親しげに、しかし何か上から目線な雰囲気で言ってくる人もいるが、いやいや、何で苦労するかなんて人それぞれだし、不登校イコール苦労じゃないし、乗っからないでくれよ、と思ったりもする。

と。終盤、いささか脱線したが、要するに不登校を、変な特別視する時代はもう終わらせたいと思うのだ。
「学校行かなかったんだ~」と言ったら、「へー、そうなんだー」と返ってくるような、そんな自然なことにしたいと、思うのだ。

そのためには自分から、そうして生きていきたいと感じて、それが「ゆきどけ」の形態を変えることの根幹になっている。

「ゆきどけ」を変えてゆく中での、新たな発信、表現については、次に。

(続く)



だから、ブログや「ゆきどけ」や講演で、そう言い続けてきた。

だけども、子どもの不登校で悩み続ける親御さんは、全国にまだまだいて。
しなくていい孤立をしている人も、苦しんでいる人もたくさんいて。

苦しむこと自体は、自分の体験をふり返っても無駄なものではなくて、そのとき必要な苦しみもあるのだと思う。
だけど、そこを思ったとき、また逡巡する気持ちがあった。

「不登校」について、正しき理解のある仲間の人たちが、それぞれの言葉でそれぞれの場所で、日々発信を重ねている。
不登校は悪いことじゃない、心配しなくて大丈夫、子どもを信じよう、焦らなくていい、不安になっても大丈夫、間違ってない。
それらの言葉は、確かに、確実に、それまで不登校で悩み孤立していた人たちを、勇気づける光となったと強く思う。
ほんとうに、その通りだから。

でも、もう、そろそろ、先へ、その先へ行ってもいいんじゃないかと思った。

不登校って、そんなに、誰かから、勇気づけられたり支えられたり、励まされたり応援されたりしなきゃいけないものなのだろうか。

もちろん。ほんとうに孤立していたり、世界のどこにも味方などいないように感じるときは、他者からの親身な手は何よりも大切で、必要なものだけど。
その、先へ。

わたしは、以前言ったことがある。2013年の2月。
不登校を、解決も脱出も治療も、しなくていい、と。
あたり前のことなんだけど、あまりにも、自称専門家の人で、不登校を解決・脱出・克服させますとか、治療が必要ですとか言う人が多かったから。

それから、2年。

これからは、不登校を必要以上に特別視したり、支えてあげなきゃとか励まさなきゃとか、思わなくていいステージへ、進んでもいいのではないか。

(続く)




率直に言って、「不登校」は、その捉えかた、関わりかたが、もう次のステージへ移っていいテーマだと感じている。
わたしが不登校になったのは小学4年生のとき、もう20年以上も前のことだ。
しかし、現在でもなお、不登校は大きな問題として社会の中に根づき続けている。

確かに、20年前に比べたら、世の中全体からの認知度も上がり、珍しいことでもなくなり、今はスクールカウンセラーだ、フリースクールだ、高認もポピュラーになり、いろいろな対策と手段はとられているように見える。
それでも、「不登校」そのものとそこにまつわるもろもろは変わっていないことは、「ゆきどけ」に関わってくださっている方々はよくご存じだと思う。

わたしは、最初は、「不登校」で今も孤立したり悩んだりしている人に、不登校は悪いことではない、義務教育とは学校教育を受ける権利があるだけで、学校へ行かねばならないものではない、生き方は多様だし、心配いらない、という類のことを発信してきた。

それはわたし自身が、不登校をして引きこもった間、学校へ行けない自分を責め続けて、そして1999年にフリースクールの代表と出会い、「不登校は悪いことではない」と初めて言ってもらって、自分の内のあらゆる価値観がひっくり返るほど解放された体験をしたからだ。

不登校は悪いことではない。
それは、その言葉は、ものすごい大きな意味を持っている。
「なんで学校に行かないんだ」と、来る日も来る日も母に玄関で叩かれ、突き飛ばされ、泣かれたあの頃。
殴られるよりつらかったのは、学校へ行くことができないどうしようもないでき損ないの自分が、大好きな母の子どもである、ということ。

なんでこんなろくでもない子どもなんだろう、学校へ行くというみんなが普通にしていることができなくなって、母に迷惑をかけて…

そう自分を責めていたのが、全く必要のない苦しみだったということ。

はじめから、学校へ行かないことは悪いことではないと知っていたなら、せめて、早い段階で知ることができたなら、
子と親にとって「不登校」は、少しも恐れる必要のないものとなる。


(続く)