それは、むろん、「放っといていい」というニュアンスではなくて、ごく普通の、あたり前の人間関係の距離感で、つきあうということ。
「不登校」に対する世間のイメージは、まだまだ暗いとか、将来どうすんだとか、落ちこぼれとか、底辺とか、あるけど。
けど、みんな、同じじゃないかと思う。
いい大学出ていい会社に入っても、リストラされたり。
公務員になっても、痴漢でつかまったり。
教授になっても、不倫がばれたり。
むしろそういう人の方が、いざどうすんだって状況になったら弱い気がする。お金で解決することしか知らなかったりね。
不登校すると、子どもの頃から悩んだり、自分を見つめたり、あるいは逃げたり、世間の目にも耐性ができるので、芯は強くなる。
みんな、同じ。
たまに不登校と知ると、「苦労したのねえ~」というふうに一見親しげに、しかし何か上から目線な雰囲気で言ってくる人もいるが、いやいや、何で苦労するかなんて人それぞれだし、不登校イコール苦労じゃないし、乗っからないでくれよ、と思ったりもする。
と。終盤、いささか脱線したが、要するに不登校を、変な特別視する時代はもう終わらせたいと思うのだ。
「学校行かなかったんだ~」と言ったら、「へー、そうなんだー」と返ってくるような、そんな自然なことにしたいと、思うのだ。
そのためには自分から、そうして生きていきたいと感じて、それが「ゆきどけ」の形態を変えることの根幹になっている。
「ゆきどけ」を変えてゆく中での、新たな発信、表現については、次に。
(続く)