日本という高度科学技術文明社会の将来はどうなるの? | 永築當果のブログ

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ブログを8本も立て、“物書き”が本業にならないかと夢見ている還暦過ぎの青年。本業は薬屋稼業で、そのブログが2本、片手間に百姓をやり、そのブログが2本、論文で1本、その他アメブロなど3本。お読みいただければ幸いです。

 「食生態学入門」という書があります。1981年発刊ですから、もう37年が経とうとしており、随分と古い本ですが、現代にもずばり当てはまり、興味深いものがあります。著者は亡き西丸震哉氏で、氏が58歳のときに書かれたものです。氏は、農水省の異色官僚(中途退官)、食生態学者、エッセイスト、探検家、登山家など幅広い分野に精通していた「変人」といってもいいでしょう。以下、「食生態学入門」から抜粋します。

 

 …すべての動物を責めさいなんできた最大の苦痛は飢えであった。この飢えから逃れるためには、動物はどんなことでも血相をかえて努力しないではいられない。

 飢えから開放されたとき、身体は休息をとりたくなり、心は安らぐ。…

 飢えからの開放が一時的なものではなく、おそらく永続的にその心配がなくなったと期待できるとき、…安楽追求へと動き出す。エサを求めてかけずりまわることがごく当たり前のときは、かけずりまわることを苦痛とは意識しなかったが、労力を減らしてもエサが入手できるようになると、もはや労働を苦痛として受けとめるから、こんどは労働という苦痛から逃れようとする。

 安楽の追求とは、ひとくちでいえば横着をきめこむことで、人間の現在の文明化という路線は、横着を徹底して追及しようとする願望にほかならない。…

 人間が横着をしたいとき、使われる側よりも使う側のほうが楽であるから、使う側にまわりたがる。職員は役員に、庶民は貴族になりたがり、なにもしないで生きていける立場に自分を置きたいと考える。

 文明の方向には理念の追求や、精神面の開拓、芸術、美術などいろいろあるが、これらすべて、ひまができてはじめてその存在を認識できる。しかしいちばん人間にもてはやされるものは、横着を助長することを保証する科学文明という方向であった。…

 人間が生物としての基本的労働をやめて、余った力を自分の好みの方向に使うことになるかというと、楽になったところでとどまって、スポーツは見る側にまわって自らは動かず、旅行とは乗り物が動きまわるものとなり、ケーブルカーが山登りするのに便乗し、…スキーは登りをやめてしまって滑るという後半だけのものとなった。

 洗濯は洗濯機、それに脱水機がつけば新しいものに切り替えなければ気がすまず、かつては下僕にやらせ、後進国での宗主国人ならば土着民を雇ってすませたような仕事は、今の文明国では労働力がないので、しかたなしに機械にその肩がわりをさせることで埋め合わせをする。

 はじめのうちの機械は人間の能力のほんの一部でしかなかったから、御主人がそれにつきそって働かされていたが、ついにはワンタッチですむようにまで横着化は進んだ。ひと声命令すれば下僕が動くところまで、もう一息だ。

 何十人かの下僕にかしずかれた王様が、まったく自分では動く必要がなかったのにくらべると、返事をするかしないかのちがいだけで、労力的には王様と少しもちがわないことをやってもらえる大衆が存在するようになった。

 日本人の1億の大多数が王様であるなら、もしその下にかしずく下僕がいたら、日本の国土には何十億の人間がひしめくことになる。それがいなくてすむだけでもたいへんな幸せだという考え方ができる。…

 日本に住む1億人は、使用人は人間でなくとも、まちがいなく1億人の王様だ。…

 まわりじゅう王様ばかりなのだから、やたらとまわりが気になって、体面維持は容易なわざではない。むかしのほんとうの王様のまわりには王様などはどこにもいなかった。

 日本人から見ると、アメリカ人あたりは自分たちより王様ぶりがよく、キング・オブ・キングスがやたらと住んでいるから、せめてあの程度にならなくちゃあと考える。…

 日本人は野次馬根性がとくに強く、オッチョコチョイだ。他人のよさそうなところを、自分とのちがいを深く考えることなく直輸入して、その結果がおかしくなったとしても、気にしない。日本人にとっていちばん気になるのはアメリカ人の生活である。

 …低級な味のものをパッと食べることができるシステムを近代的だと信じ、カッコいいという気になると、それを食べなければ時代から取り残されるようなあせりを覚えて、まずくてもまずいと思えず、これで幸せなのだと自分を納得させ、そのあげくうまさの感覚をも自分でたたきつぶしてしまう。

 使い捨てが現代人のすることだと、だれかが叫ぶと、自分の収入がどうであれ、…景気よく捨てることで満足した気になれる。…こういうやり方をすれば、あくせく働いて…買い込まねばならないから、ゆとりを作る方向ではなくて、ますますかけずりまわって人よりよけいに働かねばならず、ゆったり遊ぶ気持ちも出てこない。その遊びも、一流文明人はこういう遊びをやるものだといわれると、自分の趣味がどうであれ、いっせいにその遊びに突進して、血相かえてレジャーに取り組む。日本人には、この路線が身動きできない終点に着くまでは、絶対に心の平静が訪れなくなった。…

 モノに取りかこまれ、人にもっていかれないようにいつも気を配り、人情がうすれ、そして人間の究極の幸せとはこれなのだと、だれかに断言されれば、なるほど自分は最高の幸福をつかんだのだと満足して死んでいける。こういう日本人と太刀打ちできる民族はどこにもないだろう…

(引用ここまで)

 

 西丸氏は、このように科学技術文明というものはどういうものかをとても面白く表現しておられます。“日本人1億人みな王様”とは恐れ入りました、です。本書が書かれてから37年が経とうとしているのですから、それから随分と便利になった現代です。その当時は、ポケットベルを企業の営業マンが持ち始めた頃で、まだ全国で100万台しか普及していませんでしたし、テレホンカード式公衆電話はその翌年から設置が始まったという時代でした。

 現代は、携帯電話はすでに古く、スマホの時代になり、格段に便利になりましたが、それによってゆとりができたかというと、そうではなさそうです。

 37年前、電車の中では日本人は世界的に例がないことですが、多くの人が目を閉じて仮眠し、休養を取っていました。それが今では、スマホとにらめっこし、フェイスブック(いや、これは古い)、LINE(これも古そう)、最近はTwitter(ツイッター)、Instagram(インスタグラム)といったソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)で交友関係を持つ諸々の輩どもと頻繁に会合をもっておられる。電車内は様変わりし、居眠りする人がほとんどいないという世界標準の風景になりました。

 こうしたものを一切やらない小生。“皆さん、お忙しいなあ。家に帰ったらきっとパソコンも叩かねばならないだろうに。寝る時間を削るしかないのでは?”と心配させられます。

 皆が王様になって、煩わしい仕事を何もしなくてもよくなったであろうにもかかわらず、忙しくて寝る暇もない現代。37年前より格段に便利になったにもかかわらず、くつろぐ時間がうんと減ってしまった現代。どうなってるんでしょうね。この先が案じられます。

 そこで思い出しました。経済学者のE.F.シューマッハーが1973年(45年前)に言った名言を。

 「ある社会が享受する余暇の量は、その社会が使っている省力機械の量に反比例する。」

 このとおりでしょうね。将来、ますます余暇の量は減っていくことでしょう、日本の王様たち。

 

 もう一つ、西丸震哉氏の同著「食生態学入門」から抜粋します。

 人間の心ーー適量の人数よりもはるかに多数が一定空間に生息すると、共同生活ができず、ぶつかりあってお互いにいらいらしてカラカラの世相となる。

 じつはこれは人間社会だけのことではなく、水槽内のグッピーの社会をみると、一定数になるまではふえつづけるが、限界を超えると親が子を追いかけまわして食うようになり、一定数以下になればこの闘争はやむ。…

 地球上に40数億人の人間が生存している…

 あまり聞かれない表現で、…人権を無視したと思われそうな方法だが、目方に換算してみると、約1億7000万トンとなる。単一の種の動物が地上にこれだけ生きているということは、生物の歴史のなかでごく当たり前のことだったかどうか。

 …クジラ類だが、…かつてもっとも多かったときにどのくらいの量になったかを推算してみると、全海洋で4500万トンぐらいであったと考えられる。つまり、人間の4分の1くらいでしかない。…

 (人間は)穀類を大量に作るようになったおかげで人口を増大させることが可能になって、これほどの人間量になったのだが、生物界でこれほどの量になるとき、その種の異常大発生という表現をする。イナゴやネズミの異常大発生は、一地域での特異的なものだが、今回の人間は全地球での同時大発生であるところにより大きな異常さがある。…

 …先進国が、さわぎとなるはるか以前に、人口を増やして、さんざん植民したあげく、後進国に人口を抑制しろといっても、その身勝手は反感をつのらせるばかりである。

 教育レベルを高めた大衆を保有する先進国で、その大衆が自発的運動として産児を減らそうとする傾向が増大するとき、人口増加率は減るが、人口が減るまでには20年以上を必要とし、…。

 後進国は生活レベルを上げながら、人口の増加率を落とすような器用な方法はなく、教育レベルを上げる努力が基盤にないかぎり、人為的に人口を調整することはできない。…

 人間の異常発生がもとで農業という作物の異常発生を極度に進め、病害虫の異常発生を起こし、農薬の異常多用によって人間の寿命にはね返らせるという循環によって、人間の異常発生が抑圧される段階が次に起こることになる。

(引用ここまで)

 

 西丸氏は、増えすぎた世界人口を「人間の異常大発生」と表現しておられます。そのとおりですよね。グッピーの社会と同じ。人間も一定数以下になればこの闘争はやむ、ということになりましょうが、中東やアフリカなどでの内戦は、とてもじゃないが一定数以下になりそうになく、永久に終わりそうにありません。(なお、「農薬の異常多用によって人間の寿命にはね返らせるという循環」は、西丸氏の別の書「41歳寿命説」で述べられていますが、これは単なる警告であって、当の本人もそこまでのことは思ってみえなかったようです。)

 日本社会においても、ますます大都市への人口集中、つまり「人間の異常大発生」によって、「適量の人数よりもはるかに多数が一定空間に生息すると、共同生活ができず、ぶつかりあってお互いにいらいらしてカラカラの世相となる。」という現実があります。

 それに輪をかけているのがSNSで、これが人々の生活に深く入り込み、人間関係をより複雑化し、ぶつかりあってお互いにいらいらさせているようでもあります。

 日本における「人間の異常大発生」の状態は永久に終わりをつげないでしょうから、日本人の精神疲労も相当なものになりましょう。

 

 これからの世の中、日本の王様たちが幸せに生きていくためには、いったん王様を止め、SNSを全部切ってしまい、過疎地へ逃げ込んで自給自足の生活でもするしかなくなってきたようです。そこまでのことはなかなか無理な相談ですが、少なくとも高度科学技術文明に振り回されるのではなく、それを最小限に上手に使いこなす、そうした生活を目指すしかないでしょうね。