産官学連携を断ち切るべし | 永築當果のブログ

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ブログを8本も立て、“物書き”が本業にならないかと夢見ている還暦過ぎの青年。本業は薬屋稼業で、そのブログが2本、片手間に百姓をやり、そのブログが2本、論文で1本、その他アメブロなど3本。お読みいただければ幸いです。

 産官学連携がもてはやされるようになった昨今、学は学としての体をなさなくなってしまいそうな情勢だ。今日の学は産と官によって歪めらつつあるからである。

 それを最初に痛烈に感じさせられたのは、もう30年以上前のことであるが、プレート・テクトニクス論による駿河湾を震源とする“東海地震明日にも説”である。ただし、その発端は、学の側から自らを歪めたものではあるが。
 この論そのものは真理であろうから地道に基礎研究を積み重ねていけばいい。ところが、その当時、文部省の地震に関する予算は、京大と名大が行っていた微小地震観測網による基礎研究に多くがさかれ、東大地震研は指をくわえているしかなかった。そこで東大地震研が唐突に持ち出してきたのが“東海地震明日にも説”であり、これをうまくヒットさせた。そして、東大地震研は駿河湾一帯に歪計、傾斜計などの観測網の設置に膨大な予算を獲得した。これによって、機器開発などで産学連携ができ、教授連は甘い汁が吸えることになったのである。その“明日にも説”はさらに拡大し、当時守備範囲を何とかして広げたがっていた国土庁が乗り出して特措法を作り、東海地震は予知できるとして東大地震研の後押しをすることにもなった。ここにしっかりと官学の連携もできた。しめしめ、である。東大地震研の教授連は。金権体質がひどい東大であるから、自ずとこうなってしまう。
 さて、地震学という学問的見地から“明日にも説”が正しいかどうか論ずるとなると、当時、東大以外の学者は異口同音に“正しくない”と言っておられた。今は知らないが、その当時は多くの学者に良識というものがあったのである。

 以上のことは、その当時、小生が地方行政で地震対策に従事していたことから知りえた事実である。
 あれから30年以上経った今、駿河湾単独地震説はどこかへ行ってしまい、終戦前後に連続して起きた東南海・南海道地震と一緒に起こるだろうなどと言われるようになった。加えて、聞くところによると、30年余の観測を積み上げてきても、地震は予知できそうにない状況にあるようだ。
 となると、結果論からしても、この30年余は何だったのか。東大地震研の教授連よ、銭返せ!である。


 ところで、“明日にも説”が登場する数年前、全国の大学は全共闘運動が盛んであった。その当時、小生も大学生であり、運動に参加していた。
 そのなかで、産学連携がやり玉に上げられた。大学というものは学問の自由で持っている。そこに産業界の利益追求が入り込んでは学問はねじ曲げられ、学問の自由を失ってしまう、というものである。最初はなぜ産学連携が悪いのかよく分からなかったが、そのような説明を聞いて、なるほどと合点したところである。


 大学卒業後は、学からは縁遠くなってしまったが、産官学連携の話題は時代が進むに連れて新聞などでよく目にするようになった。
 産業界にとっては、基礎研究で得られたノウハウをただでもらえるのだから、こんな有り難いことはない。自前の研究所が不用となろう。
 大学にしても、昔、こそこそとやっていた委託研究を堂々と行えるし、成功すれば特許料などががっぽり入ってくるから自ずと熱が入る。

 産業振興を促進しようとする省庁(官)がさらにそれを後押しする。
 こうして、今は、いい事だらけだから、産官学連携のどこが悪いといった風潮になってしまっている。


 しかし、先に言ったとおり、これはとんでもないことである。
 繰り返しになるが、こうなってしまうと、大学は基礎研究をおろそかにし、応用研究どころか実用化研究競争に走ってしまいかねない。そして、教授連皆が銭の亡者になってしまい、学問をねじ曲げることも平気で行うようになってしまうのである。

 さらに輪をかけて文科省のたちが悪い。昔は研究室には経常費として自由に基礎研究ができる予算が配分されていたのだが、近年はそれが削減され、研究テーマごとの1件審査にパスしないことには予算が付かないようである。

 そうなると、地味な基礎研究は、よほど脚光を浴びている分野以外は費用対効果の物差しで切り捨てられ、予算に事欠くことになってしまう。これは悪循環を繰り返し、基礎研究はどんどんないがしろにされてしまうことだろう。


 さて、産官学連携が全ていい方向に向かえばまだ我慢できようが、現状はとてもそのようには思えない。
 利益を上げようとする産業界が、その問題点をねじ曲げられた学問でもって覆い隠すという常套手段がそこら中で取られ、暴走さえしている昨今である。医療がそうであり、原子力がそうだ。

 今般の原発事故では、それが表面化してくれても良さそうなのだが、“原子力ムラ”という産官学の強力な連携でもって乗り切られようとしている。


 こんなことが許されていいのだろうか。
 産官学の3者は、社会をより良いものにしていくために、それぞれが重要な役割を担っており、どれも欠かせないものである。
 これは、政治の世界における立法、行政、司法の3者の関わり方とも相通ずるところがある。立法、行政、司法は三権分立であって初めて政治は正しく機能する。
 それと同様に、産官学も分立し、それぞれの立場に立脚して事を進めねばならない性質のものであろう。
 その中で最も弱い立場にあるのが学であり、連携なぞさせたら産官からいいようにされてしまう。なお、ここまでは自然科学の分野の出来事について述べてきたが、人文科学においては、より以前から産官によっていいようにされてきた。経済学や歴史学がいい例だ。


 憲法で保障されている学問の自由は、もうどこにもないのではなかろうか。そろそろ、ここらで産官学の連携を思い切って断ち切り、学を独立させなければ日本の未来はないものと危惧される。学問を所轄する官は文科省に止まらず各省に分散しているのだが、少なくともそれらを全部集めて「学問省」なり「学府」とし、使途を制限しない予算でもって自由に学問を研究でき得るシステムを構築せねばならないと小生は思うのである。

 そして、できることなら、政治は宗教に一切関わりを持たないという政教分離のごとく、「学問省」なり「学府」は内閣から切り離した独立機関とし、毎年一定の予算を保障するという制度改革、これは大幅な憲法改正になるが、そうしたことを真剣に議論してもよいと思うのであるが、いかがなものであろうか。

 ごく最近、地方大学の名誉教授とお近づきにさせていただき、今の地方大学の悲哀を聞く中で、改めて大学の自治に思いをはせたところである。