正業 | 億の細道

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1億円をようやく突破してきました。


果報は寝て待てというけれども、どうですかね?

それでは「精進」エネルギィを引き出すためには、怒りや欲望といった強力な煩悩とつば迫り合いしながら渡り合うためのツールが必要になって参ります。そのためのツールが、「念」と「定」でもあるのですが、それに加えて、「戒」と呼ばれるものでもあります。4コマのエッセイで取り上げておりますので省略いたしますが、たとえば「十善戒」といったようなものであります。ですから「戒」と呼ばずに、「善」とか「道徳」呼んでもかまわないかもしれませぬ。

 「善」というといきおい、「ツマラナイッ!」とか「善人は馬鹿をみるんとちゃいますかッ!」といった反応がかえってきがちなもの。

 善、ツマラナイ、かなあ。そうかなー。そうですよね、変態哲学者のニーチェさんも善は奴隷道徳だと仰せですものね、善なんてインチキですよね・・・・・・馬鹿なッ! 実は、善ほどエキサイティングで面白いものはないのです、よ。だって、仏道の「善」は、みなさんが考えているような「善」とは一見似ているようにみえて、かなり違うんですから。

   さて、「業=カルマとは・・・!」ということをちゃんと説明しようと思うと、別の本を一冊書かねばならなくなるような大変重要かつ複雑なものでありますゆえ、ここではごく大ざっぱに記すにとどめます。

 何かを心で思う、あるいは言葉で話す、あるいは身体で行為する。これを、身・口・意の三業と申します。ここで何故、業=カルマという特別な単語を使うかと申せば、何かの行為をすると、それだけで終わりではないのです。一つの行為には潜在エネルギィが含まれていて、次へと連鎖する力を持っているからです。

 もっとあっさりした申し方をするなら、ある行為はそれだけで終わることなく、残存余力とか余波とか波紋とか表現できるものを持っているのです、走っている電車が急ブレーキをふんでもすぐには止まれず、揺り返しが起こるようにして、ね。

 心の中で何か思うだけでも、何かを喋るだけでも、身体で行為するだけでも、必ずそれは、余韻をともなって、次の思考や次の言葉や次の行動に、影響を与えるでせう?

   たとえば私はこれを書いている今日の昼、ある御方から「あなたの生け花は美しくないから、もっと練習したほうがいい」と指摘されたのですけれども、良い気分はしません。この際の、ほんのちょっとした不快感が、「怒り」のカルマとして活性化いたします。

 その瞬間に自らの心を観察してみると、「生け花なんてそもそも興味ないから、練習する必要はないもんねー」と、アッカンベーをして考えている自分がいることに気づいて、びっくりしました。なにせ実際は、生け花を練習することに興味がないわけではありませぬし、確かに私の生け花が失敗していたのは明らかなのですから、自らを反省して向上するきっかけにすべきなのです。

 にも関わらず、心の中では一瞬にして「怒り」のカルマがポップアップしてきて、自分で自分を凝り固まった不快感の中へと投げ入れているのでした。その有り様を観察して客観視することで「怒り」を消すまでおよそ一秒か二秒、それから、ようやく私は「ええ、練習いたします」と、偽りなく素直に答えることができたのでした。

 心がイライラ不快感に染まると、体内に有毒物質が生まれて、身体中を駆け巡り始めます。現代的な申し方をするなら、ノルアドレナリンや尿酸といったような有毒物質が臓器にダメージを与えたり、胸やお腹が苦しくなったり、頭が痛くなったりいたします。

 心は物質を作る、と言われるゆえんでありまして、心がある状態になると、必ずそれに応じた微細な生化学な物質が身体内で作られて、身体に生化学的な反応を引き起こし続けているのです。

 そして心身ともに不快な状態におかれてしまうと、身の回りのものごとに対して、さらにイライラした反応をしやすくなる、という回路が徐々にインストールされていってしまいます。





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 何を思うか、どう感じるか、どう反応するか。こういったことは、過去に無限につみかさねてきた、小さなカルマが積もりに積もって出来上がった複合体によってほとんど決まっているのです。

 今生のカルマだけでも膨大な量なのですけれども、無限にさかのぼる過去生において積んで来たカルマが私たちに余波を与え続けているわけでありますから、晴れてる日に「あ、晴れてるなんて嫌だな」と感じるだけのことでも、その感情の背景には、過去無限にわたる感情の蓄積がポップアップしてきているのであります。

 別のカルマを背景にしている人にとっては、同じ晴れが気持ちのよい爽やかな天気として感じられることでしょうし、爽やかに感じるにしても、誰一人として「まったく同じ爽やかさ」を感じるわけじゃなく、ちょっと爽やかだったりとても爽やかだったりするのです、あるいは、うれし泣きしたくなるほど感動しちゃう人すらいるかもしれません。

 このように私たちを裏から操っている潜在力のことをカルマと申す次第であります。とりわけ負のカルマを作る心の中でも、もっとも強力なものが、欲望、怒り、迷いの三種類でありまして、ほとんど常に、これら三種類の根本煩悩が、私たちの心の表面に侵入してきては波立たせているわけであります。

 欲望が心の中を占領しているときは、「何かが欲しいヨー、でもまだ手に入ってないから苦しいヨー」と、欲しいものを引っ張ろうとする引力が働いています。

 怒りが心に侵入してきているときは、「これ、イヤイヤ!目の前から消え去ってほしいよー」と、嫌悪感にもとづく、反発力が働いています。

 迷いが心に不法侵入してきているときは、「何がなんだかよくわからないヨー」て風合いにて、くるくると心の中で堂々巡りをする回転力が働いています。

 これら、引力と反発力と回転力の三つのエネルギィが、心の中にシコリをつくり、ひいては身体中に有害物質を作ってそれら微細な有害物質を伝達することによって、筋肉をこわばらせたり、血流を阻害したり、臓器にダメージを与えたり、表情をこわばらせたりしているのです。

 私たちにできることはせめて、過去のカルマがポップアップしてきて感情がわきあがってきたとき、その感情をどうコントロールするか、ということにつきます。

 悪い感情がわいてきたときは、それに働きかけて良いエネルギィへと転換してあげることができれば、それを善業、良いカルマと呼ぶのです。それによって過去の悪業を解消することができたぶんだけ、将来にポップアップしてくる感情が、いままでよりも良いエネルギィに満ちたものへと変化いたします。

 仏道の「戒」を自ら守ろうと努力していると、煩悩を「戒」でブロックしつつ徐々にカルマを管理できるようになるのであります。

 カルマをコントロールできるようになり善いエネルギィ循環を保てるようになってくると、まわりの人たちやまわりの生命たち、目に見える生命であれ目に見えぬ生命であれ、に与える影響も変わってきますし、それによって周囲の自分に対する態度や対応も、まったく変わってくるのだから、面白いものです、よ。