正精進 | 億の細道

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1億円をようやく突破してきました。


果報は寝て待てというけれども、どうですかね?

仏道は欲望や怒りといった荒っぽくて粗雑なエネルギィをやっつけることを奨励しているのに対して、ヨクボーがなくなると何もできなくなるのでは、という根深い偏見について、お答えいたしましょう。ヨクボーという荒っぽいエネルギィをつかって行動すると後で疲れるのにたいして、精進エネルギィで物事に取り組みますと、ほとんど何の疲れも感じることなく、ひたすら邁進することができるのであります。

 たとえば私は、「戒」にしたがって午後には食事をとりませんが、こうやって食欲を抑制するだけでも、ものすごーくエネルギィがわいてくるのです。睡眠欲を抑制してやるとハイになったりしてエネルギィが充填されるのも、似たような原理だと思われます。

 そして精進は、「欲しい欲しい!」と見苦しくまわりを押しのけるようなエネルギィではなく、必要な仕事を、テキパキと的確に実行するのに適したエネルギィだと申せよう。

 今、己に与えられている現状を見回してみて、必要ないことは、やらない。必要なことを素早く判断して最短かつ最適のルートを考えてから、「定」の集中力と「念」の注意力を車の両輪として問題を解決すれば、すべてがうまくゆきます。

 何故現代人が疲れて忙しい忙しいと文句ばっかりいってるかと申せば、「今、この現状での、自分」にとって必要ないことに、ヨクボーに駆られて手をのばしてしまうからです。忙しいことにたいして文句をいっているくせに、忙しさから救ってくれる「精進」に対しても文句をいいたくなってしまうようなら、ワガママすぎて、もはやどこにも出口はありませぬ、よ。

 ヨクボーを肯定するかわりに忙しさと苦悩の中に突入していくか、それが嫌ならヨクボーをほどほどに薄めつつ、精進によって目の前に与えられてる仕事や問題をいっこいっこ解決してゆくべきではないでせうか。

 さて、正しい精進とは何かと申しますなら、心の中に次から次へとポップアップしてくる欲望や怒りや迷いといった煩悩をつかまえて抑制することによって、煩悩を実行するのに無駄遣いされるはずだったはずのエネルギィを、「雑念なき、純粋なやる気」へとエネルギィ転換すること。修行を進める中で、私はそのようにとらえるようになりました。

 「無我」の項目にて述べましたように、私たちの心には煩悩という名の外国人が、次から次へと不法侵入してこようとしております。それらの煩悩は過去に私たちが積んだカルマがもとになって勝手にポップアップしてきているわけですけれども、私たちはせめて、それらの外国人に対してパスポートチェックをすることはできるのです。

 悪い感情、たとえば怒りがポップアップしてきたら、「やあネガティヴなカルマがポップアップしてきたぞ」と観察して、その場でブロックするのです。(あ、心の観察のためには、前述の「正念」が役立ちます。)

 心に入国しようとして強引にやってきた「怒り」を、しばらく注意深い観察力によって観察していると、怒って「イヤイヤ!」をしている外国人は「無常」の法則にしたがって消えてゆきます。

 そして、悪いカルマをじょうずに消し去ることに成功すると、その「イヤイヤ!」をしていたエネルギィが丸まま手元に残って、精進の善いカルマへと変換されるのです。その瞬間に、何かしらの有益な生化学的反応が身体に起こり、身体が軽くなったり楽になったり緊張が取れたりポカポカしてきたりもいたします。

 もし怒りの感情をブロックし損なって不法侵入されてしまったとしても、ちゃんと「やあ、侵入されて暴れられちゃってるみたい」と観察して、ゆっくり怒りが消えるのを待ってから、次からは同類が入国してこないように待ち構えるようにすると、悪いカルマの影響力が少しだけ衰えます。

 それにすら失敗しちまって、怒りに駆られて誰かにケチをつけるようなことを言ってしまったとしても、「やあ、怒りを入国させて定住させちゃった」と観察して、次回に備えるようにいたしませーう。

 まったく反対に、誰かへの慈しみの心や同情の心といったような善いカルマがポップアップしてきたら、いえ、たいていの御方の場合本物の慈悲の心など滅多に出てこないものなのですけれども、いえ失礼、ともかく慈悲の心がやってきたら、次からももっとそういった善い心がポップアップしてくれやすくなるように、インセンティヴを与えてやると、心身ともにポジティヴなエネルギィが循環しやすい環境が徐々に整備されてくるのであります。

 カルマの領域における環境整備、それにより良質の燃料を確保いたしませーう。