[メッセージ]

                   

長崎教会牧師 黄大衛

 

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2024年7月21日(日) 聖霊降臨後第9主日

「飼い主のいない羊」

迷子群衆 今日のテキストは2つの出来事の記事です。2つの記事はいずれもイエス様の許に走って集まる群衆と、群衆の必要に応えるイエス様の姿を描いています。記事を時間順に追うというより、群衆の求める姿と応じるイエス様の姿に注目しています。一方は教え、一方は癒すイエス様の姿があります。

今はまず人々の求める姿を見ましょう。33節。「ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた」と。この時の群衆は具体的に何かを求めたというより、とにかくイエス様に会いに来たのです。乗る物にも乗らず、自分の足で走ってきました。湖を直線で移動する舟よりも、湖の外周を走る群衆が先に着いてしまうので、相当速く走ったのです。

そしてもう1つの出来事ではどうでしょう?こちらも舟から降りる場面ですが、ゲネサレトという場所が違います。54節の「一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って」という言葉の中の「すぐに」とか、55節の「くまなく走り回り」とか、「どこでも」という一連の言葉を通して、群衆の求める姿が印象的です。

2つの群衆の多くはイエス様の奇跡見たさに押し寄せたのでしょう。しかしそれにしても、その群衆の中にイエス様への信仰の芽も見られます。

55節、56節には、病の癒しを求める人々の姿があります。ここには病人は勿論、病人を運ぶ人がもっと多い事実もあります。病人と、病人を連れて来た人々。ここには、単なる好奇心だけではなく、イエス様への期待があります。

イエスを動かした姿 以上、群衆のイエス様を追う姿を確認しました。これから聖書に沿って、イエス様の応答を見ましょう。

そもそもこの2つの記事は、弟子たちの伝道旅行報告から始まりました。そしてイエス様は弟子たちを少し休ませるために、湖を渡って、人里離れた所に行かせたのです。

因みに31節、32節を見ますと、弟子たちだけで舟に乗ったようですが、34節にはイエス様も舟から一緒に降りています。

ところが舟から降りて休息のはずが、そのスケジュールは一変しました。34節。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、色々と教え始められた」と。急遽、イエス様の野外伝道が始まったのです。それは朝ではなく、午後、夕方に向かう時間帯なのです。

ここで言う「憐れむ」とは、「はらわたがねじれるような状態」を意味する言葉が使われています。それだけ強い言葉であり、思いが込められています。この「憐れみ」という言葉は神様やイエス様の場合だけに使われています。要するに、日常的な人間的の同情を超え、人に対して強くもたれる神の心を表しています。

群衆の姿とはどのようなものでしょう?それはイエス様の目に「飼い主のいない羊」のようでした。

舟を降りたイエス様はこの群衆を見て、深く憐れんで、色々を教え始めたのです。もっと言いますと、これからの教えはイエスの憐みの結果です。

憐れむ神 このように、イエス様と弟子たちを求めていた人々の姿は、イエス様の憐みを引き出しました。それにしても、同じ群衆を見ても、私たちは憐れむということはないでしょう。ごくごく普通の人々、好奇心で来た人もいたでしょうし、人につられて来た人もいたでしょう。それでも走って追いかけたのである程度の体力のある元気な人々でしょう。

しかしイエス様は「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」んだのです。この感情は親が子を想う感情、「可愛い」と「可哀想」が入り混じったようなものでしょうか?人には想像できない神の感情です。このイエスの「憐み」を見ましょう。

そもそも聖書の時代、そしてそれ以前も、神は恐ろしい存在でした。預言者たちはしばしば神様の裁きを伝えています。その上、律法学者やファリサイ派など宗教指導者たちは律法によって人々を支配していたのです。

その後中世に生きたマルチン・ルターも神様の裁きを免れようと修練に努めたのです。

しかしイエス様の姿が示すのは裁く神ではなく、人を憐れむ神、恵む神なのです。ルターもそれを発見しました。

ルーテル教会のモットーの一つに「信仰のみ、恵みのみ、聖書のみ」という言葉があります。これはイエスの救いについて語っています。その救いは人間側の努力や功績への報いではありません。神様の一方的な恵みなのです。そしてそれが聖書に記されているのです。

イエス様は人々を見て「飼い主のいない羊」のようだと受け止められました。つまり、飼い主がいないので、飢え渇き、傷だらけの状態に映ったのです。その欠乏は神だけが知り、神だけが満たし得るものです。

一方、群衆はその自覚がなかったかもしれません。しかし本人たちも気づかないところで、心の飢えと渇きがあるのです。イエス様はそこに目を止められました。

私たちの信仰現状 さて以上、人の姿とそれを見たイエス様の反応を見ました。では、私たちはどうでしょうか?

実は私たちも、神様から見たら「飼い主のいない羊のような有様」であり、イエス様の憐れみをいただかなければならないものなのです。私たちには多少弱さの自覚はあっても、まだまだ自分の欠乏を知らないのです。黙示録3章17節には、私たちは「裸で貧しく、惨めで目が見えない存在」だと言われています。

そのような私たちの前にイエス様は良い羊飼いとして立っておられます。そして「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言っているように、自ら十字架にかかり、私たちの罪を贖い、私たちをしっかりと父なる神様に執り成してくださるのです。

聖書はこの救いの出来事を御言葉として語ります。そしてこの御言葉によって私たちは満たされ養われるのです。

私たちの毎日には、喜び、心配、苦しみや悲しみがあります。それは時には、たわいのないことかもしれません。そんな小さなことでも、私たちはその苦しみや悲しみにふさがれて、飼う者のいない羊のようになっているかもしれません。

しかしそこに私たちを深く憐れむイエス様の眼差しがあります。この眼差しは自らを十字架にかけられる程に私たちを愛している眼差しです。私たちは、このイエス様の眼差しを受け入れて、飢え渇きと傷を満たし、癒していただきましょう。

 

 

2024年7月14日(日) 聖霊降臨後第8主日

『最小でも、「最も偉大」を超える』

洗礼者ヨハネ現れの背景 今日のテキストは洗礼者ヨハネの死を記しています。このヨハネはイエスの弟子とは別の人物です。区別するため、洗礼者ヨハネと呼ばれます。この洗礼者ヨハネは紀元28年頃にヨルダン渓谷に現れ、洗礼運動を行った預言者です(ルカ3:3)。

当時ユダヤはローマによって支配され、全国各地でローマの植民地支配に対する叛乱が続き、世の中が騒然としていました。そのような状況で、人々は「世の終りが近づいている」と思い始めていました。

そのためユダヤ全土から多くの人々がヨハネの元に集まり、洗礼を受けたのです。そしてナザレのイエスもヨハネの呼びかけに応じてユダヤに赴き、洗礼を受けました。

ところで、その洗礼者ヨハネはそれから1~2年以内に死んでしまいます。ヨハネはその周辺地方の領主ヘロデ・アンティパスに殺されたのです。

今日はこの記事から教えられましょう。

人を恐れる権力者ヘロデ王 まずヘロデを考えてみます。ヘロデはローマ支配下で立てられた王でした。彼は権力を持っています。

しかし、権力があっても、彼は群衆を恐れ、またローマも恐れている側面もあるのです。なぜなら、彼はローマから任命された分権王ですので、民衆の支持がなくなると身分を失う危険性があったからです。

事実、彼は後にローマ皇帝に失政を咎められます。そして流刑地ガリヤで処刑されたそうです。

王に殺された偉大なヨハネ 以上ヘロデを見ました。次にヨハネの方を考えます。彼は当時の権力者ヘロデを批判したため捕らえられ、処刑されました。一見、権力者の前に彼の無力さが見えます。

しかしそれにしても、ヨハネは預言者であり、神を畏れる人でした。まさに神を畏れる人ですので、人を畏れません。それは民衆とローマを恐れたヘロデ王と正反対でした。

だからヨハネはヘロデ王の不倫を知ると、躊躇うことなく彼を批判したのです。そのため殺されました。

マルコ福音書は、それを淡々と述べていますが、興味深いことに、神の評価が記されています。

マタイ福音書で、イエス様は次のように語っています。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である・・・およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった・・・彼は現れるはずのエリヤである」(11:7-14)。

つまりここで、イエス様はヨハネを預言者以上の者と評価しておられます。もっと言いますと、ヨハネは神の目では預言者以上であり、人間で最も偉大なのです。

ヨハネの死は時代の分岐点 さて今日冒頭で述べましたが、ヨハネは洗礼運動を始めた預言者です。ヨハネは当時「悔い改め」を呼び掛け、人々はそれに応じて洗礼を受けました。

しかしイエスは、その呼びかけに人とは違う応答もしたのです。つまり「神の救いが始まった」と。そして自分もすぐヨルダン川に行って洗礼を受けました。その洗礼はイエスに「神の子」としての使命を改めて自覚させるのです。

これから洗礼者ヨハネの別の役割が分かります。ヨハネはイエスを世に出すための役割を持っていたのです。当時人々は力強い言葉で神の言葉を語るヨハネこそが、「救い主かもしれない」と思いましたが、ヨハネはその思惑を否定しました。彼はこう言いました。「私よりも優れた方が、後から来られる。私は、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。私は水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(1:7-8)と。

更にマルコ福音書の1章14節~15節にこういう言葉があります。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」と。

これらの記事から、イエス様が公に宣教を始められたきっかけは洗礼者ヨハネの逮捕でした。ヨハネの逮捕を通して、自分も同じような危険の中に立つことを自覚し、残された時は少ないことを悟られ、宣教を始めたのです。

非常に興味深いことに、イエス様のこの宣言は、ヨハネの宣教の言葉とほぼ同じです。関心のある方はマタイ福音書を後で見てください。ここに、イエス様はヨハネを継承したと分かるのです。

ヨハネを超えた本来の救い主イエス さて私たちは今の時代で、イエス様中心の宣教の言葉を聞いていますので、イエス様は救い主、と受け止めています。それにしても、聖書の記事を読んで、当時の状況を考えれば、イエス様は全く無名な存在です。ですから、当時の人々も、ヘロデ王も、イエスは洗礼者ヨハネの宣教の延長線に立っている一宗教活動家なのです。

勿論私たちは、イエス様がヨハネ以上に働いたことを知っています。聖書でヨハネとイエスを比較すれば、イエス様の超越性は明らかです。そしてその超越の度合いをヨハネも全て分かっていませんでした。

例えば、イエスの使命についてヨハネは裁きを語り、イエスは福音を語るのです。ヨハネはこう言いました。「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(ルカ3:7-9)と。これは全く審判の説教です。

一方イエス様はこう言っています。「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」(ヨハネ12:47)と。

つまり偉大なヨハネであっても、イエス様の語る裁きを超えた救いと、救い主のありようを完全には解っていませんでした。それ故ヨハネはイエス様にがっかりしたことがあります。つまり逮捕後、獄中のヨハネはイエスについて噂を聞いて、自分の弟子を遣わしてイエス様にこう聞きました。「来るべき方はあなたなのでしょうか。それとも他の方を待たなければなりませんか」(マタイ11:3)と。つまり「あなたは本当に救い主ですか?」と聞いたのです。ヨハネが獄中にいても助けてくれない。ヘロデもローマも何も変わらない。世の中は全然そのままです。期待していたイエス様は、ごくごく小さい地域で宣教しているだけで、全く普通の人にしか見えません。ヨハネは失望したのです。「思っていたと違った」と。

偉大なヨハネもイエス様が分からなくなりました。さて、私たちはどうでしょうか?私たちは今日ヨハネを超えるように教えられています。

なぜなら聖書にはこういうイエス様の言葉があるからです。「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(マタイ11:11)と。

つまり、イエス様に従っているこの「天の国で最も小さい」者とは私たちなのです。私たちは、イエス様のように、信じない者のために活動したり、「罪は既に赦されている」と宣教したりしているからです。ここに「福音」があるのです。

私たちの目にする世界の状況は厳しいです。しかし私たちに託された小さな範囲の中で、人を赦し、人を活かすなら、神の国は前進しています。

救いも救い主も、人のイメージでは計れませんが、確かにイエス様は共に働いてくださいます。どうかこれを心に留め、あえて勇気を出して充実に日々を過ごしましょう。

 

 

2024年7月7日(日) 聖霊降臨後第7主日

「身一つで出発せよ」

手ぶらでの旅 今日の福音書は、イエス様の弟子派遣の記事です。ここには、イエス様の派遣に際する具体的な指示があります。聖書の8節、9節を見ましょう。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」と。

このイエス様の命令は殆ど「体一つで行ってこい」というものでしょう。これは1時間の出入りではありません。数日間の旅です。

イエス様がこのように遣わすのは、意地悪や無謀ではありません。その目的は神への信頼を育てるためなのです。この派遣を見ると、人は神様を信頼して、導きに任せる必要を教えられます。

神の用意に不足なし この旅には、杖一本と履物だけが許されましたが、ほかは全部許されませんでした。つまりパンや袋、お金など、更に、二枚目の下着さえも許されなかったのです。

それで彼らは困ったでしょうか?ルカ福音書22章35節を紹介します。

「イエスは使徒たちに言われた。『財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。』彼らが、『いいえ、何もありませんでした』と」。

この言葉から分かることは、当時の弟子たちが手ぶらで旅に出たとしても、何の不足もなかったことです。

このように身一つで出発して、弟子たちは身をもって、神の用意の確かさを知ったのです。

神の備えと言えば、一つの実話を紹介します。宣教師の奥様がある朝、お金がなかったため、登校する子供への弁当を用意できませんでした。そこで彼女は祈りました。すると丁度その時、台所の窓を「コツコツ」叩く音が聞こえました。窓を開けると、隣の奥様がこう尋ねたのです。「すみませんが、今朝サンドイッチを多く作りましたが、お子様に食べさせてもらえませんか」と。

このタイミングに、この宣教師の奥様は神の備えの確かさを知りました。

今日のテキストで、イエス様は身一つで神の備えのレッスンを学ばせました。

弟子訓練の一環 さて、以上イエス様の弟子派遣を見ました。この時の派遣は短い期間でした。つまり出て行ってすぐイエス様の許に戻ります。しかしその後、弟子たちは、イエス様の許から出ても、もう戻らない旅立ちをするのです。

それはイエス様が弟子たちを残して天に昇る前の派遣です。イエス様は次のように弟子を派遣しました。「あなたがたは行って、全ての民を私の弟子にしなさい」。

この最後の派遣よりも前に語られたのが、今日の聖書箇所です。その時弟子たちは伝道で主役を果たしていました。それでも信仰的には、未熟だったことも見逃せません。ですので、今日のテキストの伝道派遣はごくごく小さな初訓練なのです。

訓練の目的 それでは、この初訓練の目的はいったい何でしょう?それは繰り返し言ったように、神への信頼性を育てるためです。弟子派遣と言えば、私は一つのことをいつも思い出します。

24年前、私は横須賀で牧師をしていました。その時期、横浜に「ドウロス」という伝道旅行中の船が寄港しました。その船には、誰でも参加できる8週間の訓練のコースがあったのです。そのコースの中に4日間の訓練が含まれています。その4日間は2人ずつ伝道の旅に出て、伝道を体験するのです。それはほぼ、今日の聖書に基づいた訓練で信仰が試される内容でした。その4日間コースは、聖書よりは緩い訓練でしたが、魅力がありつつも厳しいものでした。

当時の私はその4日間コースの訓練を受けてみたいと思ったのです。私は神に対する信頼度、或は自分の信仰の弱さを自覚していましたが、その旅は魅力的でした。なぜなら聖書のような厳しい伝道を体験したかったからです。また、神への信頼もより強くしたかったからです。

神への信頼を固めよう! 以上、今日の箇所に示されている伝道派遣の目的を確認しました。最後に、神への信頼を考えましょう。

興味深いことに、今日の福音書のテキストは、伝道派遣の記事だけではなく、イエス様が故郷で受け入れられなかった記事も含んでいます。3節を見ましょう。3節。

「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた」と。

この言葉によって、故郷の人々の思いが分かります。故郷の人々はイエスを知り尽くしていました。子どものころから知り、家族も家も知っていました。それ故イエスを見下し、イエスへの不敬が現されたのです。

イエス様はこの様子から過去の預言者たちも故郷で受け入れられなかった、と指摘します。4節。「イエスは、『預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである』と言われた」と。

故郷の人は何故預言者たち、そしてイエス様を受け入れないのでしょうか?それは故郷の人が預言者やイエス様をどうしても自分の理解の枠に閉じ込めてしまうからです。その枠から出られないと、信仰に導く人々の言葉を受け入れられません。信仰の世界は一度裸になって、色々なものを剝ぎ取ってこそ見えるものがあるようです。ですからイエス様はわざわざ弟子に何も持たせないで、身一つにさせたのです。

私たちも色々な物や力を手にいっぱい持ち、頭にかぶっているのではないでしょうか?神様がよく分かるために、身軽になって神様の声を聞き分けましょう。

 

 

2024年6月30日(日) 聖霊降臨後第6主日

(日付が6月23日のままになっていたので、修正しました。大変失礼致しました)

「崖っぷちの二人」

2つの共通点 今日の福音書には、2つの出来事の記事です。2つの癒しと2人の人物が描かれています。

イエス様がガリラヤに戻った時、会堂長ヤイロがイエス様を待っていました。彼は娘が危篤で、イエスの助けを求めに来たのです。

そしてイエス様はそれに応じてヤイロの家に向かう途中、長い間婦人病に苦しむ女性と出会いました。イエス様は彼女を癒す間に、ヤイロの娘は死んでしまいました。しかし、イエス様は依然ヤイロの家に進み続け、死んでしまった娘を蘇らせました。

このように絡んでいる2つの出来事には、2つの共通点があります。

1つは「十二年間」という期間です。一方の出来事に登場する少女は十二歳です。そして、もう一方の出来事に登場する女性は病歴が十二年間でした。つまり、一方の少女が生まれた頃から、女性の病気は始まっていることになります。

もう1つは、両者とも必死の思いでイエス様に賭けているのです。

今日は、イエス様がこの崖っぷちに立たされた2人にどう応えたかを見たいのです。

婦人病の女性の癒し まず婦人病の女性の癒しを考えてみたいのです。

聖書の25節から29節を見ると、この女性の病気が12年も続いた事とその闘病の苦しさが分かります。26節を見るとこうあります。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」と。

12年間財産の全てを使っても治らなかった辛さはどんなものでしょう?更にこの病気はもう1つ辛い側面があります。なぜなら、これは婦人病であり、旧約聖書によれば(レビ記15:25-26)、出血を伴う病気は不浄とされたからです。従って、人前に出られません。これは病気の感染を防ぐためです。ですからそもそも人の集まる所に行ってはいけないのです。しかし、彼女はイエス様に接近するために人々の中に紛れ込んで、後ろからこっそりとイエスの服に触れたのです。

この女性の行為には、彼女の切羽詰まった状況を感じます。もし明らかになれば処罰を受けるかもしれません。それでもこの女性はイエスの噂を聞いて、「この方こそ自分の唯一の希望だ」と思い切って、すべての希望をイエスに賭けたのです。そして結果としては、彼女の難病は治されたのです。

イエス様の応え このようにして、この女性は全く盗人のようにイエス様から癒しをもらいました。それでこのまま、彼女は静かに立ち去ったでしょうか?30節を読みます。「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、『わたしの服に触れたのはだれか』と言われた」。

こうして、この女性が「治った」と、体に感じるやいなや、イエス様はすぐに気づき、振り返ったのです。この言葉に女性は凍りついたでしょう。彼女はそっと立ち去るつもりが、自分の違反が明るみに出されようとしています。ですから33節のように、彼女は恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、イエス様にすべてをありのまま話したのです。「もう逃げられない」と。

イエス様は叱ろうとしたのでしょうか?違反を暴こうとしたのでしょうか?彼女は畏れましたが、イエス様の目的は違いました。34節を見ましょう。「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい』」と。・・・つまりそれは祝福のためでした。更に単なる症状の停止でなく、体も霊もイエス様との信仰の出会いで癒された完了の宣言のためです。

だからイエス様はあえて女性を探し出して、彼女と話をして、人格と人格の関わりを通して、彼女を祝福したのです。

このように、この女性の必死の思いとイエスの憐れみが共に働き、人から隔てられ、社会的に生ける

 

 

 

 

 

 

(しかばね)のようだった彼女を新しい命によみがえらせたのです。

イエスのヤイロの信仰への応え 次に会堂長ヤイロの娘の癒しを見ましょう。イエス様はヤイロの家に行く途中で、出血の女性を癒す間に、ヤイロの娘が亡くなりました。

しかしイエス様はヤイロにこう言いました。36節。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。つまり「死でさえも神の行為を中断することはできない」と言われたのです。

そしてイエス様はヤイロの家に急がれます。家に着いてから、悲しんでいる人々にこう言いました。39節。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」と。人々はイエスを嘲笑います。彼らは娘の死を現に見ており、眠っているのではないことを知っていたからです。

ところが、イエス様は実際に子どもを甦らせたのです。41節。「子供の手を取って、『タリタ、クム』と言われた。これは、『少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい』という意味である」と。

ここで言う「タリタ、クム」はアラム語です。ですから、この物語は単なる伝承ではなく、歴史的な事実だと考えられます。なぜなら、この出来事を目撃した弟子たちはイエス様が当時語った「タリタ、クム」に強い印象を持ち、そのアラム語のままに後世に伝えたと思われるからです。

そのようにして、ヤイロの信仰がこの奇跡を生みました。聖書に名前が残っていることから、ヤイロはマルコの教会の中で広く知られた人物だったと推測できます。ヤイロは娘の癒しを通して、イエス様に従う者に変えられた可能性は大きいのです。この出来事は少女の病の癒しだけではなく、父親と娘の二人がよみがえった物語なのです。

同じマルコ福音書9章23節にこういうイエス様の言葉があります。「信じる者には何でもできる」と。

ヤイロは娘が危篤になり、会堂長としての世間体を顧みず、得体の知れない田舎者青年を頼ったのです。「この人以外には娘の命を救える人はいない」との必死の思いで願ったのです。

彼には使用人もおり、家族もいました。更に娘は死の床にありました。通常は父親が出かける状況ではありません。しかし他の人を遣わせば良いのに彼自身が出迎えに来ています。

因みに、途中で使いが娘の死を知らせに来ますが、その時の使いは「もう先生を煩わすには及ばない」と礼儀正しく足を止めようとします。そして、イエスを家に迎えた時の人々の対応も、イエスを嘲笑

 

 

 

 

 

 

(あざわら)っていました。ヤイロの周囲の人々はイエスに頼ることに反対だったかもしれません。

それにもかかわらず、ヤイロはイエス様に求めました。その期待こそが、イエスを動かし、そして神を動かしたのです。

ですから、この2つの事例を通して、必死で求めるなら、神は必ず応えてくださると教えられます。そしてそれは単なる困り

 

 

 

 

 

 

(こと)の消滅だけでなく、信じる者への人生全般に及ぶ祝福だと分かりました。

私たちはもうなす

 

 

 

 

 

 

(すべ)がない崖っぷちに立たされることがあります。しかしそれは神と本気で向き合う機会なのです。その時に失望せず祈り続け、神の存在を体験し、神の栄光を見ましょう。

 

 

2024年6月23日(日) 聖霊降臨後第5主日

「黙れ。静まれ」

不安が生じやすい現状 今日の福音書は、イエス様が嵐を静める記事です。

この出来事の場所、ガリラヤ湖は周りの山々に囲まれているため、突風が生じやすいそうです。それ故突風はガリラヤ湖特有なものでしょう。また突風とは、文字通り、突然来て、また突然止む風です。つまり、予想できない自然現象です。

このような突発事件は私たちの日常にも通じるでしょう。日頃、波風のない生活を送っていても、突然対処できないような突風が生じることがあります。ですから、私たちが時々不安や心配に陥ることがあるのです。

さて聖書に戻りましょう。35節を見ると「夕方」とあります。この出来事は夜のことでした。夜、舟を出し、漁に出ることを知っている弟子たちにとっては、このイエス様の言葉はあまり問題がなかったでしょう。

この「向こう岸」とは、今日のテキストのすぐ後の箇所、5章の1節にある「ゲラサ人の地方」です。このゲラサ人とは、詳しくはよく分かりません。ただ、純粋なユダヤ人でなく、異邦人が多く住んでいた地方だったようです。つまり、ユダヤ教以外の信仰を持つ人々の地方です。

イエス様の弟子にとって、今まで慣れていた地元ガリラヤから、異邦人の地に出て行くのは、緊張を感じたことでしょう。・・・私たちの日常生活でも、慣れていないことや場所には、緊張や不安が感じられるものです。

力が及ばなかった時 それでも、イエス様に『向こう岸へ渡ろう』と命じられた弟子たちの多くは、このガリラヤ湖において働いていた漁師でした。

ですから、ガリラヤ湖のよく知っていた人です。向かう先は未知の場所でも、通る道には慣れているのでした。だから彼らは舟を漕ぎ出したことにおいては、あまり重圧もなかったでしょう。

勿論、イエス様が「行こう」と言われたから行ったはずです。それでも、交通については「大丈夫だ」と思い、舟を漕ぎ出したことにはほぼ間違いありません。。

しかし、聖書の予期しなかった突風と出会いました。多分彼らは、今まで突風に見舞われたこともあったでしょう。その対処法も体得していたでしょう。それでも今回は、努力したとしても、力が及ばなかったのです。37節。「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」と。これは緊急状態です。

弟子たちは自分の力で、どうしょうもない時に、艫の方で眠っておられたイエス様を起こしました。38節。「『先生、私たちが溺れてもかまわないのですか』と言った」と。それは弟子たちの文句、不満とも言えるでしょう。

黙れ、静まれ 今、イエス様は起き上がって風を叱り、湖に向かって、「黙れ。静まれ」と言われました。風もその通りにやんで、すっかり凪になりました。

でも、「黙れ。静まれ」という言葉はただイエス様が風に向かって叱る言葉だけではなく、弟子たち、そして私たちにも「黙れ。静まれ」と言われているのです。それは、人の内面の嵐を治める言葉です。

自分のことを話せば、私は自分がいいと思うやり方で仕事をスムーズにやっている途中、突然人に非難されたら、もう自力で自分の感情の制御が難しくなります。そして物事に冷静に向き合えません。皆さんはいかがでしょうか?仕事、家庭、人間関係の色々で心が乱れたことはありませんか?そんな時、イエス様は私たちに「黙れ。静まれ」と言うのです。

注目すべきは、イエス様が嵐を静めた後、弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と問うた問です。この「まだ信じていない」という言葉に重みがあります。イエス様はずっと待っているのに、信仰が弟子たちの中にまだ見えてこない。まさに信仰がないので怖がったのだ、とイエス様はこう言うのです。

つまり、信仰がないとは、イエス様がそばにおられるとしても、私たちを守ってくださることをなかなか信じない。そして自分を見失うことを指しているのです。

それにしても問題は、なぜイエス様が弟子たちを放っておいて自分が眠ってしまうのかということです。人としては、寝ていないで一緒に同じものを見て隣にいて欲しいです。これこそは信仰について神様の啓示を表わしている所だと思います。

信仰とは一体何でしょう。イエス様を起こしたから、イエス様に信仰がないと叱られました。では、イエス様を起こさないで、私たちもイエスのように寝たらいいでしょうか?後は神様に任せて目を閉じればいいでしょうか?私はこれもイエス様が望んでいる信仰の姿とは思いません。

私は、もし、弟子たちがイエス様を起こさないで、引き続き持ち場で働いたら、弟子たちの信仰の姿を見ることができると思います。なぜなら、イエス様が寝ておられる姿を見て信頼すれば、安心して漕ぐことができます。しかも、我々は大丈夫と確信して、夢中になって漕ぐ。夢中になって水をかき出す。このようなことが、信じる者の行動ではないでしょうか。その時、イエス様は弟子たちの信仰に託して、眠っておられたのです。

更に言えば、ここのイエス様の眠っておられる姿は、イエス様の確実の存在感を示す姿ではないかと思われます。

今、イエス様は弟子たちと同じように私たちにお任せになっているのです。しかもその任せたということは、私たちと共におられた上でのことです。この点を覚えるならば、たとえ周りが険しくなっていても、自分を取り戻し、凪になるでしょう。どうかこれを心に留め、神様の愛に励まされ、一緒に新しい日々を送りましょう。

 

 

2024年6月16日(日) 聖霊降臨後第4主日

「種の成長を見よ

不安 私の苗字は今中国語の読みで「ほわん」としていますが、日本語発音の特徴で「ファン」で呼ばれることが多く、時には「ふ・あん」と呼ばれた時もあります。

ところで、「不安」と言えば、今度は真面目なお話です。私は祖国を離れて日本に来て以来、ずっと神に頼って生きてきました。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)という聖句は私の座右の銘です。外国でしかも言葉がよく分からない状態で暮らすことは不安の連続でした。信仰が強い時にはまだ大丈夫ですが、挫折を受けた時には、信仰さえ弱くなり、不安に囲まれることは常のことでした。だから私の苗字は「不安」が相応しいかもしれません。

これは勿論私の特例ですが、皆さんにも、生活の不安が少しはあるでしょう。

 もし不安はなくても、今日の聖書から神の励ましをもらえると思います。今日の聖書を見ましょう。

ここには、種に関する2つの有名な例え話が記されています。ここから、隠されている神の働きを学ぶことができます。

事に隠されている神の働き まず「成長する種」の話を見ましょう。

ここでイエス様は、当時誰もが知っている農夫の種蒔きから語り始めました。まず土に種を蒔きます。そして蒔いてから、数日程度で、種は芽を出して育っていきます。けれども、どうしてそうなるのか、人には分かりません。皆さんも人生で一度位は種を蒔いたことがあるでしょう。しかし種の中で何が起きているのかは分かりません。

確かに、種を土に蒔いた時から、どのように成長するのかは、全て隠されています。私たちの期待通りに成長を遂げるかもしれません。或いは発芽すらしないこともあります。種が手からこぼれて地に落ちた時から、イエス様が言ったように、種は農夫のコントロールを超えて、勝手に芽を出して、ひとりでに実を結ぶようになってしまうのです。

私たちの場合、わざわざ種を蒔いたら、その植物が枯れないように、必ず水をやったり、肥料を施したり、雑草を抜いたりします。いつも働かなければなりません。日本の農作業では、手で雑草を一本一本抜くような丁寧さが世界で有名です。また、その実りを刈り入れるまで、ずっと天候が気になります。それでも台風やひょうなど思いがけない自然現象で駄目になることもあります。或は人が手をかけなくても、実る物もあります。

聖書の28節の表現を注意しましょう。28節。「土はひとりでに実を結ばせる」と。ここで言う「土はひとりでに」の働きは人間の知恵を超える自然現象を表す言葉です。そしてイエス様が言うのは、単なる自然の働きではありません。その背後にある神の御業を示しています。

私たちはどんなに一生懸命田畑で働いても、どのように望んでいても、自分の力で実を実らせることはできません。それに意識があっても、意識がなくても、その背後にある神の力を見落とせません。

神にある力 それに続いて、「からし種」の例えも意味深いのです。からしは当時のユダヤ人の日常生活ではありふれた作物のようです。からしの種は、ゴマの粒より小さいが、5メートル位まで成長できます。聖書で野菜と言っていますが、5メートル位ですので、木のようでしょう。小さな砂粒のような種が育って、この教会の1階から2階までのオリーブの木のような成長をするのです。そう考えると感慨深いでしょう。

この「どんな種よりも小さい」状態から、「どんな野菜よりも大きい」状態まで成長させる力を想像すれば驚きなのです。

例えにある摂理 以上、この二つの例えの共通の部分は、どちらも種を蒔くという作業から始め、終わりには、大きな結果を得るというものです。

因みにイエス様は、この例えの中で、農夫の世話には全然触れていません。これこそは、意味深いのです。つまり、ここに真理が啓示されていると思います。

種蒔きから収穫までの長い間に、毎日の世話を除いて、人を一番煩わせることは収穫についての不安でしょう。

しかしイエス様は、この「成長する種」という例えを通して私たちにこういうことを暗示しています。即ち私たちは煩わずに、神様が必ず成し遂げてくださることを信ぜよ、と。そのように暗示しているのです。最も大切なことは、全て神様がなさるということです。

私は過去を振り返れば、日本に来てから36年の間に、不安をいっぱい経験したのです。お金のこと、外国人なので滞在資格のこと、子どもの教育、親の世話、健康、などなど。それでも神の力を借りて困難を乗り越えた証しもいっぱいあります。これは事実です。そして心配したけれども起らなかったことも多かったのです。

結び では、なぜイエス様がこの例え話を語られるのでしょうか?それは神の国の恵みを伝えたいからです。まさにイエス様は神の国をもたらそうとしておられたからこそ、この世に来てくださったのです。神の国とは、正しく優しい世界です。正しいこと、愛することは、イエス様ご自身の業を指しています。残念ですが、この地上には正しくないことも存在しています。神様が創られた良い世界に人の罪があるからです。そんな世界に、イエス様はご自身を種として蒔いてくださったのです。

さて、現実の私たちは、信仰を持っていても、持っていなくても、同じように様々な心配があります。そして心配から、煩うようになってしまいます。でも、神様の国は既に始まりました。私たちは種の成長を信じて、できることをして、時を待てばいいのです。私たちは自分の物事から目を上げて、神の国を広げておられるイエス様を見ましょう。このイエス様のなさる私と世界への業を信じて今週も生活しましょう。

 

 

2024年6月9日(日) 聖霊降臨後第3主日

「イエスによる解放」

反対勢力 今日のテキストは、イエス様の力の由来についての論争です。

今までイエス様は癒しなどの奇跡を多く行いました。イエス様の助けを必要とする人々は益々イエス様の所に押し寄せてきました。しかしそれと同時に、イエス様を変人のように見ている人も沢山いたのです。それで、人々にはイエス様の力への疑問が出てきました。

聖書を見ましょう。21節、22節に記されているように、群衆に対して、2つの対照的なグループが登場しています。

1つはイエス様の身内の人たちでした。彼らは、「あの男は気が変になっている」というイエス様についての噂を聞いて、家族の不祥事を抑えるためにイエス様の所に来たのです。

もう1つは、エルサレムから下って来た律法学者たちでした。彼らはイエス様を「あの男はベルセブルに取りつかれている」と言っています。ここで言う「ベルゼブル」とは「悪霊の頭」の意味です。今の言葉で言いますと、イエス様の力は神からではなく、邪霊に由来したことになります。ですから、イエス様に悪魔払いに来たのです。

つまり1つは病気、1つは悪霊の影響と考えました。

この2つの反応に対して、イエス様はこう答えられたのです。28節、29節。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と。

冒涜とは ここで言う「赦されない罪」は聖霊を冒涜することです。具体的に言えば、「ベルゼブルに取りつかれている」ことを指しているのです。

つまりイエス様は、ご自分について悪霊や病の影響を否定しています。イエス様を取り巻く人々は、イエス様を異常者と見る人ばかりだったのでしょうか?・・・いいえ、そうではありませんでした。違う受け止め方も紹介しましょう。

ある時、イエス様を訪ねたニコデモは、イエス様にこう言いました。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」と。

ここで言う「わたしども」は、ユダヤ教の上層部を指す言葉です。言い換えれば、ユダヤ教の上層部で、イエス様が神のもとから来たと考えた人々もいたのです。しかし今日の聖書には、そのような主張する人はいません。

今日の学者たちはイエス様の力は認めます。しかもこの力は霊に由来するとも認めます。しかしこの霊は神の霊ではなく、悪魔からの霊だと言うのです。これが冒涜なのです。

それで、イエス様はここで厳しいことを言いました。イエス様のこの言葉を聞くと、赦されないような印象を受けます。しかしこれは断罪ではありません。

なぜならイエス様にはこういう言葉があるからです。ヨハネによる福音書12章47節。「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」と。

イエスをコントロールしたい 以上、冒涜について確認しました。では、先程の2つのグループの話に戻りましょう。この人々の姿からイエス様に対する誤った態度を教えられます。実は、イエス様の身内も、律法学者も、自分の納得のいく範囲の中に、イエス様をコントロールしたかった、という1点が共通しています。

律法学者たちは神のことを一番よく知っているという自負心を持っている人でした。無意識の内に、信仰の世界は、自分たちは十分知っていると思っているようです。自分たちは神の教えを知り尽くしている。神のことは全部知っている。目の前で起きているイエスの行動は神からのものでないと言い切ってしまいます。更に、イエス様のやり方が自分の思いかなり違ったので、その超越的な力が悪い存在から来た力だと勝手に断言してしまいました。ここに「自分たちは正しい」という自信が見えます。

実は、このような姿は、私たちの日常の生活にも見出せると思います。自分の思いやイメージと違う事柄に対して、理解しようとせずに、レッテルを貼ってしまうのです。

イエスによる解放 さて、以上のような背景に基づいて、27節を読みますと、この言葉は、大胆不敵な宣戦布告の言葉だと言えます。

27節。「まず強い人を縛り上げなければ、誰も、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることは出来ない。まず、縛ってから、その家を略奪するものだ」。

何と、イエス様はご自身を「家に押し入る強盗」に譬えています。その家を征服するためには、その家の一番強い人を真っ先に縛り上げなければなりません。そうすれば強盗はやすやすとその家の家財道具を自分のものにすることができます。

それは、こういう意味です。家の元の支配者、つまり悪霊、悪い力を縛り上げ、追い出さなければ、その家をどうにも出来ません。つまりサタンのような悪の力に支配されている世界を解放することはできないという意味なのです。それをイエス様はユーモラスに譬えているのです。

それにしても、ここのイエス様である強盗とは、思いがけない侵入者です。既に人の心を支配していた悪の力を追い払うために、新しい主人の侵略が必要です。こういう侵略ならば、私たちは喜んでお迎えしなければなりません。イエス様はご自分の力で、力ずく、今私たちの心の中に入って来てくださいます。

イエス様は、私たちの日常の生活の中に、更に私たちの心の中に入ろうとして来てくださいました。そして罪に支配されている私たちを、ご自分の支配のもとに移してくださるのです。

しかも事実として、私たちを神の家族の一員にしているのです。35節。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と。

どうか私たちがイエス様の身内であることを心に留め、私たちの中に来られたイエス様を改めて認め、心の中心にイエス様をお迎えして、この一週間を始めましょう。

 

 

2024年6月2日(日) 聖霊降臨後第2主日

「ルールの目的」

「安息日」についての衝突 今日のテキストは安息日に関する記事です。そこにイエス様とファリサイ派の人々との衝突が示されています。

まず、安息日と言えば、私たちはすぐに日曜日を思い浮かべるでしょう。思えば、今から5千年前に安息日が法で定められたこと自体が素晴らしいと私は思います。

この安息日の由来を確認しましょう。安息日は聖書の初めの記事に登場します。旧約聖書の第1巻である創世記の2章3節にはこういう言葉があります。「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」と。これが安息日の由来の一つです。

また出エジプト記20章8節に、安息日を守ることは十戒の第4条とされました。

このように、安息日は大変重要な位置につけられています。

しかし律法で定められてから3千年がたったイエス様の時代、安息日はどのようになっていたでしょうか?・・・今日の聖書は安息日論争となっています。つまり安息日を巡って学者とイエス様とに激しい衝突が生じました。しかもこの衝突はイエス様への殺害計画にまで発展するのです。

この衝突の一方は信仰に熱心な学者たちで、もう一方は田舎出身の庶民の若者でした。ちょうど私たちの中の太田さんより少し若い、そんな青年1人と数人の大人たちの対決なのです。・・・今日は聖書を通して、この衝突の本質を辿りたいのです。

ルールだけを重視し過ぎる誤り まず今日の聖書の前半の「安息日に麦の穂を摘む」という部分を考えて見ましょう。23節、24節。「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、『御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか』」と言った」と。

法律のプロ集団によれば、弟子たちの「歩きながら麦の穂を摘む」ことが、「安息日」違反に当たります。

因みに安息日に許される行動として、歩くことが挙げられます。しかし「麦の穂を摘む」のが規則違反なのはなぜでしょう?

またそもそも、弟子たちはなぜ穂を摘んだのでしょうか?併行記事のマタイによる福音書の12章1節によれば、空腹が理由です。まさにお腹が空いたため麦の穂を摘んで食べたのです。因みにここで他人の畑に入ることは許されていたようです。

また安息日は食べることも許されます。そうすると、弟子の違法行為は穂を「摘む」ことしか残っていません。もっと言いますと、ファリサイ派の人々はこの「摘む」ことから収穫に当たると考え、大騒ぎをして弟子の行動を批判したのです。

確かに、収穫の労働は「安息日にしてはならないこと」として禁じられている234種類の行動の中の一つです。

それでも今の私たちの目では、このファリサイ派の人の問い詰めは冗談のように感じられます。しかし当時の彼らは真剣でした。

以上、今日の聖書の前半の安息日論争を見ました。次に後半の癒しの部分を見ましょう。これも安息日の記事です。

当時、安息日には癒す行動も許されません。安息日のイエス様の行動には人々の視線が注がれています。3章2節。「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気を癒されるかどうか、注目していた」と。

この「注目していた」人々の目はどのような目だったのでしょうか?どうやら「どうか癒してあげてください」という温かい期待に満ちた眼差しではなかったようです。

ですからイエス様は彼らにこう問うたのです。4節。「そして人々にこう言われた。『安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。』彼らは黙っていた」と。

安息日を守る目的 ここでイエス様は、安息日の本質を問いかけているのです。

以上、2回の安息日の記事でイエス様は聖書の斬新な解釈をしたのです。そもそも旧約聖書は神の命令という形で伝えられたのです。それで、神の命令を守ることが信仰の全てになりました。

十戒を読みますと分かりますが、「○○してはならない」という命令が印象に残ります。例えば、「ほかの神々があってはならない」、「偶像を拝んではならない」、「殺してはならない」などなど、です。そして長い歴史の中ユダヤ民族は守ることに注力し過ぎて、神の命令の目的を見失っていたようです。

そもそも聖書には、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」とあります。この「聖別せよ」には、安息日にただ体を休める以上の意味があります。つまり、他の日とは区別して労働を離れ、神様に向き合い、心を傾ける目的です。

ですから、イエス様には、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」という問いがあるのです。

要するに、十戒を守るために守るのではないのです。2章27節。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と。つまり神の教えは人の幸せのためです。善と救いによって、人の命が生かされるように作られているのです。・・・イエス様はルールに縛られてルールだけ注目する目を、ルールを作った神様に向けさせます。

もし当時のファリサイ派の人々はイエス様のこの言葉を聞いて悟ることができれば、イエス様との対決の姿勢を取ったことに必ず後悔するだろう、と私は面白く思います。

ですからどんな場合でも、神の教えを弁えられるために、私たちの心の目が開かれるように折に触れて神に求めましょう。イエス様は私たちにももっと豊かな、もっと幸せな人生を願っておられます。・・・どうか今日の話を心に留め、いつも神様の示す本質を忘れないで、今週も生活しましょう。

 

 

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