それを思い出させたのは 一本の口紅だった
彼女は認知症状のある 70代の女性
時折パニックを起こし
「おかあさ~ん!」「助けて~!」
などと大声で叫ぶ
それは他の人々にとって
大きなストレスともなっていた
その日も 彼女の大騒ぎが始まった
どうすれば良いのだろう
ふと彼女は 女性だということに気がついた
初めてこんな 当たり前のことに気がついた
私は口紅を持って来て
彼女の唇に紅をさした
抵抗することもなく 目だけ動かして
彼女は されるがまま
静かにしていた
色づいた彼女の顔は
とてもチャーミングで かわいらしくなった
鏡を持って来て 見せた
彼女はじっと 不思議なものを見るように
長らく 自分の顔を見つめていた
そのうち 鏡を見ながら
少し横を向いたり
髪に手をやり 整え始めた
もう騒いでいない
それどころか 一言も発しなくなってしまった
この変化は いったい何なのだろう
私は彼女を 車椅子に乗せて
廊下に出た
スタッフたちは 彼女の顔を見て
「わぁ!べっぴんさん!」「どこの美人かと思ったわ」
などと口々に声をかける
彼女はやはり 無言で神妙だ
でも うっとりとその言葉たちに酔いしれている
「べっぴんさんは 取り乱したりしないんだ
こうして黙って すましているもんだ」
そんな彼女の心の声が 聞こえた気がして
私はひとりほくそ笑む
一本の口紅が 奇跡を起こした
うれしく 楽しい奇跡だった