韓国は「肉弾決戦で日本から独立」する予定だったかもしれなくもなかろなかつなくないないなけれ... | 流じゅーざの『日韓・朝韓』

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「にっかん・ちょーかん」ペースで朝鮮関連とオレの住んでいる「タイ」の話題そして女の子の話題を発信します♪
前ブログ「☆正面からぶち当たって見る韓国☆」が閉鎖されたのでこちらで再開です♪

爆  笑 バンコク在住のじゅーざです 爆  笑

 

 

 

以下、本題です。

 

まあ

 

  書くだけならいくらでも書けるからね…

 

  でも結果は日本の敗戦で独立出来ただけ…

 

そして

 

  ほとんどの朝鮮人は「日本人」として戦っていたし、銃後も守ったし、

 

  海外にでて日本軍人向けの慰安所の運営もしていた、と…

 

・中央日報「「肉弾血戦で独立」 100年前の2・1大韓独立宣言 武装独立闘争の口火に(1)」

・中央日報「「肉弾血戦で独立」 100年前の2・1大韓独立宣言 武装独立闘争の口火に(2)」

・中央日報「「肉弾血戦で独立」 100年前の2・1大韓独立宣言 武装独立闘争の口火に(3)」

 

「今年は1919年3月1日の3・1独立宣言と万歳運動から100年になる年だ。これに先立ち同年2月8日には東京に留学生が集まって2・8独立宣言を発表した。3・1独立宣言を知らない大韓民国の国民はいないはずだ。2・8独立宣言も比較的よく知られている。しかし2・1大韓独立宣言についてはあまり知られていない。まだ国レベルの公式記念行事や大々的な教育も行われていない。

◆知られていない2・1大韓独立宣言
1910年に国権を失った後、我々の民族がした最初の独立宣言は1919年2月1日(同年旧正月)に発表された「大韓独立宣言書」だ。「戊午独立宣言書」とも呼ばれる(戊午年は己未年1919年の1年前の1918年に該当する)。満州と中国本土、沿海州と米国で活動した独立運動指導者39人の名義で、中国東北地域の吉林省(正確な場所は知られていない)で発表した。2・8独立宣言や3・1独立宣言とともに2・1大韓独立宣言も記憶して後世に教育する必要がある。

◆「日帝による合併は無効」
大韓独立宣言書は日帝による合併が無効であることを堂々と宣言し、肉弾血戦で独立を完遂することを決意した。内容はこうだ。

1)日本の合併の動機は汎日本主義をアジアに拡大するものであり、これは東洋の敵だ。
2)日本の合併手段は詐欺・強迫・不法・武力によるものだ。
3)日本の合併結果は政治的・経済的圧迫で種族を抹殺し、宗教を脅迫し、教育を制限し、世界文化を阻害するものであり、人類の敵だ。
4)結論的に「天の意と人間の道理と正義と法理に照らして(日帝の朝鮮)合併は無効」だ。

◆「独立して国際社会の正義を実現」
日帝が1910年の乙巳勒約と1910年の韓日合邦条約を通じて朝鮮を侵略したことの不法性を指摘し、帝国主義の侵略性と暴力性を正確に説明した内容だ。独立宣言書は「正義の刀剣で天に逆らって国を盗んだ敵を倒し、運命を切り開く」とし「国民の本領は独立であり、人は一度はどうせ死ぬため命を惜しまず肉弾血戦で独立を完遂する」と強調した。「立ち上がれ、独立軍! 力を合わせろ、独立軍!」という言葉も見える。一言一句に強い独立の決意が感じられる。武装独立運動を本格化するという宣言、いま立ち上がろうという決起文だ。さらに、独立をつかめば軍国主義をなくし、民族平等を世界に広めて国際不義を監視するという決意まで見られる。一国の独立にとどまらず、世界に正しい国際秩序を確立するという意味だ。当時の独立志士の気概が感じられる。

1918年11月11日の第1次世界大戦終戦、1919年1月18日の戦後処理のためのパリ講話会議開催の後、弾圧されている世界の民族のうち韓民族から最初に出てきた独立宣言書だ。独立の正当性と武装独立闘争を宣言したのだ。堂々たる内容だ。

 

◆独立活動家39人の共同名義
この大韓独立宣言書は満州と中国本土、ロシア、沿海州、米国の独立活動家39人の名義で発表された。全員がそうそうたる独立闘士だ。一人を除いて生涯、独立のために力を注いだ。大韓民国の初代大統領を務めた李承晩(イ・スンマン)博士(1875-1965年)、ソウル苧洞(チョドン)(現在仁済大ソウル白病院付近)一帯の土地など全財産を売って一家40人と共に満州に亡命して独立運動に献身した大韓民国初代副大統領の李始栄(イ・シヨン)先生(1869-1953年)の名前が目を引く。

1920年の青山里(チョサンリ)戦闘を指揮した金佐鎮(キム・ジャジン)将軍(1889-1962年)、1919年に大韓民国臨時政府の憲法の臨時憲章を作成し、解放後に国会議員を務めたが韓国戦争(朝鮮戦争)で北に拉致された趙素昴(チョ・ソアン)先生(1989-1958年)の名前もある。趙素昴先生はその後、東京に行き、留学生が2・8独立宣言をするのも支援した。最初の独立宣言の2・1大韓独立宣言が2・8独立宣言と3・1運動の導火線の役割をし、臨時政府の誕生にまで影響を与えたことを表している。

解放を見ることができなかった島山・安昌浩(アン・チャンホ)先生(1878-1938年)、朴殷植(パク・ウンシク)先生(1859-1925年)、申采浩(シン・チェホ)先生(1880-1936年)も含まれている。映画『空と風と星の詩人~尹東柱の生涯~』で記憶に新しい詩人の尹東柱(ユン・ドンジュ、1917-1945年)の祖父で独立活動家の金躍淵(キム・ヤクヨン、1860-1948年)の名前も見える。大衆によく知られている独立活動家の多くが参加した。西暦1919年の代わりに「檀君紀元4252年」と檀紀で書かれ、当時の人たちの認識を確認できる。

◆3・1運動と武装独立運動の導火線
この大韓独立宣言の後、東京で2・8独立宣言を発表し、国内では全国的に3・1独立宣言と万歳運動が行われ、韓国の独立運動に火がついた。海外では武装独立運動が本格化した。翌年の1920年には満州に駐留していた日本侵略軍を相手にした洪範図(ホン・ボムド)将軍の部隊による鳳梧洞(ボンオドン)戦闘(6月6、7日)、洪範図将軍と金佐鎮将軍の部隊など複数の独立軍連合部隊による青山里戦闘(10月21-26日)があった。独立運動史の輝かしい武装闘争だ。したがって1919年2月1日の「朝鮮独立宣言書」は武装独立運動の出発点となる宣言ともいえる。

◆武装独立運動に旧日本軍が報復虐殺
もう一つ忘れてはいけない歴史的な事件がある。鳳梧洞戦闘と青山里戦闘で敗れた旧日本軍が1920年10月から数カ月間、満州の間島(カンド)一帯の朝鮮人を虐殺して村を燃やす蛮行をしたという事実だ。間島惨変または庚申惨変と呼ばれる。同年10-11月に間島で虐殺された朝鮮人は少なくとも3469人にのぼる。その後の数年間に虐殺された人を合わせると、朝鮮人被害者は数万人にのぼると推定される。独立軍に拠点を提供する朝鮮人を大々的に虐殺し、独立軍が存在する場所をなくすという非人倫的、非人道的な日本帝国軍隊の戦争犯罪だ。

 

◆旧日本軍死傷規模、韓日間の集計に差
究明すべき事実もある。青山里戦闘の旧日本軍の被害規模だ。青山里戦闘は独立運動史で輝かしい武装闘争と評価されている。韓国側の資料は旧日本軍の被害は加納連隊長を含めて1200-3000人、負傷者を3300人と推定している。具体的に見ると、朴殷植先生が1920年に中国上海で出した『朝鮮独立運動之血史』は「加納連隊長以下900余-1600余人」と記録している。詩人の趙芝薫チョ・ジフン)先生が1864年の甲申政変から1945年の光復(解放)まで近代民族運動史を整理して1964年に出した『韓国民族運動史』は「加納連隊長以下3300人」としている。中央選管委が1964年に出した『大韓民国政党史』は「1000余人」、国防部戦史編纂委員会が1967年に出した『朝鮮戦争史』は「戦傷3300人」とそれぞれ記録している。当時、一部の日本の新聞は旧日本軍の被害規模を「加納連隊長など900余人」と報道した。

しかし日本側の公式資料の被害規模はこれとは全く違う。日本陸軍第19師団司令部が当時、朝鮮人と中国人の死傷者を調査して1921年に報告した『間島事件朝支人死傷者調』は、旧日本軍の被害を戦死11人、負傷24人と記録した。旧日本軍の朝鮮軍(朝鮮駐留日本軍)司令部が編纂した『間島出兵史』も被害は少なかったとしている。1868年の明治維新以降1945年に終わった太平洋戦争まで、すべての日本人戦死者246万6584人(戦犯含む)を合祀した靖国神社の名簿でも青山里戦闘戦死者は11人だけだ。

900-3300人と11人のうちどちらが正確なのだろうか。参考に北朝鮮では青山里戦闘を独立運動史に含めていない。1912年生まれの金日成(キム・イルソン)主席が8歳の時であり、金主席と関係がないからだ。

◆100周年、歴史の傷を癒やす契機に
戦死したという「加納連隊長」が実存人物かどうかも争点だ。朴殷植先生は『朝鮮独立運動之血史』で、日本領事秘密報告書を根拠に「加納連隊長」という人物が当時戦死したと唯一実名で記録した。これに対する日本側の立場も異なる。日本側は当時「領事報告書」というもの自体の存在が確認されていないと主張する。「加納連隊長」といえる実存人物として当時の騎兵27連隊長の加納信暉大佐がいたが、彼は戦死者名簿になく、1922年まで生存して連隊長として勤務したという。

これはもう一つの日本の歴史歪曲だろうか。当時の状況を正確に究明して真実を明らかにする作業が求められる。100年が過ぎても帝国主義侵略の傷あとは依然として韓国人の胸に残っている。100周年が歴史の痛みを癒やし、新たに歴史の車輪を回す案を悩むきっかけになることを望む。」

 

 

まあ

 

  韓国人の頭の中がいかに「韓国・朝鮮」の枠の中でしか考えていないか

 

ってのがよく分かる文章なんですけどね。

 

  3月1日より2月1日の独立宣言を重視させて

 

  大韓民国の成立は1919年2月1日ニダー!と言いたいのかね…

 

韓国でよくあるのは

 

  韓国国内でしか言われていないのに「世界で認められている」としようとすること。

 

なんだが

 

  アメリカ軍の朝鮮半島進駐後に、朝鮮に凱旋?上陸しようとした「大韓民国臨時政府」の面々がその資格での入国を拒否られたのは厳然たる史実。

 

しかしホント韓国人は

 

  過去の出来事でも後世に変えられると真面目に考えているからねえ…

 

そんなだから

 

  世界で認められた日本による朝鮮併合

 

を認めずに

 

  大韓民国の建国は1919年ニダー!!!

 

といい続ける訳だけどね。

 

 

ちなみに

 

  過去にあったことをなかったことにする、ってのも少なくとも朝鮮王朝時代から続く伝統なんだけどね…

 

そして

 

  それが普通だと考えてるからなあ…

 

それについて後でもう一度書きます。

 

なお後段で書かれている日本軍の死亡者数についても

 

  日本軍は各部隊ごとに人数などきちんと把握していたからねえ…

 

ましてや

 

  軍人の恩給なども関係があるからうかつな細工は出来ないんだけどね…

  (戦闘での戦死者でないと恩給はもらえない)

 

韓国や中国みたいに

 

  記録を確認せずに「1,2、いっぱい… だから何千人でいいいや♪」

 

なんて日本はやらないんだけどね…(苦笑)

 

  南京大虐殺の被害者数が増えるのと同じやり口ですなあ…

 

 

 

  1000人以上兵隊が死ぬ戦闘があったら当然、軍隊の増派をするよな、常識で考えて…

 

  それだけでもわかるんだが…

 

お後がよろしい様で…

 

 

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