ユネスコ世界遺産失格???慶州仏国寺の景観って…今の駐車場も十分無粋だと思うけど… | 流じゅーざの『日韓・朝韓』

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バンコク在住のじゅーざです。

 

以下、本題です。

 

  別に「ユネスコ世界遺産」も大事にしてないやん…

 

っていうか

 

  仏国寺って「ユネスコ世界遺産」に指定されないだろ、今なら…

 

・ハンギョレ新聞「慶州仏国寺、マンション乱開発で世界遺産の地位揺らぐ」

 

 

慶州市など建設承認・美観地区を解除 「500メートル外であれば合法」主張 市民団体「吐含山が隠れ大問題」  「伽耶遺跡」釜山福泉洞の古墳群も 相次ぐ再開発で遺産登載の“障害物”

 

世界文化遺産である慶州(キョンジュ)吐含山(トハムサン)の仏国寺と、伽耶の代表遺跡である釜山市東莱(トンネ)の福泉洞(ポクチョンドン)古墳群(以上、国家史跡)が、最近周囲の高層マンション団地建築計画が確定し、景観が破壊される危機に立たされた。釜山市と慶州市が10~30階の高層アパート再開発計画を相次いで承認ないし通過させ、マンションの新築が秒読みに入った。

 

伽耶圏最大規模の4~5世紀墓群で世界遺産への登載を推進中の福泉洞古墳群の場合、1月25日に開かれた釜山市文化財委員会で遺跡を取り囲む福山1区域の住宅再開発事業地(面積12万2600坪)に5~32階建ての高層マンション団地建設を許容する現状変更審議案が通過したと発表された。福山1区域は、2000年代初めから住民組合が結成され、以来10余年間にわたり高層団地再開発を推進してきたが、文化財委員会と釜山市文化財委が8回にわたり開発案を否決してきた。

通過した案は、古墳群、東莱邑城など伽耶・朝鮮時代の遺跡に隣接したところは5~9階に高さを調整するものの、少し離れた背後区域一帯は32階建の建設まで可能なように規制を解くことが骨子だ。団地の場所も、市の指定文化財である東莱邑城の内側だ。このまま建設が進められれば、古墳群はマンションに囲まれて景観が蚕食された島のように孤立し、邑城址のき損も避けられないと専門家たちは憂慮する。考古学者のシン・ギョンチョル釜山大学名誉教授は「福泉洞古墳群と東莱邑城の領域は、釜山で遺跡密集度が最も高い」として「伽耶史の復元が国政課題に含まれ、古墳群の世界遺産登載まで推進中の市側が、決定的な障害物を自ら置いた格好になった」と批判した。

慶州吐含山の仏国寺も景観破壊問題の渦中に入った。慶州市は2015年、仏国寺宿泊村の前にある進ヒョン洞駐車場1万5000坪余りに14階建の高層マンション10棟(730世帯)の建設を承認(昨年8月完工)したのに続き、昨年7月、この団地の前の3900坪余りの敷地に14階建ての住宅商店複合マンション5棟(337世帯)とオフィステル1棟を作る2次事業を相次いで承認し、文化財界の反発をかっている。市はこれに先立つ2010年、自然緑地地域だった1・2次団地建設用地を特別な理由もなく、美観地区指定をせずに高層建物の新築が可能な一般商業地域に用途変更した背景をめぐり、疑惑が起きてもいる。

再開発の場所は仏国寺から直線距離で820メートル離れたところだ。進入路から見れば、1次団地のマンションが吐含山の景観を正面から隠す姿を見ることができる。これと関連して慶州古都保存会は1月に声明を出し「慶州市は違法な土地用途変更の真相を明らかにせよ」として「監査院、行政安全部、慶尚北道は、市側の土地用途変更と高層許可に対する行政監査を施行せよ」と要求した。保存会側は、当局が対策を出さない場合、ユネスコ世界遺産委員会に助けを要請する方案も検討している。

慶州市と文化財庁側は「建築審議など適法な行政手順を踏んでおり、国家史跡の境界から500メートル以内を歴史文化環境保存地域に指定した文化財保護法にも反していない」という立場だ。しかし、イ・ジョンナク慶州古都保存会長は「指定文化財の境界から500メートル外で工事をしても、文化財に影響を及ぼすことが確実だと認められれば500メートルを超えて範囲を定めることができる文化財保護法の規定により、当局が積極的に景観のき損に対応しなければならない」と指摘した。学界では、ユネスコが眺望景観の保存を世界遺産登載維持の重要条件として規定しており、乱開発が度重なれば仏国寺の世界遺産の地位が揺らぎかねないという見解も出ている。 」

 

 

  仏国寺はオレのライフワークのひとつです。

 

下の写真は実際に行ってみた仏国寺。

 

 

この角度が一番見栄えのする角度。

 

記事に出ている

 

>仏国寺宿泊村の前にある進ヒョン洞駐車場1万5000坪余り

 

ってのは下の地図のバス停のところかな?

 

 

2年前に訪問した際はまだ駐車場でした。

 

 

次に行ったら変わっていそうだね。

 

ここから仏国寺や石窟庵、そして慶州に向かうバスが出ています。

 

しかし

 

>学界では、ユネスコが眺望景観の保存を世界遺産登載維持の重要条件として規定しており、乱開発が度重なれば仏国寺の世界遺産の地位が揺らぎかねないという見解も出ている。

 

って言っても

 

  この駐車場から仏国寺も石窟庵も見えないんだけどね…

 

なお、

 

  仏国寺は「石窟庵と仏国寺」として韓国初のユネスコ世界遺産として登録されたんだけど…

 

  本来仏国寺が「ユネスコ世界遺産」に登録されるべきかどうかははなはだ疑問です。

 

何故か?

 

その前にまず仏国寺について「プサンNAVI」から説明文を引用してみます。

 

>アンニョンハセヨ、ナビです。慶州を訪れる誰しもが必ず足を運ぶ場所といえば、それはやはり仏国寺(プルグッサ)でしょう。1995年にはユネスコの世界遺産にも認定され、韓国が世界に誇る宝となっています。仏国寺では6つの国宝を始めとして統一新羅時代に作られた貴重な文化財をたっぷりと味わうことができます。また仏教の教えから見れば、ここは俗世を離れ清浄たる仏の世界に足を踏み入れる場所でもあります。仏の国を訪ね、極楽浄土に導かれる場所。それが仏国寺です。 

 

> 吐含(トハム)山の中腹に位置する仏国寺は大韓仏教曹渓宗第11教区の本寺であり、韓国を代表する寺院として広く知られています。仏様の世界である仏国土を現世に再現することを目的として建設されたと言われています。創建の時期はさまざまな説がありますが、528(法興王15)年に法興王の母、迎帝夫人の発願によって建設されたという記録が『仏国寺古今創記』に出ています。その後、増築、改修を繰り返しつつ約1000年に渡って繁栄を続けましたが、16世紀末に起こった文禄・慶長の役で大半の建物が焼失してしまいました。現在見ることのできる仏国寺の姿は朝鮮時代後期、また1968年の発掘調査を踏まえて1973年に復元されたものです。

 

 

ここでは

 

  当然のごとく日本の朝鮮総督府が大枚をはたいて行った仏国寺の修復については無視しています

 

朝鮮総督府による修復前の仏国寺

 

朝鮮総督府修復後の仏国寺

 

朝鮮総督府による修復前の青雲橋・白雲橋(韓国の国宝23号)

 

朝鮮総督府による修復後の青雲橋・白雲橋(韓国の国宝23号)


朝鮮総督府はこの寺も含む朝鮮半島内の寺院などの修復に巨額の資金をつぎ込んだんですけどね。

なお、日本語版のウィキペディアに書いてある以下の文章

李氏朝鮮太宗による1407年(太宗7年)の仏教弾圧の際、存続を許された88寺院の中に名前がなく、既に荒廃しており廃寺になったようである。世宗による1424年(世宗6年)の仏教弾圧の際、存続を許された36寺院の中にも名前がなく、引き続き廃寺のままだったようである(朝鮮の仏教#李氏朝鮮時代の仏教弾圧)。

これも

  大間違い

で、仏国寺は朝鮮王朝時代を通じて

  仏教寺院としての機能を持ち続けた

と考えています。

  そもそも寺院を排したはずの世宗自身によって「仏法僧」の印璽を与えられていますしね。(苦笑)

これは仏国寺の歴史を紀年式にまとめた『仏国寺古今創記』という古書(併合時代に公刊された)に

  その連綿たる歴史がかかれていることでも分かります。

なおそこには

  慶長文禄の役の後もいくつもの建物が建てられ、朝鮮王朝の王妃などの寄進があったことも記されています。

朝鮮王朝時代を通じて仏国寺が寺院として(一応)機能していたことは、今後又勉強を追加して書きたいと思います。ただし朝鮮王朝末期に訪問した日本の関野貞先生によると寺院に勤めていた僧侶たちは仏典の意味を理解を出来ていなくてただ伝えられた経典を読むだけの存在になってしまっていたそうな…

ああ、ちなみに

  慶長の役の時に先鋒として慶州を攻略した加藤清正が仏国寺を焼いた

という風に

  韓国人は信じているし、いまだにそう吹聴されています

が!!!

  これも捏造です(きっぱり)

よっぽど

 

  加藤清正が憎いんだろうけどね…(苦笑)

加藤清正が慶州を攻略したのは1592年4月なんですが、

  『仏国寺古今創記』によれば仏国寺が戦火で焼けたのは1593年になってます。

この年代は

  現在仏国寺で販売されているパンフレットにも書かれています。

この件は蔚山で韓国人の歴史研究家とも話しましたが、韓国人の意識の中では

  加藤清正=蔚山=仏国寺

という連想から来ているみたいですねえ…(呆)

でも加藤清正が蔚山に駐留したのは文禄の役じゃなくて、慶長の役(1597~98年)のときなんだが…

確証はないものの、仏国寺が焼けたとしたら

  慶尚道を支配していた毛利輝元の配下の軍が釜山に撤退する際に近隣を焼いた話があるので、その時かもしれないと考えています。

いずれにせよ、

  小西行長の後を追って拙速な行軍を行なっていた加藤清正軍に、わざわざ寄り道して仏国寺を焼く動機も時間もなかったのは間違いないです。

いずれにせよ、

  文禄・慶長の役の後にも多くの伽藍が建てられたのが仏国寺の現実。

しかし

  だからといって仏国寺自体が「ユネスコ世界遺産」に値するかは別問題。

何故なら

  現在の仏国寺寺院の建物は全部が朴正煕大統領の時代に復元?されたものだから…

仏国寺で新羅時代から残っているものは石造の塔などばかりで、

  木造建築物は新羅とはまったく関係ありません。(きっぱり)

え?何故断言できるかって???

だって

  仏国寺の復元を指揮した本人が書き残してますもん…

たまたま手元にある(たまたま?)

  金正基著『韓国の遺跡を掘る』(学生社、1981年)

に仏国寺発掘を復元を指揮した氏の回顧談が載っています。

 

 

 

 

「こうした復元の結果、仏国寺の様相は韓国唯一の古代伽藍の型式-薬師寺式伽藍形式」-を持つ寺院であり、境内の各建物は韓国に現存する木造建築の各様式のもの、すなわち

  高麗、李朝初期・中期・末期

および大仏、禅宗様式系統と、翼拱様式のある

  建築博物館的な要素をもつ

ようになった。」
(同書248P)

これは

  仏国寺の発掘と復元に実際に関わった人間の証言なので重みがあります。

まあ、元々

  新羅時代の木造建築物なんて一つも残っていないんだから仕方ないんだけどね

とはいえ

  仏国寺も年々いろんな建物が追加され、立て直されてきたことは発掘調査でもわかったわけだから

  どの時点の仏国寺を復元すべきか、って言う議論自体が不毛なんだけどね…

でも、確か

  ユネスコ世界遺産って、新しく手を入れたものは登録できないんじゃないの???

朝鮮王朝末期の仏国寺はろくに建物が残っていなかったので、

  ほとんどが高麗や朝鮮王朝時代の建物を参考に勝手に復元?したもの

これは

  今ならユネスコ世界遺産登録できないでしょう???

たしかミャンマーのパガンの仏塔群は古い仏塔が多くそのまま残ってるけど、一部の仏塔が地元民によって改造されて今も使われている、という理由でユネスコ世界遺産に登録できない、と聞いたんだが…

  1973年に完成した建物の仏国寺に世界遺産の資格はないと思うのだけどねえ…

ああ、ちなみに

  韓国のユネスコ世界遺産第1号の「石窟庵と仏国寺」のユネスコ世界遺産認定証の原本は行方不明だそうです…(汗)

・「韓国、なくしたと思っていたユネスコ世界遺産の認定証が2件だけ見つかる=韓国ネット「どうやったら原本をなくせるの?」「韓国らしい話だ」」

それに1968年に発掘調査がされた仏国寺前の「九品蓮池」の資料が一昨年位に

  再発見された

なんて記事もあった気がします。

どんだけ

  資料の保管が適当なんでしょうか???

こんな国では

  まともな文化財管理が出来る訳はないですねえ、残念ながら…

まあひとつだけ言えるのは

  仏国寺の木造建築を見て「新羅時代」に思いをはせるのは無意味なのでやめましょう(きっぱり)

 

お後がよろしい様で…

 

 

 

 

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