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バンコク在住のじゅーざです。
以下、本題です。
オレは今、1980年代後半から1890年代の日露そして朝鮮との関係について調べています。何故なら大方の理解と違って
ロシア帝国が朝鮮半島に具体的に手を出し始めたのは日清戦争開始後だから。
それ以前というのは実はロシアは
清に遠慮しつつ朝鮮の現状維持を第一に考えていたことがロシア語資料から明らかになって来ています。
一方、1884年以降ロシアは朝鮮の現地踏査を非常に活発化させて
まさに日露地理情報戦争というべき状況に突入します。
さて、そんな中
1898年に北部朝鮮を踏査した…
A.I.ズヴェギンツォフ( ̄∀ ̄)
こと
アレクサンドル・イヴァノビッチ・ズヴェギンツォフ( Алекса́ндр Ива́нович Звегинцов )
先に
ズヴェギンツォフには秘密があるのだあああ!!!
と
秘密を明かさないまま終わる少年漫画みたいな展開
になりました
・過去エントリー:【日露戦争前夜史】A.I.ズヴェギンツォフとN.A.コルフの事績…(その1)
が、
実際ズヴェギンツォフには特殊技能がありました。
それは
炎のスタンド使い!!!
ではなくて…
測量技師
中でも
天測技師
として技能です。
下の地図は、外邦図(戦前日本の軍関係者などの作成した地図)の研究者である
小林茂教授
![]() |
外邦図――帝国日本のアジア地図 (中公新書)
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が
アメリカ議会図書館で発見したこの地図( `ー´)ノ
それが
КАРТА СЕВЕРНОЙ КОРЕИ(ロシア語で北部朝鮮地図)
1903年に作成されたこの地図
これについては
日本国際地図学会名誉会員 金窪敏知氏
『外邦図ニューズレター』No.7(2010年3月)所収の「ロシア軍による日露戦争戦場の地図作製」
が少しだけ言及していますが、主題だったグルシュコフ教授の「日露戦争の戦場の地図作製」からは少し離れていたためか、詳しい言及はありませんでした。
しかし、この右下に書いてあるのが…
АСТРОНОМИЧЕСКIЕ ПУНКТЫ ВНУТРИ СТРАНЫ(国内天測地点)
ここの項目に書かれている
天測者2名
が…
A.I.ズヴェギンツォフ(左側)
と
I.I.ストレリビツキー(右側)
(И.И. СТРЕЛЬБИЦКИЙ)
です。
ストレリビツキーについてもすでに書いています(過去エントリー)が、
両者ともロシア軍の誇る測量技術者で、北部朝鮮の測量を行っていた
ということがはっきり分かります。
「天測」というのは測量を行う際の基準点を決めるために、北極星などの基準となる天体の位置を計って緯度・経度を決定する重要な役目
そしてそのためにはクロノメーター(精密時計)などの多くの専門的な測量器具が必要になります。このため、1995、6年に朝鮮を踏査したロシア人と違って
非常に本格的な測量だった訳
で、このため
このためにズヴェギンツォフの踏査チームは大人数のチームになったのです。
1898年3月に旅順(ポート・アーサー)を租借したものの、この港は軍港として大きな欠陥を抱えた港であったことは以前から知られており、それを補填するためにも
ウラジオストックと旅順を東清鉄道南部支線よりも短時間に結べる
浦旅(うらりょ?ほりょ?どちらでも語呂が悪い)線計画のための探検隊踏査隊を送り込み
きっちり北部朝鮮の地形の測量を行った訳です。
これこそが
1898年のズヴェギンツォフとコルフの北部朝鮮踏査の真の目的だったのだああああ!!!
さらにいうと、この踏査地域は
1896年6月の山縣・ロバノフ協定の秘密協定にある「緩衝地帯」の精査をあったかもしれません。
さらに踏み込むと
日露戦争直前の交渉の中でロシア側が提案してきた「中立地帯」として北緯39度線以北がこの地図にほぼ当てはまります。
まだ確認中で当時のロシアの朝鮮半島進出の本気度(鴨緑江沿いに動いたベドブラゾフの動きは除く)は不明ですが、
ロシア側はかなり慎重に、精密に朝鮮北部地域をチェックしていた
という一つの証左になるんじゃないかと思います。
もっとも朝鮮半島の地形調査は
1895年から日本、ロシア両国によって本格的に開始されていました。
それこそが
「裏日露戦争」こと「日露朝鮮測量戦争」となる訳です。
まあこの時点では戦ってません、っていうかむしろ表面上は友好的なふりをしていたんですけどね。(苦笑)
次回は実際に発行されたズヴェギンツォフとコルフによる『北部朝鮮軍事要覧』の現物を見てみましょう。
こんかい終わり
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